「ミラレーパの生涯」第3回(2)
【本文】
ミラレーパが八十三歳のころ、ミラレーパの人気をねたむ一人の高名なゲシェ(大学者僧)がいました。彼はミラレーパが自分に挨拶を返さなかったことに腹を立て、恥をかかせてやろうと、みなの前でミラレーパに論争を挑みました。しかしミラレーパは観念的な言葉を重ねて論争をすることの無意味さを説き、次のような歌を歌いました。
栄光あるマルパ訳経法師の御足に礼拝いたします。
願わくば教義や教条の論議から除きおかれますよう。
我が師の祝福は私の心に染み通ります。
心は決してもろもろの気晴らしを求めて横道に逸れはしませんでした。
愛と哀れみについて瞑想したので、
自他の間の一切の区別を忘れてしまいました。
我が師について瞑想したので、
勢力と権力を有する者たちのことは忘れてしまいました。
己から分かちがたいものとして、守護神を瞑想したので、
粗雑な感覚の世界のことは忘れてしまいました。
口伝の最勝の真理を瞑想したので、
弁証法の書物のことは忘れてしまいました。
純粋な意識を保ち続けたので、
過ちを犯す無明の知識は忘れてしまいました。
心の本質的な性質が三つのカーヤであると瞑想したので、
希望と恐れの思いを忘れてしまいました。
この生と来世について瞑想したので、
生と死の恐怖を忘れてしまいました。
独居の喜びを味わったので、
友や親族の意見を探し求める必要を忘れてしまいました。
己の意識の流れへと一つ一つの新しい体験をあてがったので
教義の論争に関わることは忘れてしまいました。
不生、不滅、無住を瞑想したので、
個別の目標のこれやあれやの一切の定義を忘れてしまいました。
現象の認知はダルマカーヤであると瞑想したので、
すべての心の作り出した瞑想を忘れてしまいました。
自由にして創出されざる境地(ダルマカーヤの心の状態)に心を保ったので、
偽善の慣習を忘れてしまいました。
体と心において謙虚に生きたので、
強者の尊大さと傲慢さを忘れてしまいました。
この身の内側に僧院を作ったので、
外側の僧院のことは忘れてしまいました。
言葉を超えたものの意味を受け入れたので、
言葉で遊ぶ方法は忘れてしまいました。
この歌を聴いてもゲシェは納得せず、ミラレーパを非難しましたが、聴衆は皆ミラレーパの側につき、逆にゲシェが恥をかかされました。
はい。これはもうミラレーパのね、晩年の話ね。ミラレーパは、いつも言うように、自分で例えば宗派をつくったりはせず、で、寺とかもなく、もうひたすら山から山へ、洞窟から洞窟へと放浪して修行してた人だったようですね。しかしそれにも関わらず、その各地でミラレーパが説いた教えや歌っていうのが非常に人々の心を打ち、噂となり、ミラレーパ自身は何も宣伝とかね、布教活動はしなかったんだけど、多くの地域でね、ミラレーパがすごい人気になっていったんだね。すごい行者がいるようだと。ね。すごい大聖者が、ね、山から山へと放浪をしていらっしゃると。
で、それを妬む一人のゲシェがいたと。このゲシェっていうのは、まあ仏教のお寺で、ある種の――まあ教授みたいな感じね。学問を修めた人の一つの称号ですね。で、この間も何かのときに話が出たけども、つまりわれわれがちょっと気を付けなきゃいけないのはね、最初は純粋に真理を求め、そして修行を始めたとしても、なんていうかな、修行の世界とかあるいは教えの世界の中のカテゴリーとか、あるいは概念的な、まあ格付けであるとか、そういったものにこだわってしまうと、最初の純粋な求道心を見失ってしまう。そういうのがチベットでもよく見受けられるわけですよね。つまり純粋に真理を求めて出家したはずなのに、いつの間にかその僧院の中での地位を守ることに一生懸命になったりとか、あるいはほかの人たちとね、自分を比べて、自分の方がみんなから褒められたいっていうことに固執してしまったりとか。ちょっとこう自分を見失ってしまうというかな(笑)。で、特にこのゲシェみたいに、ある程度例えばお寺で高い地位にいくとね、それを例えば注意してくれる人もいないから、もう自分で自分がよく分かんなくなってしまう。これはだから気を付けなきゃいけないことだね。
