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「ミラレーパの生涯」第3回(1)

解説「ミラレーパの生涯」第三回

 ところで今朝ちょっとね、非常にね、吉祥な夢を見ました。どういう夢かっていうと、その夢の中でね、夢の中でも瞑想してたんですが、その瞑想の中で、まあ何回か行ってるヒマーラヤのガンゴートリーっていうね、前にカイラスでも行きましたけども、ガンゴートリーっていうヒマーラヤのガンジス河の源流の聖地が瞑想で出てきて、その聖地の上空の空にたくさん太陽が出てきてね、一個じゃなくてなんかいっぱい太陽がバーッて出てきて、で、その太陽の一つ一つの下に、いろいろあったんですけど、例えばカパーラっていうね、骸骨の器があるんですけども、それがあってその上にカルタリ刀ね。これですね。このカルタリ刀がこうバーッて出てきたりとか、あとまあよくこういうタンカであるように、蓮華とかの台座があって、その上に仏陀とかいろんなちょっと密教的な聖者が乗ってたりとか、ダーキニーとか女神が乗ってたりとか。
 つまりなんていうかな、まあ言ってみればちょっと変な話なんだけど、カードみたいなものですよね。なんかこうマンダラカードみたいなのがあるような感じで、それぞれここにこう光り輝く太陽があって、で、台座があって、で、その上にまあ今言った女神とか、仏陀とか、法具とかが乗ってて、で、その周りがね、すごくこう何色もの虹色のデザインで、すごくきれいになってるんですね。
 あまりにそのカードみたいな、そういうのが――まあこれを一つの単位として、もうたくさん空間にバーッてあるヴィジョンなんだね。で、それが固定されてなくて、一つがパッと消えたら、またパッて違うのが現われたりとか、そういう感じで空間にいくつもいくつも消えては現われるっていうヴィジョンだったんだね。「ああ、これはすごい」と夢の中で思ってたんですが。
 まあこれは何を表わしてるのかは分かんないけども(笑)、吉兆なね、印には違いないので、皆さんにもね、祝福があるんじゃないかなと思います。
 実際は、実はわたし、何かにも書きましたけども、昔一人でね、このまあガンジス河の源流のゴームクっていう所に行ったときに、ほんとに、まさにこのヴィジョンみたいに、空を見たらリアルにいろんな神とか女神とか、あと蓮華の花とかね、バーッて見えたことがあったんだね。今朝の夢もそんな感じだったんですが、まあ現実にゴームクに行ったときに見たヴィジョンっていうのは、整合性がないというか、ブワーッてこう、なんていうかね、夢と現実の中間ぐらいの感じで、整合性なくいろんなものが現われては消え、っていう感じだったんですが、今回は非常に整合性があるっていうかな、すごくその、ある種の法則性でこうパッて美しいのが現われては消え、っていう感じのヴィジョンだったんですよね。
 
