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「三つのグナからなる幻影」

◎三つのグナからなる幻影

【本文】
 世の人々は、三つのグナから形成された万有に幻惑され、
 私がこれら三つのグナを超越した無限不滅の存在であることを知らない。

 世の人々が、これら三つのグナからなる幻影に、惑わされずにいることは非常に難しい。
 だが私にすべてをゆだねて帰依する人は、簡単にその危難を乗り越えられるであろう。

 だが無智なる者、悪をなす者、最低の者、
 幻影に惑わされ魔の性質を持つ者たちは、決して私に帰依しようとはしない。

 だが、アルジュナよ! 苦悩を持つ人、探究心が強い人、幸福を求める人、完全なる叡智を求める人、
 これら四種類の人たちは、私を心から礼拝するのだ。バーラタ族の中で最も優れたる者よ!

 はい。これはまず、
「世の人々は、三つのグナから形成された万有に幻惑され、私がこれら三つのグナを超越した無限不滅の存在であることを知らない。
 世の人々が、これら三つのグナからなる幻影に、惑わされずにいることは非常に難しい」
と。
 こないだもね、ちょっとたとえ話をしたけども、マーヤーの話ってしたよね。クリシュナの弟子がマーヤーに巻き込まれる話って、前したけども。われわれはだから、この時点でもう巻き込まれてます(笑)。われわれはものすごい秘密のチャンスを握っているんですね。秘密のチャンスっていうのは、夢の中にいながら、夢から覚めるきっかけとなる夢を見てるんです、今(笑)。でも決して目覚めているわけではない。もちろん世の人々もみんなそうで。それはこの三つのグナが織り成す幻影の中に、完全に巻き込まれてしまってる。われわれはその幻影から心が外れてないから――外れてたらね、客観視できるわけですよ。「あれ? これ三つの幻影があるけど、これ本物かなあ。あ、こっちクリシュナだなあ」――そういう見方もできるんだけど、じゃなくて入っちゃってるから(笑)。いつも幻影の中に完全に巻き込まれてるから、これを超えた至高者、バガヴァーンっていうのを認識したりとか、それを悟ったりっていうのは非常に難しいんだよと。これは当たり前のことだね。もうその幻影の中に完全に取り込まれてしまっている。
 でもね、われわれがね、その幻影の中にいながら、こういったギーターにめぐり合う。あるいはそこで、言葉上だけども真実――「言葉にできない真実を一応言葉にしたもの」を学べるっていうのは、これはまさにサットヴァの働きなんです。
 これは前も言ったよね。ラジャス・タマス・サットヴァっていう三つのエネルギーによって、すべての幻影の世界が現われてるんだけど、三つとも幻影の世界なんだけど、このサットヴァだけは、幻影なんだけどいいやつなんです(笑)。幻影なんだけど、われわれを真実に導く幻影なんだね。これは理解しておいたらいいね。
 この辺が非常に面白いところだね。この三つっていうのは、すべて幻影なんだが、サットヴァがないとわれわれは悟れない。サットヴァっていうのは透明なエネルギー。それから光のエネルギー。この光とか透明さっていうのがないと――つまり、サットヴァそのものは悟りじゃないんです。真理そのものじゃないんです。しかしこのわれわれの心を透明にし、光を強めてくれるサットヴァっていう存在がないと、あっち側にある真理っていうのを、われわれは見ることができない。でもサットヴァもまた、この世のマーヤーの一つに過ぎないことは変わりない。
 はい、そして、「世の人々が、これら三つのグナからなる幻影に、惑わされずにいることは非常に難しい」んだが、「私にすべてをゆだねて帰依する人は、簡単にその危難を乗り越えられるであろう」と。
 これがつまり秘儀なわけですね。バクティ・ヨーガの秘儀。
 バクティ・ヨーガの秘儀っていうのは、結局帰依なんだね。結局、至高者――完全なる、これはさっき言ったように、仏教でいう如来でもいいし、ヒンドゥー教のクリシュナでもいいし、シヴァ神でもいいんだけども、完全なる絶対者――に対して、自分のすべてを預けられるか、投げ出せるかなんだね。
 結局、そこで生じる智慧っていうのは、与えられるものなんだね。われわれがああだこうだ考えて到達するっていうよりは、われわれが絶対者に自分を投げ出したときに与えられるもの――それが智慧なわけだね。完全な智慧というか。

