「グルに対して、供養してお願いすること」
◎グルに対して、供養してお願いすること
【本文】
『◎グルに対して、供養してお願いすること
「五次第」の中に、
「すべての供養を捨てて、グルを供養することを正しく始める。
彼を喜ばせることによって、全智者の最高の智慧を得ることになる。
師であるヴァジュラサットヴァへの供養は、無上のものである。」
と説かれているように、すべての供養の中でも、グルを供養することこそ最も一生懸命にすべきであるということに対して、強い確信を生起して、グルを供養する。
日々、さまざまな方法で、グルを供養すべきである。
そして瞑想修行としては、「曼荼羅供養」を行なう。』
これはつまり、すべての供養でグルへの供養が最高です。例えば貧しい人にさまざまな援助をする。これはもちろん素晴らしい。あるいはさまざまな神々に供養を捧げる。これも素晴らしい。あるいは、いろんなタイプの聖者とか修行者に供養する。これも素晴らしい。しかし最高なのは自分の師への供養なんだと。
これはさっきも言ったように、例えばダライ・ラマ法王が現われようが、まあもっと極端に言えばだよ、お釈迦様がやって来ようが、ね(笑)、あるいはミラレーパがやって来ようが、誰が来ようが、それ以上に自分の師匠への供養が最高なんだっていう考えなんだね。
それをしっかり認識して、日々さまざまな方法でグルを供養すると。つまり日々、例えば物質的なお金や、あるいは食べ物や財産の供養だけじゃなくて、例えば奉仕、いろんな意味で奉仕をして、つまり自分の時間やあるいは自分の肉体的なね、労働を捧げてグルに奉仕すると。あるいは、何もそういうチャンスがないときは心の中でね、自分の執着してるものを供養するとか。あるいは日々いろんなものを食べながら心の中でそれを供養するとか。そういったイメージを使って供養したり、あるいは実際のものを供養したり、あるいは自分が奉仕をするっていう形で供養をしたり、もういろんな意味で日々自分の師匠に供養しなさいと。
そしてそれは日々行なうんだけど、実際瞑想としてそれを行なうときは、これから出てくるこの曼荼羅供養という瞑想をしなさいと。
はい、ここでもその曼荼羅供養のやり方が、まあこれも一つのやり方として書かれてますが、まあ曼荼羅供養はこの中で習ってる人も多いと思うんで、それはその自分が習ったやつをやればいいと思います。でも一応ここに書いてあるのも読んでみましょう。
◎曼荼羅供養
【本文】
『 曼陀羅供養のやり方は、以下の通りである。
曼陀羅を、芳香と五甘露を含んだ水で濡らす。
偉大な黄金の大地を、「オーム・ヴァジラ・ブーミー・アー・フーム」と唱えてこする。
外輪山の周辺を、「オーム・ヴァジラ・レーケー・アー・フーム」と唱えてあらわす。
芳香と五甘露を混ぜた花束を中心にたてて、中心のスメール山をあらわす。同様にそれぞれの位置に花束をおいていき、』
みんなに教えた曼荼羅供養は――っていうか一般的に曼荼羅供養はだいたい米で行なう場合が多いね。米ね。お金持ちの人は宝石でやれって書いてあります(笑)。宝石いっぱい用意して、ジャラジャラとその宝石でやると。ね。ただまあ、一般的には米でやります。
でもここでは花束が書かれてるね。花束でやるっていうやり方が書かれています。ただ花束だといっぱいできないからな……ちょっとやってるうちに花がグジャグジャになっちゃうだろうし(笑)、花買ってくるのも大変だし、わざわざ摘むのもちょっとねえ、広い意味での殺生になってしまう。植物とはいえ、むやみにあんまり摘まない方がいいしね。
昔からインドとかでは花束、花束っていうか、花ね、例えば毎朝花を摘んできたり、あるいはもう落っこちてる花を拾ってきたりして、それで花輪を作って、毎朝神に捧げたりとか、そういう習慣もあったりするんだね。ただ仏教においては本来はあんまり植物も殺生しない方がいいから。あるいは毎回買ってくるのも大変だし、すぐにグジャグジャになっちゃうから、だから実際は米とかが一番いいと思うね。
【本文】
『東はヴィデーハ州、南はジャンブ州、西はゴーヤーナ州、北はクル州とする。
東の左右に花をおいて、』
デーハとかヴィデーハとかいろいろ出てきますが、みんなに教えたやつでは日本語に訳したやつがありますが、ここに書いてあるのはその原語ですね。サンスクリット語が書いてあります。はい。じゃあちょっとこの辺は飛ばして、