これは学問自体ももちろんそうです。まあ学問というか、教えの知識がいくらあっても、当然それはあまり修行者として価値はない。それをどれだけ身に付けてるかが問題なんだね。いつも言うように、例えば多くの本を読み、ね、たくさんの知識を持ってると。でも一個も身に付いてないという人がいたとして、で、もう一方は、例えばほとんど知識がないと。ね。例えば『入菩提行論』しか読んだことがないと。しかし『入菩提行論』は完全に、ね、心において体得していると。スッ、パッと、『入菩提行論』に書かれているような行動がとれると。この二人の人がいたら、まあ当たり前だけど当然、後者の方がすごいわけだね(笑)。もう「生きる『入菩提行論』」とね(笑)。何やっても、何やっても、『入菩提行論』のとおりに行動すると。ね。でもほかの経典一切知りませんと。ね。例えば論争を仕掛けられてもね――じゃああなた、ね、例えば「『ヨーガスートラ』知ってるんですか?」と。ね。あるいは「般若経とか知ってますか?」と。「いや、僕、何も知りませんよ」と。「それ読んだこともない。すみません、何も知らないんです。」――でも行動は全部『入菩提行論』と(笑)。
(一同笑)
これはすごい人だよね(笑)、これはね。でも逆に、ね、まるで百科全書のように、どんなことを聞いても仏教のあらゆることを答えられると。あるいはヨーガのあらゆる教えを答えられると。しかし、全く戒律を守らず、ね、生き方は全く凡夫的で心も非常にすさんでいると。ね、これは当然ね、駄目なわけだね。
もちろんわれわれが目指さなきゃいけないのはもっと上です。もっと上っていうのは、一つ一つの教えをしっかり体得し、そしてそれを増やすと。これが最高だね。最高というよりもわれわれは――われわれっていうか真に菩薩道を行く者は、その道を歩まなきゃいけないんです。
しかしどっちかというならばですよ、どっちかというならば、持ってる教えは少なくてもそれを体得する方が素晴らしいね。だから一つ一つの教えをまず体得することに心を傾けると。で、同時にその自分の知識も徐々に増やしていくと。で、得た知識は必ず体得すると。このような、なんていうかな、姿勢だったら素晴らしいね。
でもそうじゃなくて、もう一回言うけども、コレクターのように、あるいは表面的な知的好奇心によって、いろんな知識は持ってると。で、その知識の探求に時間を費やすんだけど、それで心を変えるということに時間を費やさなかった場合、はっきり言うと、前も言ったけども、その人の人生は全くの無駄に終わります。つまり真理に出会わなかったのと同じになります。ね(笑)。せっかく真理というものに出会ったのに、知識の探求だけで終わったら――だって、それバルドに持っていけないから。知識はね。皆さんが相当の瞑想家だったら持っていけるけど、普通は知識だけだと持っていけない。だから、その学問、表面的な学問に引っかっちゃうっていうのもそうだし、あるいは修行者仲間の中での評価とかね、あるいは自分と他者を比べて格とか地位とかに引っかかってしまうってのもそうだけど、そういった、なんていうかな、罠がたくさんあると。で、そういうのには引っかからないようにしないといけないんだね。
はい。で、まさにここに出てくるゲシェは、引っかかってる人ですね(笑)。そのゲシェっていわれる、まあすごい地位に就いたがゆえにちょっと高慢になってしまったと。ね。それによって、ミラレーパの本当の素晴らしさがよく分からず、そしてミラレーパが自分に挨拶を返さなかったと。ね。――あのさ、いつも言うけど、聖者っていうのはいろんなタイプがいます。ね。いろんなタイプがいて、すごくね、なんていうかな、気配りができる人もすごくいるんだね、もちろんね。当たり前だけど(笑)。そうですね、ヨガナンダの師匠のユクテスワの言葉でもそういう言葉があるよね。どういう言葉だっけ?
