「ミラレーパの十万歌」第一回(3)
【本文】
彼が意識を取り戻したとき、嵐はやんでいました。高い木の枝に、自分の服の切れ端が揺れているのが見えました。現世とそのすべて事柄の無益さに関する思いが、ミラレーパを襲いました。そして強い現世放棄の思いが彼を圧倒しました。彼は岩の上に座り、再び瞑想を始めました。
すると間もなくして、白い雲の一群が、東方のかなたにある「トウォの谷」から上昇するのが見えました。
「あの雲の層の下あたりには、わがグルである偉大な翻訳者マルパの僧院がある。」
ミラレーパは考えました。
「今この瞬間、彼と彼の妻は、タントラの教えを説き、法友たちにアビシェーカを与えているだろう。
そうだ、わがグルはあそこにいる。今そこへ行けば、会うことができるだろう。」
グルのことを思うと、グルを求める抑えがたい強烈な切望が生じ、彼の眼は涙でいっぱいになりました。そして彼は「わがグルへの思い」という歌を歌い始めました。
はい。『聖者の生涯』にも書いてありますが、マルパとミラレーパが別れるときの話をね、ちょっとすると、まあミラレーパは、さっき言ったようにマルパにすごい試練を与えられて、それを乗り越えて弟子として受け入れられたあと、逆に今度はもうマルパの一番弟子となって、しばらくマルパのもとで一緒に暮らしながら、修行をしたりマルパに奉仕したりっていうのがまあ数年間続いたわけですね。で、そういう日々があったわけだけど、あるときミラレーパが故郷の夢を見たわけですね。その故郷の夢っていうのは、まずお母さんが死んでいて、で、妹は乞食になっていて、そしてその家はもうボロボロに朽ち果てていると。そういう夢を見たんですね。で、それを見てミラレーパはすごく不安になって、一度でいいから、ちょっと故郷に帰って、お母さんや家族の様子を見たいと思った。で、それをマルパにお願いしに行くんですね。
で、マルパはそれを聞いて、「おまえはわたしのところに来たときに」――つまりミラレーパはマルパのもとに来たときに、「わたしはもうすべてを放棄します」と。つまり家族も、あるいは自分のさまざまな現世的なことをすべて放棄して、あなたに弟子入りさせてくださいと。「あなたにすべてを捧げます」と。「わたしの身口意すべてを捧げます」と言って、まあマルパに弟子入りしてきたわけだね。
「おまえはすべてを放棄して、捧げて、ここに来たはずじゃないか」と。「それなのに、家族とか、そんなものにまだそんなに執着してるのか?」と。「だから普通はそんなことを言ってもおまえを故郷には帰らせはしないんだが、しかしちょっと事情が違う」と。
それは何が事情が違うかというと、実はこのマルパという人は――マルパだけじゃなくてミラレーパとかもそうなんだけど、この系統の人っていうのは、象徴を読むのが得意なんですね。象徴を読むっていうのは、まあこれは、なんていうかな、すべての現象っていうのは、原因と条件があって現われてるんだね。それは例えばね、そうだな、今ここを歩いてたら、猫が横切ったとしますよ。それは偶然っていうことはあり得ないんです。何かがあって横切ってるんです。あるいは歩いてたら後ろから風が吹いてきました。この風にも偶然はないんです。でも普通はそれは分かりにくいんだね。
分かりやすいカルマってあるんですよ。例えば誰かから悪口を言われました。それはなぜですか?――それは過去とか過去世において自分が悪口を言ったからです。これは分かりやすいよね。悪口を言ったから将来、未来において自分も悪口を言われますよ――これは分かりやすい。でもそんな分かりやすいのだけじゃなくて――つまりもう一回言うけども、あらゆる現象はカルマなんです。あらゆる現象は原因があるんです。もうあらゆることですよ。全部ですよ。例えばなぜ今日雨が降るのかとか、あるいは歩いてたらつまづいたとか(笑)、勉強会やってたら廃品回収の音が聞こえてきたとか、いろんなことすべては原因がある。で、それを探ることは普通は難しいんだけど、このマルパとかはそういった、なんていうかな、さまざまな現象から未来を読み取ったりとか、過去を読み取ったりとか、そういうことをするのが得意な人だったんだね。