【本文】
『 そして、
「自他の身・口・意の三業と富と三世の善根の集まりの、すばらしい宝の曼陀羅に、サマンタバドラ供養の集まりを伴った心によって観想し、グルとイダムと三宝に捧げます。慈愛の心によってお受け取りになり、わたしを祝福してください。」』
これは一つの詞章ですね。この詞章を唱えて、グルに捧げるイメージをすると。
【本文】
『 花等の外供養と、内供養である甘露と、秘密の供養によって供養し、称賛することをもって称賛し、グルの前で、一般と特別の戒を受ける。』
これはね、この外供養、内供養、秘密の供養っていう言葉ってよく出てきて、これはいろんな説っていうかいろんな説明のパターンがありますが、オーソドックスにいうと、まず花等の外供養、これは一般的な供物です。つまり花とか、お金とか、お米とか、食べ物とか、そういった物質的な供物ですね。
内供養である甘露っていうのは、これはね、二つ意味があって、まずこれは本当にそれを昔やってたのかどうかは別にして、密教で五甘露っていった場合、人間の不浄なものを指すんだね。不浄っていうのは、尿とか、大便とか、血液とか、精液とか、あるいは髄液とかそういった不浄な、普通汚い、不浄だとされているもの。それを全部混ぜて、それを瞑想の力によってすごい清浄なものにするんです。これはだからそういう浄とか不浄の観念を打ち破る一つの修行なんだね。それを実際は瞑想でやるんだけど、古代において本当にそれやってのかどうかは分かんない。本当の例えば尿とか大便とかを集めてきて混ぜて、それを瞑想でピカーッとこう素晴らしいものに変えることが、誰かできたのかよく分かんないけども、現代ではそれを瞑想でやる。瞑想でそういうイメージをして、本来不浄だったものを素晴らしく変えてね、それを供養するイメージをする。
あるいはもう一つの意味としては、これは実際の自分に生じた甘露、つまり修行をして自分に甘露が落ちてきて、自分の中に素晴らしいエクスタシーが生じましたと。その素晴らしい快感をグルに供養すると。こういう意味もあるね。
はい、秘密の供養っていうのはこれは女神の供養です。女神ね。つまりさっきヴァジュラダラとかヴァジュラサットヴァとかでも出てきた、その素晴らしい徳と悟りを備えた女神を観想して、その女神を自分の師匠にこう捧げるっていうイメージですね。
はい、この三つの供養によって供養し、称賛し、グルが自分に戒をね、戒律を授けてくれたっていうイメージをするわけですね。
【本文】
『 それから、大きな尊敬の心を持って、共通と特別の道を速やかに心の連続体に確立させることと、悪縁を滅して良縁を思い通りに成就することを祈願する。
それによってグルがお喜びになられて、グルの三カ所の文字から、白・赤・青の光明が放たれて、自分の三カ所に順次に入る。』
さっきのね、目の前にいらっしゃるそのグルの頭と喉と胸のオーム・アー・フームね。これからそれぞれ白、赤、青の光明が放たれ、自分の三カ所に順次に入る。分かりますね。つまり、自分の目の前にグルがいらっしゃって、まずグルの頭の白いオーム字から白い光がパーッと放たれて自分の頭に入ります。グルの喉の赤いアー字からパーッと赤い色が放たれ、自分の喉に入ります。グルの胸のフーム字から青い光がパーッと来て自分の胸に入りますってことですね。
「それによって、身体の内のすべてが、三つの光明によって次第に満たされて、三業の垢を清め、」――三業っていうのは身口意ね。体と言葉と心で犯してきた罪を清めるっていうことですね。
「壺・秘密・智慧のイニシエーションを順に得て、カーヤヴァジュラなどの三つのシッディを順に得ると思念する」。――ちょっとまた専門用語がいっぱいあって難しいけどね。壺・秘密・智慧っていうのは、これは密教のプロセスで四つのイニシエーションっていうのがあるんですね。四つのイニシエーションっていうのも、実際は重層的な意味がいろいろあるんです。つまり、だいたい四つのイニシエーションといった場合、壺のイニシエーション、秘密のイニシエーション、智慧のイニシエーション、そして四番目はね、別に名前があんまりなくて、第四イニシエーションとかいうんだけど。この四つがありますと。