 はい。まあそれはいいとして、ちょっと話がずれますが、そうですね、今日とかも青空ですごく晴れていますけども、皆さんにいつも言っているようにね、例えば日々の経験を変容しろって言ってますね。変容っていうのは、皆さんが例えば普通に生きてて普通に見てる、あるいは普通に経験してるこの人間界の経験っていうのは、まあ高々、人間界の経験です。で、それはいつも言うように、絶対的な客観的なこの人間界っていうのがあって、そこにわれわれが放り込まれてるっていうわけではなくて、ある種のその固定的な枠組みの中で、われわれの心が見てる、まあ夢みたいなものに過ぎないわけですね。で、特に現代の人間界っていうのはカリユガっていわれるので、普通にわれわれが小さいころから教わってきたこの人間界のイメージ、人間界のフィーリングで一生生きるとするならば、それはまあ実際には人間界というよりもちょっと人間界の低いレベル、ちょっと三悪趣に近いような夢を一生見続けたみたいな感じなので、あまりこの人生に価値はないことになってしまうんだね。
 どんな世界でもね、はまってるときっていうのは心地いいです。これは何かの例えで何回も皆さんには言いましたが、例えばある偉大な神が、ある理由があって、豚の体内に意識を移してね、で、そのやるべき仕事は終えたんだけど、なんか豚が心地よくなっちゃって(笑)、しばらく帰ってこなくなっちゃって。で、その神の家来たちがその豚を殺してね、やっとその神の魂を引き戻したっていう話がありますが。つまり豚であっても、われわれがはまってしまうとなんか心地よく感じるんだね(笑)。同様に、真のね、聖なる目から見たら、われわれが小さいころから教わってきたこの人間世界のフィーリングとか感覚とかヴィジョンとか常識っていわれるものっていうのは、非常に低いものであって、あるいはけがれが多く含まれてるものなんだけど、その中にこうはまってるうちっていうのは、とてもまあ慣れてしまうというかな、よく見えてしまうんだね。
 で、それはなんていうか、現実的には、われわれのカルマを変えていくっていうのはなかなか大変なことなんだけど、少なくともイメージの中では、われわれはこの世界を普通の人間的なイメージじゃなくて、神秘的な、あるいは聖なるイメージに変える努力をしなきゃいけないんだね。
 で、それはいつも言うようにちょっと智慧が必要なので、一概には言えないんだけど、いろんな自分の経験を自分の中でこう、なんていうかな、チェンジしてね、まあ例えば簡単に言うと、道行く人すべてを仏陀の化身と見るとかね。そういった、例えば聞こえてくる音をすべて神のマントラとしてとらえるとかね。決して、例えばね――ガガガガガッて工事現場の音が聞こえて、それに対して嫌悪が出たとするよ。「ああ、うるさいな、ほんとに!」――もうその人自身が地獄まっしぐらです、そんなこと思ったらね(笑)。あるいはそうじゃなくて、そうだな、ガタンゴトン、ガタンゴトンっていう電車の音を聞いてね、で、わたしもまあ結構ああいう電車の音とか好きだったんだけど、ああいう日常の音ってあるよね。ガタンゴトン、ガタンゴトン、チンチンチンとかね(笑)。ああいうの、なんとなく人間的に心地いいじゃないですか。ちょっとノスタルジックな感じっていうか。「ああ、そうだ。小さいころよく電車見にいったな」とかね、「ああ、なんかこういう感じいいな」とか、これ完全に人間界にはまってます。ね(笑)。で、それはなんていうかな、もう一回言うけど、別に悪くはないが、まああまり価値がない。だからそうじゃなくて、工事現場の音にしろ、電車の音にしろ、例えばガガガガガッていうのも、「オーム・アー・フーム、オーム・アー・フーム、オーム・アー・フーム」とかね(笑)。

(一同笑)

 自分で翻訳するんだね。「あ! 神が唱えてる」と。あるいはキンコンカンコンも「オーム・マニ・パドメー・フーム、オーム・マニ・パドメー・フーム、オーム・マニ・パドメー・フーム」、ね(笑)。

(一同笑)

