「シクシャーサムッチャヤ」第一回(1)
2009年10月11日
解説「シクシャーサムッチャヤ」第一回
はい。では今日はシクシャー・サムッチャヤですね。これはちゃんと教学している人は分かると思いますが、『入菩提行論』で出てきますね。入菩提行論の中で、「シクシャー・サムッチャヤは必ず見るべきである」と書いてある。で、気になっていた人がいるかもしれない。「いったいなんなんだろう?」――必ず見るべきっていうわりにはどこにもないという(笑)。
(一同笑)
で、実際これ日本でね、こういう感じで訳されたものが、今まで――まあちょっと難しい感じの読みくだし訳みたいなものはあるんですが、しっかりこう分かりやすく訳したのなかったのでしょうがなかったんですが、それをね、まあかなり要訳した感じでまとめたのがこの作品ですね。
これはもう一度言うと、シャーンティデーヴァね――あの『入菩提行論』のシャーンティデーヴァには、三つの作品があったといわているんですね。その中で有名な『入菩提行論』はまあ適度な長さ、中くらいの適度な作品だといわれてる。で、一番コンパクトなのが『スートラ・サムッチャヤ』。で、最も長大な作品がこの『シクシャ―・サムッチャヤ』といわれています。
で、このシクシャー・サムッチャヤというのは、「シクシャー」というのはこれは「教え」とかいう意味ですね。で、「サムッチャヤ」というのは、まあ「集まり」とかいう意味なので、これは学んでいけば分かると思うけども、この『シクシャー・サムッチャヤ』とかと『入菩提行論』の違いは、『入菩提行論』はあくまでもシャーンティデーヴァ本人の言葉によってまとめられているんですけども、この『シクシャー・サムッチャヤ』は、経典の引用なんですね。つまりいろんな経典から――例えば「これについてはこの経典ではこう言ってる」と、「この経典ではこう言ってる」っていうふうに経典の引用を軸として論をまとめているのが、この『シクシャー・サムッチャヤ』の特徴ですね。
はい。で、これをまあちょっとまとめてみたところ、非常にこれもね、内容的に素晴らしいので、勉強会でもね、今回やろうということで始まりました。
まあ今日は初めての方もいらっしゃるので言っておくとね、これは仏教です。ヨーガというよりは仏教の経典になります。で、仏教というのは、まあ日本の仏教というのは、まあお葬式とかね、冠婚葬祭とか、あるいはお墓とか、そういうイメージの方が強いかもしれませんが、本来インドの仏教というのは、いわゆるヒンドゥー教のヨーガと競り合っていうかな、お互いに切磋琢磨しながら、あるときはぶつかり合い、あるときはまあ融合し合いながら、真理を求めてきたものなんですね。
で、インドとかチベットでは、仏教の修行者をヨーギーというんです。ヨーギーね。つまりヨーガ修行者――つまり修行そのものはヨーガなんだね。だからまあ、辛気臭い仏教ではなくて、なんていうかな、本当に悟りに至る道を真剣に求めている仏教というのが、インドとかチベットにはあったわけですね。その中でもこのシャーンティデーヴァという方は、大乗仏教のこういった素晴らしい教えを残した人の中心的人物の一人ですね。その人の作品がこの『シクシャー・サムッチャヤ』。
で、仏教にはまあいくつかの派があるわけですが、大雑把にいうとこれは大乗仏教の教えになります。つまり非常に簡単にいうとね、菩薩道、つまり単純に自分が真理を悟りこの輪廻から解放されるという教えではなくて、衆生のために、つまりすべての生き物のためにわたしは修行したいんだと、わたしの修行する理由は、わたしとね、縁のあるすべての衆生を苦しみから救いたいんだと、そのためにわたしが激しい修行をして仏陀になろう――という道がこの大乗仏教ですね。