この四つはどういうイニシエーションなんですか? それからそれによって何が得られるんですかっていうのは重層的な意味があるんです。重層的っていうのは、意味が一つじゃないんだね。いろんなパターンのいろんな意味があって、それがこういろいろ入り組んでるから、非常に分かりにくいんだけども。
ただまあ簡単にいうと、この壺のイニシエーションといわれる最初のイニシエーションによって、われわれの身体的なカルマ、つまり肉体的なカルマが浄化され、それによって変化身ですね、ニルマーナカーヤ、変化身と呼ばれるものがわれわれに生じますよと。
そして二番目の秘密のイニシエーションによって、われわれの言葉のカルマが浄化され、そして、これは報身という、報いる身体と書いてね、報身と呼ばれるサンボーガカーヤと呼ばれるものがわれわれにそなわりますよと。
そして三番目の智慧のイニシエーションによって、われわれの心のカルマが浄化され、そしてダルマカーヤね、ダルマカーヤっていうのは悟りそのものだけども、その悟りそのものが自分に備わりますよと。
そして、「カーヤヴァジュラなどの三つのシッディ」。はい、カーヤヴァジュラっていうのは、カーヤっていうのはこれはわれわれの体のことです。体ね。今言ったけど、例えばニルマーナカーヤっていうよね。これは変化身。サンボーガカーヤ、報身とかね。つまりカーヤってつくのは体っていうことです。身体のことをカーヤっていうんですね。カーヤヴァジュラっていうのは、つまり直訳すると、身体ヴァジュラっていうことなんだけど。つまりヴァジュラ、ヴァジュラの身体。
これもあまりそれは何なんだっていう、そこはまだ追求しなくていいんだけど、ヴァジュラのような完璧な、清らかで、そして堅固になった体を持つと。
で、同様にヴァークヴァジュラ。ヴァークっていうのは言葉だね。で、チッタヴァジュラ。チッタっていうのは心のことですね。これを三つのシッディっていうわけですが。
つまり簡単にいうと、さっきから言っている身口意、われわれの体と言葉と心が、ヴァジュラのように完全なる清らかさと、完全なる堅固さ、壊れない状態になりますよということだね、簡単にいうとね。
つまり簡単にいうと、その目の前のグルの頭から放たれた白い光が自分の頭に入ることで、自分の肉体、身体に関係するすべてのことが浄化され、完璧なる身体を得ると。
で、グルの喉から放たれた赤い光が自分の喉に入ることで、自分の言葉が完璧になり、すべての言葉の罪が浄化されると。
そしてグルの胸から放たれた青い光が自分の胸に入ることで、自分の心の罪が、けがれが全部浄化され、自分の心が完璧な状態になると。こういう観想をするっていうことですね。
はい。それから、「グルの身体の一切の場所から光明が放たれ」――今度は体全体からバーッて光が放たれて、「自分の身体のすべての門」――さっき言った、目とか耳とかの穴。あるいは毛穴。あるいはチャクラとかも入れていいかもしれない。とにかく自分の身体のいろんなところからその光が入ってきて、「三業の微細な障害を清める」――三業、さっきから言っている身口意ですね。体、言葉、心の粗雑なものだけではなくて微細な、微妙な罪とかも全部清め、「第四イニシエーションを得て、三ヴァジュラが無差別のシッディを得たと思念する」。さっきも言った、身口意の状態がもう完全なる状態になったんだっていうふうにイメージするっていうことですね。
はい、そして最後に、グルが自分の頭上から溶け込んで、自らの身・口・意の三つと、グルの身・口・意が全く変わらないものになったと。そういうふうに思念して、最終的に百字マントラね、さっきのヴァジュラサットヴァをしっかり唱えて、その状態を堅固なものにすると。
はい。そして、この瞑想は、日々の修行の前後の間と、修行の冒頭に行なうといいですよというところですね。はい。これもだからみんなに教えた曼荼羅供養があるので、そっちをやったらいいと思います。普通はね。ただまあこれをやりたかったらこういうイメージっていうかな、も、もちろんやってもかまわないというとこですね、ここはね。
はい。ちょっと今日は勉強会というより瞑想の伝授みたいな感じだったけども。はい。最後にじゃあ、質問がもしあったら聞いて終わりにしましょう。
はい。質問がある人いますか。特にないかな。はい。じゃあ、なかったら終わりにしましょう。
(一同)ありがとうございました。
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