◎至高者を心から礼拝する人

 はい、しかし、「無智なる者、悪をなす者、最低の者、幻影に惑わされ魔の性質を持つ者たちは、決して私に帰依しようとはしない」と。世の中のほとんどはこうだね。
 「だが、アルジュナよ! 苦悩を持つ人、探究心が強い人、幸福を求める人、完全なる叡智を求める人、これら四種類の人たちは、私を心から礼拝するのだ」と。
 この四つのパターンの人っていうのは、もちろんこれらが全ていきなりクリシュナを礼拝するわけじゃないけども。例えば一番目、苦悩を持つ人。これはまさにね、仏教、原始仏教のパターンだね。お釈迦様は、いつも言うように、お釈迦様が悟って一番最初に説いた教えっていうのは、「この世は苦ですよ」と。
 これは非常に深い意味があってね――前も言ったけど、私、小学校のころにお釈迦様の「漫画・四諦八正道」とか読んで(笑)。それはお父さんが買ってきたんだけどね。自分としても別に修行とか仏教とか興味なかったけども、でも悟りってなんか興味があったんです。「悟りって何?」と。「なんか曖昧に悟りとかよく言うけども、なんだろう」と。それを見て読んでたら――お釈迦様が悟りましたと。人々に教えを説きましたと。この世は苦ですよと――「え? 何それ?」と(笑)。「それ悟り? わけ分かんないな……」って(笑)、子供のころ思った経験があって。ただ自分がいろいろ修行を進めていったら、「あ、なるほど」ってだんだん分かってきた。つまり、この世は苦なんです。まさにね。それを認識できること自体が素晴らしい悟りなんだね。
 これは、いろんな形でみんなにも何回も言っているけども、この世でのわれわれの経験っていうのは、当然苦楽があるわけだね。で、苦楽があるっていうのは、苦なんです(笑)。それはいくつかの説明をしたけどね。
 例えばこないだの勉強会で出てきたけども、われわれっていうのは皮膚病の患者みたいなものだと。皮膚病を掻かなければ治って、完全に楽になるんだけど、皮膚病を掻いてしまうと。この掻く喜びを追い求めているようなもんであってね。この皮膚病が、掻いた時に気持ちがいいと。「だから、この世は楽でしょう?」――これがわれわれが言っている「楽」なんです(笑)。違うよと。皮膚病自体がちょっと問題なんだよと。だから皮膚病なんだよっていうことを知ることが、お釈迦様が第一に説いた、この世は苦ですよっていうことなんです。この世の楽――われわれが普通に楽って呼んでいるものっていうのは、苦をちょっとごまかしたときの楽なんです。絶対的な楽じゃないんだね。ベースに苦があって、それを誤魔化しているときの楽なんです。
 だからこれはちょっと、ある意味では高度な悟りなんだね。そこまで悟ってなくても、これは一つの修行に入るパターンではある。つまり、いろんな苦を感じて、しかしそこでね、心が苦しみによって卑屈になる人もいるだろうし、あるいはちょっとニヒリスティックに、「いやあ、この世はこんなもんだよ」ってなる人もいるだろうけど――そうじゃなくて、お釈迦様みたいに、「いや、なんてこの世は苦なんだ」と。「しかし私はここから、何とかして逃れる道があるはずだ」と。「この苦を超えたい」って思う人がいる。これが第一番目のパターンね。この「苦悩を持つ人」。
 だから単純に苦悩を持つ人がみんな、クリシュナを礼拝するわけではない。苦悩を持って、この世の苦の真実っていうのを、まがりなりにもちょっとでも気づいて、そこから脱出したいと思う人ね。これが第一だよと。
 お釈迦様の縁起の法でも――縁起の法っていうのは面白くて、まず無明から始まって、無明・行・識・名色……ってずっと続いていくわけだけど、最終的に最後に「苦」が来る。つまりわれわれが錯覚によって宇宙に巻き込まれ、いろんな執着を持ったり怒りを持ったりして、わーって巻き込まれて、最終的にこの世に生まれて苦を味わいますよと。まずここまではあるんだけど、この続きがあるんだね。 苦を持ったわれわれは、信を持つっていうんです。信。つまり教えに信を持つ。信を持って、悦・喜・軽安・楽とかそういう段階を踏んでいって、最終的にまた悟りを得るっていうシステムがある。つまりどういうことかっていうと、これも何回か言ってるけども、例えばこの宇宙に錯覚をもってわーって飛び込んできた初めのころの人っていうのは、この宇宙にまだ多くの喜びの幻影を抱いてる。