で、マルパは、ミラレーパがそういう夢を見てね、マルパの下にお願いしに来たときの状況ね――それはちょうどマルパが寝てて、で、ミラレーパがこうお願いしてきたときに、ちょうど太陽が昇ってマルパの顔にパーッと太陽の光が射した。で、ちょうどそこにマルパの奥さんのダクメーマっていう人が温かい飲み物を持って部屋に入ってきた。この象徴を見てマルパは、こう言ったわけですね。「おまえが願いを告げに来たときに、わたしが寝ていたということ、これは、おまえがちょっと故郷に行ってきますと言って出て行ったら、もう二度とわたしとおまえは会えなくなること、今生では二度と会えないということを現わしている」と。「しかしおまえが入ってきたときに、ちょうど太陽の光がわたしの頭に射したことは、これはおまえがわたしのもとを去ることによって、わたしの教え」――つまりマルパっていうのは、もともとはナーローパっていう師匠からその教えを受けてチベットに持ってきて、で、さらにそれを一番弟子のミラレーパに伝えてるわけだけど――「このわれわれの系統の教えがチベット中に広く広まることを表わしている」と。で、ちょうどそこに奥さんのダクメーマが温かいものを持ってきましたと。「これはおまえが修行中、精神的食物によって養われるということを表わしている」と。で、結論として、「おまえが今わたしのもとを去れば、二度とわれわれは会えないが、教えは広まる」と。よって、それはミラレーパがお母さんに会いに行きたいから行かせるんじゃなくて、「われわれの教えをこのチベット中に広めるために行け」と言って、ミラレーパを送りだすんだね。
だから、なんていうかな、こういう関係ってもう普通じゃないよね(笑)。普通の会話じゃないっていうか(笑)。普通の考え方じゃない。つまり非常に、なんていうか、現象のもう一つもう二つ奥を見た対応なんだね。うん。もうちょっと、普通だったらね、「おまえ、何言ってんだ」と。ね(笑)。「そんな、家族に執着してもしょうがない」と。「帰っちゃいけない」――これで終わるかもしれない。あるいは逆に、「あ、そうかそうか、そうだよな。寂しいよな」と(笑)。「じゃあちょっとだけ見て帰ってこいよ」とかね(笑)。こういう普通のやりとりが普通はあるんだけど、そうじゃないんだね。うん。何がそこで起きるのかっていうのを深いところまで読んで、その指示を与えるわけだね。
ただミラレーパはその時点では、マルパの言うことを、なんていうかな、おそらくすべてを信じてたわけじゃなかった。つまりまた会えるだろうと思ってた。マルパはもう会えないよって言ったわけだけど、ミラレーパはもちろんマルパのことを師匠としてすごく尊敬してるから、「いや、ちょっと故郷に行くだけです」と。で、「しばらくしたらまた戻ってきます」っていう気持ちで出たわけだね。でも結果的には本当にこれが今生の別れとなった。
で、ミラレーパが故郷に行くと、まあ夢で見たとおり、その家はもうボロボロになっていて、お母さんは死んでいて、で、妹は乞食になって放浪に出てたわけだね。で、そこでミラレーパはもうすごいショックを受けるわけです。だから逆に言うともともとマザコンであったっていうことも、良かったことかもしれない。つまりすごくお母さんが大好きで、もちろん妹のことも大好きで、そういうすごい執着があった。で、執着があって、久しぶりに家に行ってみたら、お母さんは死んでいた。家はもう朽ち果てていた。愛する妹は乞食になっていた。このリアルな現実を目にしたときに、ミラレーパの中で――まあもちろんマルパに弟子入りしてるわけだから、ある程度欲望とか現世的な思いっていうのはなくなってたんだけど、最後のもうちょっとだけあったそういう現世への思いが、バーッてもう崩れ落ちたわけだね。「この世っていうのはほんとに無常である」と。儚いものだと。「本当にこの世のものっていうのは、最後にはすべて終わってしまう」と。「そんなものに執着しても全くしょうがないんだ」と。「わたしにはもう、永遠に変わらない悟りを求める道しかないんだ」と。そのような決意っていうかな、確信を強めるわけだね。
で、そこから山に入って洞窟に入って、しばらく激しい瞑想修行に励むと。で、まあこの話はその瞑想修行に励んでるときの話なわけだけど、だからもう運命的にこの時点で、ミラレーパとマルパは会える運命にはないんだね。運命的にね。別にマルパが会いに来るなって言ってるわけじゃないんだけど、会える運命にはない状態だった。しかしミラレーパは、自分は修行に専念してるんだけど、やっぱり愛する師匠のことがたまに浮かんできて、で、すごい思慕に襲われると。それがこの場面ですね。