 自分のやりやすいのでいいよ(笑)。自分のやりやすい、なんていうかな、音に変容したり、あるいはヴィジョンに変容したりっていうことをやるといいんだね。で、あらゆることに対してそれをやることによって、皆さんがこの普通の生活を送りながらでも、まあ神の要素あるいは高い世界の要素を増していくことができると。
 あるいはもちろんトンレンでもいいですよ。日々みんなの幸福を願いながら生きると。普通にね、普通に例えば会社の人とかお客さんとかと普通に話してるんだけど、心の中では、「さあ、わたしの徳がこの人に行って幸福になってほしい」とかね、このイメージでもかまいません。ね。あるいは、「この人の苦しみは全部こっちに来たらいいな」――これでもかまいません。とにかく聖なるイメージをひたすら持ち続けると。
 で、ちょっと話が戻りますが、空【そら】というのは――今言ったのは全部変容だけれども、空っていうのは、特に例えば晴れてる青空、まあ曇りでもいいけど、あの空っていうのは言ってみれば、何もないキャンバスみたいなものですよね。だからね、自由に想像してください。これは皆さんよくやるといいと思います。空をパッて見たときに、なんとなく神のイメージを想像すると。「ああ、空に今……」ね。これはだからさ、ちょっと頭の固い人は、いや、それは幻じゃないかとか思い込みじゃないかって言う人がいるかもしれないけど、思い込みで全くかまいません。なんとなくフィーリングで、ああ、あそこに神がいるんだっていうイメージをすると。あるいはもう無理矢理でかまわない。無理矢理その空のキャンバスに、皆さんが知ってるような仏教のでもヒンドゥー教のでもいいので、神や仏陀や、そういったね、聖なるイメージをパーッとこう思い浮かべると。これもとてもいいことですね。空を見るたびに、「あ! 今日も神々が見守ってくださっている」と。それを、なんとなく見守ってくれるっていうイメージするだけではなくて、実際にヴィジョンとして、その映像をね、空のキャンバスに思い描くわけだね。これもいい修行になります。
 あとね、雲。雲もいい修行になります。いい修行っていうのは(笑)、雲っていうのはいろんな形をしてるよね。で、それをまあ、自分のイメージで――もうこれも思い込みでかまわないので、「あ、あの雲はまるで女神のような形をしている」と。「あれ、女神だ!」と。ね。あるいは、「まるで龍神のような形をしている」と。「あ、龍神がやってきた!」と。ね。あるいは例えばね、梵字の、例えば「オームとかフームとかみたいな形をしている」と。「あ、祝福によって今、梵字が現われた!」と。ね(笑)。もうなんていうかな、バカみたいに思い込んでかまわない。
 で、実際ね、ほんとのことを言うと、その半分は本当かもしれません。つまりこの世っていうのは、いつも言うように、実際には心の現われではあるわけだけど、同時に聖なる――つまり光の世界からのそのサインもいっぱいきてるんですね。それをわれわれの非常に硬い観念によってブロックしてしまって――つまりその素晴らしい光のサインをわれわれの中で逆に悪く翻訳して――悪くっていうか観念的に翻訳して納得しちゃってるのがこの世界なんだね。だから逆に、例えば皆さんが空をパッと見て、ああ、あの雲――ね、こういう会話、よく修行者同士とかでもあるんだけど、「あの雲、なんか龍みたいな形してるね」と。――まあ実際に仏教ではそういう話があるんでね。われわれには雲にしか見えないんだけど、龍神が空を飛んでるっていう話とかあるので、「あれ、本当に龍神かもね」っていう話とかね。あるいは実際に神様みたいな雲があって、で、「あれ、神かもね」っていう話をしたりとかね。で、こういうのを話したりとか、実際に自分でイメージしたりしてると、ちょっとヴェールが剥がれてくるんだね。ちょっとほんとのサインが読み取れるようになってくるっていうか。ちょっと、まあいつも言うように、つじつまが合わなくなってくるっていうか、つじつまが合わずにストレートにわれわれの世界にサインが降りやすくなってくるんだね。だからその辺はちょっとこう、もう半分バカみたいに、あるいは子供のような感じでかまわないんで、何を見ても、「ああ、そこに神が見える」と。「あれはまるで神の現われのようだ」と。「あれはすべて祝福である」と。ね、まあいつも言うように、例えば雷が鳴ったら、雷はシヴァの祝福、象徴なので、「ああ、シヴァの祝福である」と。ね。あるいは雨が降ってもそれはね、「天から甘露が降ってきた」と。ね(笑)。晴れたらもちろん、「ああ、祝福だ」と。ね。何があっても祝福であるというふうにとらえて、それぞれのね、フィーリングの範囲内で、いろんなものに変容していく訓練をしたらいいと思います。
 はい。じゃあ、ちょっと話が長くなっちゃいましたが、本題に入りましょう。

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