礼儀を欠いた……あ、礼儀を欠いた率直さか。
礼儀を欠いた率直さは、メスのようであってね。つまり効果は大きいが、人を傷つけてしまうと。逆に率直さを欠いた礼儀は、死んだ美人のようであると。つまりかたちだけ、表面的なだけであって、全く実体がないと。
つまり何を言いたいかっていうと、特にまあ今言ったのはユクテスワの話ですが、ヒンドゥー教とかでは、まあ仏教もそうだけど、率直さ、素直さ、純真さっていうのがすごく称賛されるわけだね。しかしユクテスワは、それにも礼儀がなきゃ駄目だと。ね。つまり単純にほんとに率直なだけでいた場合、それはまさに鋭いメスのようなもので、本人はいいんだけど、ある場合においては人を傷つけてしまう場合があると。まあもちろん逆もそうですけどね。表面的だけ礼儀正しくても、その素直さ、率直さ、純真さがなければ、それは全く死んだ美人のようにね、表面だけ美しいだけだと。で、まあユクテスワっていう人はそういう、一般的においても、世俗においても気配りができる人だったんだね。ただミラレーパは全く――これはいい悪いじゃなくてタイプなんだけど、世俗完全無視の人だった(笑)。
(一同笑)
ミラレーパは、これも伝記に書いてあるんですけど、自分の師匠マルパ以外には一切頭を下げなかったって書いてあるね(笑)。
(一同笑)
どんな人の前でも決して頭を下げないんだね。それは別に傲慢なわけじゃなくて、もうただ、世俗の習慣には興味がないと。我がグルはマルパだけであると。ね。そういう純真な一途な心だけなんだね(笑)。
だから別に心に何か悪いものがあるわけじゃないんだけど、素直な普通の感情として、別に世俗のその習慣に付き合う気持ちが全くないと。
例えばここで、このゲシェは、うちのグル・マルパに比べたら、ね、ただ学問を学んでるだけであって、そんな尊重すべき存在ではないが、しかし一応ね、お寺で高い地位についている方だから、ここは気を損ねないようにしっかりと挨拶をしましょうかっていうような発想が全くないんだね(笑)。別にゲシェだからじゃないですよ。ほかの大聖者が現われても、ミラレーパは礼をしないんです。つまり自分が礼拝するのはグルだけだって決めてるんだね。だからそれは全く、いい悪いじゃなくてタイプなんですけどね。だからミラレーパはそういう感じで全く礼を返さなかったと。
しかし逆にこのゲシェの方は、おそらく純粋な心を失い、自分の地位とか称賛されることであるとか、そこに非常にこだわってしまっていたと。よってそこでミラレーパの対応に対してちょっとこうムカッときてしまったわけですね。そこで恥をかかせてやろうとミラレーパに論争を挑んだと。ね。まあこの動機からしてどうかなって感じがするんだけど(笑)。
つまりおそらくこのゲシェの心としては、このミラレーパってやつはね、全く正当なね、学問教育も受けずに、山から山へと放浪しているだけだと。わたしは何年間も厳しい学問教育を受け、仏教のあらゆる経典を知ってると。だから絶対論争したらおれが勝つと。で、人々はこの小汚いフラフラしてるだけのミラレーパを尊敬してるようだが、おれの方が偉大であることをみんなの前で分からせて恥をかかせてやろうと思って、みんなの前でわざわざ論争を仕掛けたんですね。しかしミラレーパは、まあ言ってみれば全く違うステージにいたわけだね(笑)。そんな論争してどっちが勝つかとかそんなところにはもういなかった。で、ゲシェのまあ挑戦に対してね、それをかわすように、それに対して、なんていうかな、ストレートに答えるんじゃなくて、自分の今の境地っていうのを歌ったわけですね。
はい。で、ここで歌われてる歌っていうのは、そうですね、ミラレーパが修行によってね、もうこのような状態になってしまったっていうことを、いろいろ、いろんなパターンで歌ってるわけだけど、まあわれわれとしてはね、いつも言うように、こういうのを読むときは、これを目指すと。ね。こうなることを目指そうと思って読んだらいいですね。