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「サヴィチャーラとニルヴィチャーラ」

◎サヴィチャーラとニルヴィチャーラ

【本文】
『エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマヴィサヤー
ヴィヤーキャーター

これに準じて、それよりも精妙な対象に関係するサヴィチャーラとニルヴィチャーラは説明される。

スクシュマヴィシャヤトヴァンチャーリンガ・パリャヴァサーナム

より精妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上的な諸原理を総括した表現である。』

 はい。こう見るとちょっと難しいような気がするけど、つまり――まず、有尋と呼ばれる状態。そして有尋有伺(うじんうし)。はい、この有尋がサヴィタルカ、無尋がニルヴィタルカ。
 「ニル」っていうのはニルヴァーナのニルと同じで、「ない」もしくは「消滅」みたいな感じです。「ヴィタルカ」、これは尋。つまり対象に対するいろんな分析作用や分別みたいなものが――「サ」っていうのはまだある状態。まだあるサマーディと、なくなった状態。
 で、もう一つ、有伺。これはサヴィチャーラ。で、無伺がニルヴィチャーラ。ヴィチャーラと呼ばれるものがある状態とない状態。ヴィチャーラって何かっていったら――実はこの尋と伺、つまりヴィタルカとヴィチャーラの違いは、いろんな説があります。この『ヨーガ・スートラ』でいってるのは、単にそれは対象の違いだと言ってる。つまりヴィチャーラの方が微細だと言ってる。単純な、なんか画鋲に集中しましたとかじゃなくて、その奥にあるこの世の構成原理とか、地・水・火・風・空の元素とか、あるいはプラーナの働きとか、そういう瞑想しないと感じ得ないような対象に対する分別。これがまだある状態がサヴィチャーラだね。それさえもなくなった状態がニルヴィチャーラです。仏教ではこのサヴィタルカ・サヴィチャーラ、これを第一サマーディといっている。第一静慮。で、この二つ――つまりセットなんだね。粗雑な分別も微細な分別もまだあるサマーディを、第一サマーディといっている。どっちもなくなりましたっていう状態を、第二サマーディといってるんです。だから全く同じことをいってるんですね。

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