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「ヴィヴェーカーナンダがアメリカの少数の弟子に対して説いた教え」1895年6月24日

1895年6月24日(月)
(今日の朗読は、ナラーダ・バクティ・スートラからであった。)

「神への極限の愛がバクティである。
 この愛は真に永遠であり、それを得れば人は完全なる満足を得、失うことに悲しみを感じなくなり、決して嫉妬することがない。
 それを知れば、人は狂ってしまうのである。」

 師はよくこうおっしゃっていた。

「この世は狂人たちの病棟だ。すべての人が狂っている。ある者は金を、ある者は女を、ある者は名声を追い求めている。神を求める者はわずかだ。私は神を求めて狂う方がいい。
 神はわれわれを一瞬にして黄金に変えてしまう賢者の石だ。形はそのままだが、本質が変化する。――人間の姿はそのままなのだが、もうこれ以上、われわれは人を傷つけたり、罪を犯したりできなくなるのだよ。
 神を思いながら、ある者は泣き、ある者は歌い、ある者は笑い、ある者は踊り、ある者は素晴らしいことを言う。しかし皆、神以外のことは話さない。」

 預言者たちは教えを伝道するが、ジーザスやブッダやラーマクリシュナのような化身たちは、宗教を与えることができる。
 一瞥、一触れだけで十分だ。
 それは聖霊の力――按手――である。その力は実際には師によって弟子に送られる――グルの御力の連鎖なのだ。
 それは真の洗礼であり、無数の時代に渡って伝えられてきた。

「バクティは、何か欲望を叶えるためには利用され得ない。それ自体が、一切の欲望を抑制する。」

 ナーラダは、愛の印としてこれらを説く。

「すべての思考、すべての言葉、すべての行為を主に明け渡すならば、神を少しでも忘れていることに人は強烈な悲しみを覚え、そこで愛が生じる。
 社会と聖典の習慣を超越した人、それがサンニャーシーである。
 魂全体を神に向けているならば、神だけに帰依しているならば、われわれはこの愛を今にも得ようとしているのだと知るのだ。」

 あなたが聖典なしでやっていくのに十分な強さを得るまでは、聖典に従いなさい。
 そしてそれらを超えて行くのだ。
 書物は究極の目的ではない。
 現証は、宗教的真理の唯一の証明である。それぞれが自分自身のために現証しなければならない。そして「私は見た。しかしあなたは見ることができない」と言う教師は信用してはならない。「あなたも見ることができる」という教師だけを信用しなさい。
 すべての聖典は、すべての真理は、いつのときも、どんな国においても、ヴェーダである。それらの真理は見られるべきものであり、誰でもそれらを見出すであろうから。

「愛という太陽が地平線に現れると、われわれはすべてを神に明け渡したいと感じる。そして一瞬でも彼を忘れることは、われわれを大いに悲しませる。」

 神とあなたの彼への愛との間に、何も介在させてはならない。
 彼を愛しなさい。彼を愛しなさい。彼を愛しなさい。そして世間には、言わせたいように言わせていくがよい。
 愛には三つの種類がある。
 ――一つ目は、自分は要求するが、相手には何も与えない愛。
 二つ目は、ギブアンドテイクの愛。
 三つ目は、何の見返りも求めない愛だ。炎に飛び込む蛾のように愛しなさい。

「バクティヨーガは、カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている。」

 行為は行為者にとっての訓練の場でしかない。他者にとっては何も善いことはない。
 われわれは自分自身の問題は自分で解決しなくてはならない。預言者はわれわれに、どのように行為するのかを示すだけだ。

「あなたはあなたが思うものになる。」

 だから、あなたがジーザスに自分の重荷を差し出すならば、彼を思わなくてはならない。そのようにして、あなたは彼のようになる。あなたは彼を愛している。

「極度の愛と最高の叡智は同じである。」

 しかし、神について理論立ててはならない。われわれは彼を愛し、行動しなければならない。
 とりわけ「苗木」が若いうちに、世界とすべての世俗的なものを放棄しなさい。
 昼も夜も神を思いなさい。できる限りその他のことは考えてはならない。
 日々の必要な思考は、すべて神を通じて行なうとよい。
 神のために食べなさい。
 神のために飲みなさい。
 神のために眠りなさい。
 すべての中に神を見なさい。
 他者には神の話をしなさい。
 これらは最も有益である。

 神と、神の最も偉大なる子供たちの御慈悲を獲得しなさい。それらは、神に至る二つの最高の方法である。
 その光の子供たちとの交わりは、非常に得難い。彼らとの5分間の交わりが、全人生を変革させる。あなたが本当にそれを切に望めば、それはあなたの前に現れるだろう。
 神を愛する人々の存在は、場を神聖にする。

「そのようなものは、主の子供たちの栄光なのだ。」

 彼らは主である。そして彼らが話す言葉は聖典なのだ。
 彼らがいた場所は彼らのヴァイブレーションで満たされ、そこに行く者たちは彼らを感じ、そして神聖になるための傾向を得るのだ。

「そのようなバクタにとっては、カースト、学識、美しさ、生まれ、豊かさ、職業において違いはない。なぜならば、すべては『彼』だからである。」

 すべての悪友を放棄しなさい。特に最初の頃は。
 世俗的な交わりを避けなさい。それはあなたの心を乱すだろう。
 すべての【私】と【私のもの】を放棄しなさい。
 宇宙に何も持たない者のところに、主は来られる。
 すべての世俗的な愛着の束縛を断ちなさい。
 怠惰を超えて行け。
 決して自分の為したことを見ようと振り返ってはならない。
 すべてを主に明け渡し、それについては考えてはならない。
 魂全体が、神への不断の流れに流れ込み、金や評判、名声を探し求める暇はなくなり、神以外のことは何も思わない。そして魂全体が無限の素晴らしき愛の至福に入る。
 神への愛は一瞬一瞬増大し、常に新しい。それは感じることによってのみ、知ることができる。
 愛はすべての中で最も容易いものである。それは論理性を必要とせず、生来的なものなのだ。
 われわれには証明も裏付けも必要ない。
 推論とは、自身の心によってあるものを限定するものである。
 われわれは網を投げて、あるものを捕まえる。そして「われわれはそれを証明したのだ」と言う。しかし決して、絶対に、網で神を捕まえることはできない。

 愛とは、同類愛であってはならない。
 誤って愛を抱いてしまったときでさえ、それは真の愛であり、真の至福なのだ。われわれがどのようにそれを使ってみても、その力は同じものなのである。
 その本質はまさに平安と至福である。
 殺人者だって、自分の子供に口づけするときには、一瞬にして愛以外のすべてを忘れてしまうだろう。
 すべての自己、すべてのエゴイズムを放棄しなさい。怒り、愛欲から離れなさい。すべてを神に明け渡しなさい。

「私は存在せず、汝だけが在るのです。年寄りは皆去っていった。汝だけがとどまり続けるのです。」

「私は汝である。」

 誰も非難してはならない。障害や苦難がやってきても、それは主があなたと遊んでいるのであり、たいそう喜んでおられるのだと知りなさい。

 愛は、時と空間を超越している。それは絶対的なものなのだ。

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