「ヴィヴェーカーナンダ」(26)
ヴィヴェーカーナンダは、兄弟弟子のサーラダーナンダをアメリカに、同じく兄弟弟子のアベーダーナンダをイギリスに呼び、教育し、自分の救済活動を引き継がせました。そして自身は久しぶりにインドへと、西洋人の弟子を引き連れて帰ることになりました。
ヴィヴェーカーナンダがインドに到着したとき、ヒンドゥー教を欧米に広めた英雄を迎えるために、多くの民衆が集まり、大騒ぎになりました。無数の人々が、彼の足に触れようとして、地面に身を投げ出しました。旗が掲げられ、宗教歌が歌われ、聖水や花が道にまかれ、多くの供物が捧げられました。
ヴィヴェーカーナンダは冷静さを失うことなく、これらの名誉と称賛のすべてを受け入れました。彼は戦いからも名誉からも逃げ出すような人物ではなかったのです。彼は無一物の乞食僧に過ぎない自分に与えられた称賛と供養を、インドの崇高な理想に与えられたものとみなしたのでした。
ヴィヴェーカーナンダがカルカッタに到着して間もないころ、ラーマクリシュナの聖誕祭が、ドッキネッショルのカーリー寺院で開かれました。この祭典には非常に多くの人々が集まり、まさに人の海でした。
かつてラーマクリシュナが生きていたころ、ラーマクリシュナを聖者と認めて訪ねてくる信者は、ごくわずかなものでした。しかしいまや、これだけ多くの人々が、ラーマクリシュナを神の化身と讃えて集ってきているのです。ヴィヴェーカーナンダは深い感動に包まれ、ギリシュに言いました。
「あのころと今とはなんと変わったことだろう!」
ギリシュは答えて言いました。
「おっしゃるとおりです。けれども私はもっと多くの人が集まるのを見たいと願っています。」
ヴィヴェーカーナンダはしばしば、さまざまな形を有する宗教の修行は、それぞれの時代に応じて効果的であったといいました。ある時代はそれは苦行であり、ある時代にはバクティであり、ある時代には思索であったと。しかし現代においてはカルマ・ヨーガこそが宗教的効果を速やかにもたらすであろうと主張し、非利己的行為の修行を強調したのでした。
ヴィヴェーカーナンダは、インド人がタマス、すなわち不活動の傾向が強いと見て取ったため、特にこの「活発な行為による解脱」の道を説いたのでした。
ヴィヴェーカーナンダ自身はすでに、無分別サマーディに入ることによって、ブラフマンと合一し、解脱の境地に安住することができるステージにはありました。しかし彼は、神の意思によって、現象世界の意識に自分自身を下ろし、人類の幸福のために自己を捧げながら、菩薩のように生きたのでした。彼はこう言いました。
「全インドを修行しながら放浪していたとき、私は毎日、洞窟の中で瞑想に没頭していました。しばしば私は、解脱が得られないので、餓死しようと決心しました。今私は解脱への望みはありません。宇宙の中にただ一人でも解脱に達していない者がいる限り、私はそれを望みません。」
しかし兄弟弟子たちには個人主義の者が多く、救済活動には無関心でした。彼らは孤独に難行苦行を実践し、世間から離れて静かな生活を送ることを望んでいたのでした。
ヴィヴェーカーナンダの思想は、これらとは一線を画すものでした。ヴィヴェーカーナンダ自身、かつて個人的な解脱のみを求めていたとき、ラーマクリシュナに叱責され、人々の幸福のために生きるよう指示された経験がありました。よって彼は兄弟弟子たちに対して、自分ひとりだけの解脱を求めるのは、ラーマクリシュナの弟子としては非常に恥ずべきことである、と指摘しました。
兄弟弟子たちは、必ずしもいつもヴィヴェーカーナンダの意見に同意するというわけではありませんでしたが、ラーマクリシュナによって特に選ばれた者であるヴィヴェーカーナンダを称賛し、彼の衆生救済の計画に、さまざまな形で協力を惜しみませんでした。
こうしてヴィヴェーカーナンダと兄弟弟子たちの活発な活動により、多くの人々が、彼らの教団に加わるようになりました。
あるとき、四人の若い信者が、ヴィヴェーカーナンダよりイニシエーションを受けて、正式に出家修行者になることを切望していました。しかしそのうちの一人が過去にある罪を犯していたため、兄弟弟子たちは彼を出家修行者として受け入れることに反対しました。これに対してヴィヴェーカーナンダは、憤慨して言いました。
「どういうことですか。われわれが罪人を避けるならば、誰が彼らを救うのですか。さらによりよい生活を望んで、僧院に帰依してくるということは、その人の意志が善であるということをあらわしているのです。だから、われわれは彼を助けねばなりません。仮に一人の男が悪人であったり堕落した人間であったとしても、あなたたちが彼の性格を変えることができないなら、なぜあなたたちは黄色の僧衣に身を包んでいるのですか。教師の任務をどのように果たしているのですか。」
こうしてこの四人とも、正式に出家修行者として受け入れられることになりました。そのイニシエーションの儀式の前日、ヴィヴェーカーナンダは彼らにこう言いました。
「自分の魂の救済と、多くの人々の善と幸福のために、出家修行者はこの世に生まれてきたということを覚えておきなさい。
他人のために自分の生活を犠牲にして、泣き声が空に響き渡る幾百万もの人々の不幸を経験するために、未亡人の目から涙を拭い去るために、子供を失った母親の心を慰めるために、無知で抑圧された民衆に生きるための戦いの方法と手段を提供し、おして彼らを自立させんがために、精神的、物質的幸福のために、差別することなく万人に聖典の教えを広めんがために、さらにヴェーダーンタの智慧によって万人の心の中にあるブラフマンの眠れるライオンを目覚めさせんがために、出家修行者はこの世に生まれてきたのです。」
また、出家修行を熱望する他の信者たちには、このように言いました。
「あなた方はすべてのものを放棄しなければなりません。
あなた方は自分のための満足や楽しみを求めてはなりません。
あなた方はお金や欲望の対象を毒と、名誉や名声を最も下賎な汚物と、世俗的な栄光を恐ろしい地獄と、生まれや社会的地位などのプライドを『酒を飲むのと同じほど罪深いもの』とみなさねばなりません。
あなたたちの隣人の教師となるために、また世間の利益のために、あなた方は自己の魂の智慧によって自由を獲得しなければならないのです。」
ヴィヴェーカーナンダは、出家を望む信者たちを誰でも彼でも受け入れていたため、多くの人々は、ヴィヴェーカーナンダは弟子の能力の識別力に欠けると思っていました。実際、ヴィヴェーカーナンダが出家させた者が、後に悪事を犯してしまうということもありました。
こうした現状を見て、あるとき、ヴィヴェーカーナンダの直弟子の一人であるニルマラーナンダは、ヴィヴェーカーナンダには正しい判断力と人間の本性への理解が欠けている、と言いました。するとヴィヴェーカーナンダは、興奮で顔を赤くしながら、こう言いました。
「なんと言いましたか。私が人間の本性を理解していないとでも思っているのか。私は、これらの不幸な人々の現在の生活を知っているばかりか、以前の生活をも全部知っています。また将来、彼らが何をするかもよくわかっている。
ならばなぜ私が彼らを受け入れるのか。これらの不運な人々は、心の平安と励ましの言葉を求めて多くの門を叩いたのだ。だが、どこでも拒絶されてきた。私が受け入れなかったならば、彼らには行くところがないのです。」
つづく