「不浄観」
【解説】
次のところも、異性への愛著の捨断、特に不浄観についての考え方が、淡々と続いています。
これについても詳しい解説はしませんので、皆さんの思索の材料にしてください。
現代の日本は大変清潔な国なので、こういう不浄観もなかなか受け入れられがたいかもしれませんが、これも伝統的な仏教の見解なので、深い瞑想に入る一助として、しっかりと理解するべきだと思います。
特に現代では、メディアの発達により、若い頃から、多くの人が、汚れた性的イメージを大量に入れているので、異性の肉体への誤ったイメージが根付いてしまっています。そのイメージから生じる、余計な愛欲の生起がありますね。それを破壊するためにも、こういう不浄観の修習は大切だと思います。
【本文】
愛欲は実にこの世と来世で、不幸を生ぜしめる。この世では拘留、死罪、切断により、来世では地獄等によって。
それを得るために、娼婦の主たちに、何時が幾度となく手を合わせ、それを得るために、罪悪あるいは悪い評判さえも、かつては意に介せず、また自身を危険に投じ、さらに財産を浪費し、またそれを抱擁して至上の歓楽を覚えたるもの、--それはまさにこの骨であって、他のものではない。その骨はいまや全く自由で、所有主のないものである。なぜ汝はほしいままに抱擁して、歓楽にふけらないか。
かつては恥じらいのために下に向けられていたが、やっと今、上に向けさせられた(愛人の顔)、それはかつてそれを見た目に対しても、見たことのない目に対しても、面皮で覆われていた顔、その顔が、ハゲタカによって、あたかも汝の苛立ちに耐えかねたように、今、覆いを取り去られた。それを身よ。今汝はなぜそれから逃れ去るのか。
また、他人の目にさらされぬように保護されていた(愛人の体)は、いまやまさに(野獣に)食われようとしている。嫉妬深き者よ。なぜ汝はそれを保護しないのか。
ハゲタカその他が貪り食うこの肉の塊を見て、彼らの餌食が、花輪、ビャクダン、装飾によって供養されている(ということを知るだろう)。
かように動きもしない骸骨を見てすら、汝に恐怖が生ずる。それなのになぜ汝は、いわばある屍鬼によって動かされている(生ける人)に対し、恐怖を抱かないか。
それが覆われてあったときにすら愛著を感じたのに、覆いが除かれると、なぜそれを嫌悪するのか。もしそれには何の用もないというなら、なぜ覆われたものは愛撫せられるか。
愛人の唾と排泄物は、同じ食物から生ずる。そのうち、排泄物は汝に好まれないが、なぜ唾は好んで飲み込まれるか。
綿の入った布団は肌触りが柔らかくても、悪臭を発しないので、愛欲者に喜びを起こさせない。彼らは不潔に惑わされているからである。
もし汝が不浄物を愛さないなら、なぜ他人を抱擁するのか。それは泥の肉に塗られ、腱で結ばれた骨の籠ではないか。
汝自ら多くの不潔物を抱えている。それで全く満足せよ。汚物を貪る者よ。汝、他の不潔の袋たる女を忘れ去れ。
「私は、その肉を愛する」と言って、汝はそれを見たいと思い、触れたいと願う。なぜ汝は、本来無意識である肉を望むのか。
汝の望むところの心は、見ることも触れることもできない。そして見たり触れたりすることのできるもの(肉体)には、意識の働きはない。なぜそれをむなしく抱擁するのか。
他人の身体が不潔であるのを汝が知らないことは、まだ不思議ではないかもしれない。
しかし自己の身体が不潔であるのを理解しないとは、驚くべきことである。
雲の晴れた日光に照らされて開いた新鮮な蓮華を顧みずに、不潔に心の奪われた人は、汚物の籠に何の喜びを感じるか。
泥等は不潔物に汚れているので、それに触れることを汝が望まないというなら、なぜ不潔物が現われる肉体に、汝は触れようと望むのか。
もし汝が不浄物を愛さないなら、なぜ他人を抱擁するか。それは不浄なる種子より、不浄なる田において、それによって成長したものではないか。
不浄物から生じた小さな不浄のウジを、汝は好まない。しかし、同じく不浄物から生まれ、多大の不浄からなるこの人身を、汝は好む。
汚物を貪る者よ。汝は単に自身の不浄性を嫌悪しないばかりでなく、他の不浄物の容器(肉体)までも望む。
心地の良い樟脳や、米、食物、調味料等も、口から吐き出されたならば、その土地までが不浄とせられる。
もし目の当たりに見ながら、汝がかような不浄を信じ理解しないならば、墓場に置かれた他人の恐るべき身体を見よ。
その身から皮がはがされたときには、大いなる恐怖が生ずる。され、そこではこれを正しく眺めながら、なぜ(他の場合には他人の身体に)愛欲を感ずるか。
身につけられた香気も、ビャクダン油(等の香料)から発するものである。他から発する香気によって、なぜそれとは別のものに愛著するのか。
もし、本来の悪臭のために、それ(肉体)に人が愛著を感じないなら、それはすばらしいことではないか。
なぜ世の人々は、不幸を望むように、それ(肉体)を香料で塗るか。
ビャクダン油が芳香を発すれば、身体に何の利益があるか。他の発する香気によって、なぜそれとは別のものが愛著せられるか。
裸の身は、本来は(ほうっておいたならば)、泥垢にまみれ、長い髪と爪、垢だらけの黄色い歯など、すさまじいものである。そうであるならば、なぜ自我を傷つけるように、刀剣を磨くように、努力してそれを清めるのか。大地は自我を欺くに熱心な狂人で満ち満ちている。
墓場にあるいくらかの骸骨を見て、汝はそれを厭う。しかし、人里という墓場で遊ぶ骸骨の群れを汝は喜ぶ。
-
前の記事
覚者の心の宝(20) -
次の記事
覚者の心の宝(21)