ですから、この先ほど言ったシクシャー・サムッチャヤ、つまり「教えの集まり」という経典ですが、あくまでもそれは大乗の菩薩道の教えの集まりだと思ってください。大乗の菩薩の教えをいろんな経典から引っ張ってきてまとめたものということです。
【本文】
第一章
布施のパーラミター
すべてのブッダと菩薩に帰依したてまつります。
地獄は大恐怖にして猛苦極まりない。
かつて寂静の心がなかったが故に、幾度も地獄に落ちてきた。
ゆえに教えを学ぶことを決意し、偉大なるダルマに親しむ。
ダルマを学ぶことによって、もろもろの罪悪を遠離し、かつて作った罪悪を懺悔する。
これによって未だかつて得ることのなかった喜びを得、その菩薩の素晴らしい至福はどんどん増大して減少することなく、最終的にブッダの最高の至福を得るべし。
真理との出会いは稀有である。願わくばほんの少しの間、我が説くところを聞け。
ただ三界の主なる人の言葉を聞くために、ここへ来たれ。
神々もナーガも喜び、ガンダルヴァ、ヤークシャ、ガルダ、阿修羅、キンナラの主も、大聖仙も、真理を聞く渇望を生ぜしめて、ここへ来るべし。
如来とダルマとブッダの御子(菩薩)とに、われは今、ブッダの言葉を集め理解せんがために、決意し、誠実に恭敬す。
われは過去において少しの真理の理解もなく、教えもなく、教えの言葉も知らず、善の実践もせず、また幸福を得ず、ただ自我のみを友としてきた。
しかしわれは、もろもろの善根を成就せんがために、清浄なるダルマを得ることを決意した。
そして今、かつてのわれらのごとき者たちのあり様を見て、教えをまだ学んでいない者たちのために、われはこの教えを説こう。
はい。これはシャーンティデーヴァによる序文ですね。じゃあサーッといくと――「すべてのブッダと菩薩に帰依してたてまつります」と。「地獄は大恐怖にして猛苦極まりない。かつて寂静の心がなかったが故に、幾度も地獄に落ちてきた」と。
この勉強会では、何度も出ている人は――一ヶ月に一回もまわってこないほどのたくさんのテーマがあって(笑)、で、そのテーマも、まあヒンドゥー教のヨーガ関係のテーマもあれば仏教関係のテーマもあり、仏教関係のこういったね、作品っていうのはだいたい最初の方では同じような教えが出てくるので、まあ何度もこういう話を聞いていると思いますが。
仏教あるいはヨーガの聖者方の教えを信じるとするならば、われわれは過去において何度も何度も生まれ変わってきているわけですね。で、それは最近のいろんな霊能者とかが言うような楽観的な話ではなくて――まあよくね、三角形もしくは台形っていうかな、ピラミッドのような、下の方が広いのがこの六道輪廻だといわれる。
どういう意味かというと、われわれは――ちょっとね、これはショッキングかもしれないけども――ほとんど地獄なんです。まあ、ここでいう地獄というのは、悪趣といって、地獄か動物か餓鬼ね。餓鬼っていうのはいわゆる、悪い苦しい霊の世界ですね。その三つにほとんど落ちてきたっていわれています。これはお釈迦様自身がそう言っています。ほとんどそれだったと。でもわわれれは無智だからすぐ忘れるわけですね。
すぐ忘れるっていうか――だからちょっとイメージ的にいうとね、ものすごい長い間、それはもう数字では表わせないくらい長い間、われわれは地獄で苦しんできたのかもしれない。あるいはあるときは動物に生まれ、苦しみ、あるいは餓鬼に生まれ苦しみ、そういうことをひたすらやってきたわけですね。で、たまたまというか、たまたまいいカルマがまあ発現して、われわれは今人間にいるんですよと。で、それは、なんていうかな、いつも言うように、稀有な、本当に稀なチャンスなんだと、本当に稀な千載一遇のチャンスなんだということは、しっかり頭に入れとかなきゃいけない。
-
前の記事
「解説『ただ今日なすべきことを』」第2回(5) -
次の記事
「シクシャーサムッチャヤ」第一回(2)