「ダルマターと、真実在の開示」③
☆法身・報身・変化身
この領域から、衆生を訓練する師の世界に入っていくのです。
――法身の師、
衆生を訓練する報身の師、
そして衆生の世界における変化身としての師。
それらの三つ形態の中で、衆生のために、師として行動するのです。
◎法身
法身の師は、
ヴァイローチャナ、アクショーブヤ、ラトナサンバヴァ、アミターバ、アモーガシッディなどの姿をとり、
それぞれの如来の浄土に安住します。
無限の寂静と怒りの姿で生起する中で
それらの大小の印である燃え上がる放射線によって、
そのような師は、衆生に適合する利他行のために、
自然に行動するのです。
それぞれの如来の姿は、五つの種類の純粋な智慧を持ちます。
①純粋な経験の連続体の中にとどまっている智慧
②鏡のようにすべてを映し出す智慧
③平等性を認識する智慧
④純粋に識別する智慧
⑤そして、すべてを達成する智慧です。
それぞれの四人の侍者、そして彼ら自身は、
すべてが平等の価値である領域なのです。
「純粋な経験の連続体の中にとどまっている智慧」は、確実に不動です。
それは、すべての表象の思考の主体・客体の枠組みによって生じた事柄を超えています。
「鏡のような智慧」は、光輝、空、そして原初のようです。
それは、他のすべての認識の形態の誕生の場です。
「平等性を認識する智慧」は、その存在の中ですべてが平等である領域です。
それは、輪廻と二つに分けられる存在ではなく、競う実体でもない、真のニルヴァーナの絶対的完全性です。
「純粋に識別する智慧」は、その生き生きした明智によって、すべてのものを知っています。
それは、ありのままな、そして相互に関係している物事を見ることです。
「すべてを達成する智慧」は、最も素晴らしい魅力的な行動です。
それは、想像することができるものすべてを達成するでしょう。
それらから成る侍者は、十の霊的レベルがあります。
メッセージは、光り輝く放射線で飽和したサマーディの経験です。
それから、それらのレベルのそれぞれの無明を浄化された心が生まれ、
嫉妬などの無明を放棄し、そして勝者は見られるのです。
無明は、あなたが、それらの師の純粋さと対照的なあなた自身の固有の無明を発見したとき、取り除かれるでしょう。
そしてあなたは、「あらゆるところが光り輝く」というステージに安住するでしょう。
すべての衆生は、五つの如来の一族のどれか一つには属していますが、
それはただ修行者を飲み込んでいる深い闇が取り除かれたときだけ、現われるのです。
修行者の迷妄が取り除かれたとき、オグミンの領域である師ヴァイローチャナの領域があらわれ、
そしてメッセージ、純粋な経験の連続体としての智慧は、明らかになるでしょう。
同様に、嫌悪を取り除くことによってアクショブーヤの領域が現われ、
傲慢を取り除くことによってラトナサンバヴァの領域が、
愛著を取り除くことによってアミターバの領域が、
そして嫉妬を取り除くことによってアモーガシッディの領域が現われます。
◎報身
報身として師の領域では、
師の側近をはじめとした様々な要素がありますが、
それらすべてが報身というわけではありません。
それらは変化身のレベルに属します。
しかしこれらの変化身は、霊的に高度なレベルの衆生以外には認識できないので、
それは「反化現の変化身」と呼ばれています。
この領域は、美しい宮殿のようです。
十方に輝く光の放射線があり
七つの宝石で造られ、
蓮華の花から生まれた無数のブッダの御子(菩薩)がおり、
望んだすべてものが雨のように降り、
叡智のメッセージが響き渡り、
そして、如意樹や如意珠の海によって装飾されています。
それらは、半有形の寂静な姿の変化身です。
同様に、ダーカとダーキニーの雲が生じる
激怒の形の無限の曼荼羅があります。
シュリー・ヘールカなどの五つの憤怒尊のそれらの領域は、
密教行者たちの前に、明らかに現われます。
これは「至福という天空をあまねく旅する」と言われ、
聖者によって称賛されています。
◎変化身
この領域から、衆生を導くための変化身が生じ、
そして、それぞれの師として、六道輪廻の中に現われます。
天界を救う変化身は、インドラ。
阿修羅界を救う変化身は、ヴェーマチトラ。
人間界を救う変化身は、シャーキャシンハ。
餓鬼界を救う変化身は、ジュワーラムカ。
動物界を救う変化身は、ドゥルヴァシンハ。
地獄界を救う変化身は、ダルマラージャ。
これらの六人のブッダ方は、六道の衆生のそれぞれのカルマを一つ一つ浄化します。
これらの六人の基礎的な変化身は、