「この世は楽しいんじゃない?」って思ってる。その人生を七十年八十年と生きて、その中で幻影を追い求めてるから、本当は結構苦しいこともいっぱいあるんだけど、「でも、まあ楽しかったかな」って思って死んでいくと。これを何度も何度も繰り返すうちに、魂の経験として、「やっぱり苦しいな」っていうのが分かってくる。「なんか違うな」と。「え? ちょっと待って」と。「私はそんなものはいらないな」っていう――つまり、われわれの心の本質っていうのは絶対的な――ヨーガ的にいうとサチダーナンダっていうわけだけど――魂が本質的に持っている素晴らしい状態っていうのを知ってるんだね。知ってるんだけど、錯覚によって、この宇宙が素晴らしいと思って飛び込んじゃった状態。その錯覚がだんだんさめてくるわけです。いろいろ経験してるとね。最終的に、悟ってはいないんだがいろんな経験したから、少なくともこの世は苦しいって気づいてくるんです。
 この世は苦しいって、散々いろんな経験して気づいた人がやっと、「何かないか?」と。「何かここから脱却する道はないか」といって、教えに信を持つんです。これが「苦を条件として信が生ずる」っていうんだね。つまり、単純にまだいろんな幻影を追い求めているから私は苦がないんですよと。いや、それは経験が足りないだけだと。本当に経験しきっている人っていうのは、あまりこの世のものに興味を持たなくなる。あるいは逆に苦悩を感じるようになってくる。これはいい意味でね。カルマが悪くて苦悩を感じるんじゃなくて、もう前生でひたすら経験してるから、確かにそれは喜びでもあるんだけども、それが同時に持つデメリットもよく知っている。あるいはその空しさとかもよく知っている。よく知っているっていうのは、心の奥でよく知っている。だからあまりそういうのに興味を持たなくなって、それを超えた道というのを探し出す。これが「苦を条件として信が生ずる」だね。
 この苦悩を持つ人っていうのは実際は、言い換えると、過去世において多くの人生経験をなし、この世のさまざまなデメリットに気づいちゃった人――という意味だね。
 はい、では二番目は「探究心が強い人」。これはさっき言った、真実は何なんだろうかと。ね。一体真理とは何かと。人間とは死んだら一体どうなるんだろうかと。われわれの存在とは一体何なんだろうと――こういうことをね、単純に本を読んだとか、あるいは教わったとか、この世の常識とかに惑わされるんじゃなくて、「実際にわれわれは、リアリティをもってそれを知りたいんだ」と。このように思う人だね。こういう人も真剣に修行の道を歩むようになる。
 はい、そして「幸福を求める人」。これはさっきの「苦悩を持つ人」と裏腹だけども、つまり、単純なこの世の幸福では飽き足らない――つまり現世的な目から見ると、修行者っていうのは、いつも思うけど、ある意味欲張りなんだね。これは錯覚する人がいるんだけど、修行者っていうのは幸福をあきらめたのかと――そうじゃないんだね。こんな幸福じゃ足りないと(笑)。ね。普通の人が求めるような幸福っていうのは、多くのデメリットがあって、それから限界もあって、無常性があると。そんなのでは私は満足できないんですよと。普通はね、「いや、そんなの当たり前でしょう。人生そんなもんですよ」って感じであきらめるんだけど、あきらめられなかった人。「いや、絶対、本当の幸福があるでしょう」と。「私、そんな気がしますよ」と。「隠さないで教えてください、神様」と(笑)――これが、修行者なんだね。これが三番目のパターンだね。
 はい、最後に、これは探究心とかとも関わるけども、「完全なる叡智を求める人」。つまり私は悟りたいと。ね。しかもそれは単純な、ちょっと修行して気持ちよくなったとか、そんなレベルじゃなくて、全知――つまり、完全なる覚醒を私は得たいんだと。そういう素晴らしい志を持つ人。
 この四つのタイプの人は、私を心から礼拝する――つまり、単純に形式的な修行とか宗教とか教えに満足するんじゃなくて、絶対的な存在――バガヴァーン、あるいは至高者――この絶対者のところに必ずたどり着くんだね。そしてその重要性というかな、素晴らしさというものを直感的に悟り、礼拝するようになると。

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