さらに、想像もできないほどの多くの変化身を生み出します。
そしてさまざまな世界の、さまざまなタイプの衆生の師として、
さまざまな変化身が活躍するのです。
人間界でも、導かれるべき者がいるところはどこにでも、彼らは現われます。
あるときは僧として、あるときは菩薩として、あるときは王などとして現われて、彼らは人間たちを教化するのです。
同様に、天界や阿修羅界でも、彼らはそのように行なうのです。
動物界では彼らは、鳥に対しては鳥として現われ、
そして、たとえば鹿に対しては、ライオンなどの姿で現われます。
それぞれのタイプの衆生を教化するために、師は、想像もできないほどの様々な姿になるのです。
同様に、餓鬼界や地獄界でも、彼らは、それら救われるべき衆生に適した形で現われ、適切に行動するのです。
それらの衆生の指導者たちは、二種類の純粋意識を持っています。
一つは、世界の絶対性を感知し、
もう一つは、相対性を感知します。
分別が生じる前の純粋な心と、
経験が反映された心を、混ぜることなく、
明確にそれらを悟り、彼らは、導かれる者たちに適した利他行に励むのです。
絶対性を感知する意識は、
真実在と空の様相を感知します。
そして、衆生に心の停止を教えます。
相対性を感知する意識は、
心の働き、智性の能力を感知し、
そして、彼らの違いを知り、無数の教えを説くのです。
これは、浄化されていない存在の前に現われる師のことです。
彼の領域は、六種類の輪廻の世界です。
師は、彼らの心の状態に照らして現れます。
教化されるべき衆生の様々な状態に応じて、
師は、さまざまなタイプのメッセージを伝えます。
輪廻の六つの世界は、
いろいろなカルマの行為、それらへの傾向、
それらの果報としての幸福と悲哀、
これらの善と悪、因と果とともに存在します。
その六種類の変化身の師は、法身や報身とは違い、
衆生の目の前に実際に現われます。
それらの師の様々な現れは、慈悲の心の反響の遊戯として現われるのです。
これは、無限の慈悲の魔法です。
そして、世界が存在する限りは、その魅力的な活動は終わらないでしょう。
この領域から、生命のない物質的なものの中にも、
様々な他の変化身が生じます。
絵画、彫刻、自然、
経典、礼拝所、
蓮華の花、果樹、公園、
美しい家や楽しい林、
宿、船、橋、
灯火、宝石、食物、衣服、馬車など、
それらの物質の中に、いろいろな方法で人々を助ける変化身の現われが、存在しています。
まだ準備ができていない衆生に対しては、変化身の師は、
当分の間は、それらによって喜びに満ちた楽しい場所を創り、
最後には、様々な変化身を通じて、
彼らを解脱への道に入れることによって、
衆生の幸福は自然に確実となるでしょう。
もしも、導かれるべき者がいなくなったならば、変化身の師は消え、
報身の自己顕現は、法身の中に潜るでしょう。
もしもそこに容器がないのならば、
水面の月の反射は、
新月のように、空の中に消えてしまうでしょう。
もしも、導かれるべき者が現われたならば、それらの顕現は、
以前の通りに生じるでしょう。
これは、自然に生じる活動なのです。
この崇高な内的安らぎの法則によって、
すべての衆生が、心の本性、純粋な光輝の連続体に出会いますように。
そして、心の本性から離れた架空の世界を信じるという悪の汚染によって、疲弊しきった衆生の心が、
今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。
「安らぎを見つけるための三部作 パート1『心』」の結語
この内的な安らぎと至福の大量の雨によって、
この功徳の雲である教えから、
三界の衆生の幸福が育ちますように。
そして、このようにしてブッダの実りを自然と得ることができますように。
衆生の智性的な視野は、曇っています。
互いに相反しあうタントラとスートラに従って、
その両方の道を、つかんで離さないでください。
そしてまた、それらを誤って混合しないでください。
誤って混合するならば、それらは両方とも、不完全な見解になってしまいます。
ウディヤーナの城で
わたし、ティメー・ウーセル(ロンチェンパ)は、
この手引書を、教学のために書きました。
そしてわたしは、
原因の道と結果の道、両方の霊的探求の
素晴らしく、深い意味を、正しく混ぜ合わせました。
この善き行為によって、この世界のすべての衆生が、
例外なく、内的安らぎという壮大な砦に到達しますように、
そして、すべての方角とすべての時間の、
ダルマターの真実在と純粋意識の結合が、その恩寵を広げますように。