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「カルマの法則への確信」

◎カルマの法則への確信

 はい、そして、「カルマの法則に対して確信を得られないから、いかなる戒も詳細に遵守することのできない、粗雑な修行者になる」。

 はい。これもしっかりカルマの法則を学び、考え、理解しておかないと、確信が得られない。つまり、お釈迦様が言ってるからそうなのかなっていうレベルの話ではなくて、しっかりとカルマの法則の理解を自分の中に深めなきゃいけない。で、それに対して信を持つ。つまりカルマの法則っていうのを、本当に自分が理解し信じていたら、怖くてもう悪しきことは一切できなくなるんだね。

 つまりカルマの法則って簡単に言うと、誰かに何かをやったら、それが――まあつまり、いつも言うように、この宇宙っていうのはそもそもプレーンだと。プレーンなところに何かアクションを起こしたら、当然そこで起きたひずみっていうのはゼロに返ろうとする。これがカルマの流れなんだね。そのゼロに返ろうとするっていうのは、作用反作用の法則とかと同じで、全く逆のベクトル――つまり自分が誰かに何かをやったっていうことが、誰かから自分に返ってくるっていうことで返ってくる。これが道徳的な教えではなく――つまり子どもに教えるように、「あなた悪いことやると地獄に落ちるよ」とかそういう脅しの教えではなくて、本当にこの現象世界の仕組みっていうのはそうなってるんだと。こういうことをしっかりと自分の中で確信する。

 そうすると、例えばさ、道徳的なこととかあるいは表面的な理解だったら、誰も見てないからこれはいいだろうとか(笑)、あるいはこれくらいならいいだろうっていう発想になっちゃうんだけど、誰が見てなくたって、あるいは小さなことであったって、それは大変な――積もり積もってね、将来自分にとってマイナスなことが起きるんだと。それが本当に理解できてたとしたら、誰が見てなかろうが、誰に強制されなかろうが、厳密に戒を守るはずなんだね。厳密に厳密に、やっちゃいけないっていわれてること、悪を退けようとする。

 しかしなーんとなく、まあお釈迦様が言ってるから、経典に書いてあるから、なんとなくこういう生き方をしようって感じだと、その戒の本質っていうのをよく分かってないから、ちょっと自分の心が弱いときとか、あるいはちょっと欲望が出たときとか、いろんな戒に反すること、つまりカルマの法則からいって、将来自分にデメリットがあるはずのことをいろいろやってしまう。これもだから準備修行がしっかりできてないがゆえのデメリットだっていうことですね。

◎輪廻への嫌悪

 はい、そして、「輪廻に対しての嫌悪が正確に生じないから、解脱への希求心も表面的なものに終わる」。

 これも、チベット仏教のシステムとかではそうなんですが、さっきも言ったように、輪廻の苦しみっていうのを徹底的に学ばせるんだね。輪廻、つまり地獄、餓鬼、動物、人間、そして神の世界。その一つ一つのデメリット。そしてそれらを含んだ全体的なこの輪廻転生といわれる、われわれが今束縛されているこの宇宙に生きることのデメリットを、もう徹底的に学ばせるんだね。

 それを――これはもちろんいろんな流派にもよるけども、例えばそうですね、寒い――まあチベットはすごい寒い国なわけだけど、すごい寒い日に、例えば裸で雪の中で瞑想したりして、いわゆる寒冷地獄に近い経験をするとか。あ、そうだ、と。寒冷地獄なんていうのはこんなものの比べ物にならないぐらいの寒さの世界だと。つまりわれわれが例えば、普通にこうあったかい部屋で、例えばソファーに横になりながら、「ああ、地獄か……」とか言ってるんでは全然心がこもらない(笑)。

 ただね、だからといってわざわざやる必要はないんだけど、われわれ生きてるとさ、いろんなことに遭遇するじゃないですか。だからそういうときにそういうイメージをしたらいいかもしれないね。例えば寒冷地獄っていうのはこのものすごい――まあわたしは東北だったんで、やっぱり寒かったね。今温暖化っていわれてるけど、たしかにね、子どものころの方が寒かったような気がする。冬とか。特に東北だから、非常に寒い。学校に行くときとかも、もう手が凍りそうになる。吹雪の日とかね、歩いてると。わたし学校まで、小中学校は歩いて一時間ぐらいかかってた。高校は自転車で一時間かかってた(笑)。毎日二時間の往復があるわけだけど、冬なんか本当にもう手がガチガチになるぐらい寒いと。でも寒冷地獄といわれるのは、このもう何倍、何十倍、何百倍の寒さの苦しみで、で、それは、それが一時的にじゃなくて――例えば日常生活での寒さはさ、「うわあ、寒い」と。で、家に帰って「ああ、あったかい」と。で、お茶飲んだりして(笑)、それによって救われるところがあるけども、そういうのがない。ずーっと寒い。ね。それが経典によると、何万年、何十万年、何億年、あるいは数字にできないぐらい長い間続くんだと。

 そしてそれは、いろんな理由があるけども、例えば心の冷たさとか、あるいは殺生とか、あるいは他者に対する怒りの気持ち。特に寒冷地獄の場合、冷たい、冷酷な怒りの気持ち。これが作り出すわれわれの来世の一つがこれなんだっていうのを、徹底的に自分の中で繰り返しインプットするんですね。

◎輪廻の苦しみ

 もちろんこれだけじゃない。例えば、ずーっと飲食物を取れない餓鬼の苦しみとか、あるいは体中を切り刻まれたり焼かれたりする熱地獄の苦しみとか。

 まああるいは動物なんかもそうだね。動物も、われわれはなんとなく曖昧に動物界を見て、「ああ、動物かわいいなあ」「いいなあ」とか言ってるけど、まあペットは本当に動物の中のほんの一部。動物――ここでいう動物っていうのは意志を持って動く生命と定義したらいいと思います。だから植物は除いて、虫とか微生物とかも含めて、ある意志を持って行動している生命ですね。地球上のすべての動物をひっくるめたら、まあペットなんて本当に例外。もう〇・〇〇何パーセントぐらいかの存在であって。ほとんどの動物は弱肉強食の中にいたり、あるいは非常に無智でものが考えられない状態で、習性にのっとって同じことを日々繰り返さなきゃいけなかったり、そういういろんな苦しみがある。それを例えばそれになりきってね、あるいは日々歩いててそういう動物の姿とか見たら、それに心を没入させて、「ああ、本当に動物っていうのはかわいそうだ」と。で、「わたしも来世このままだと動物に落ちる危険性もあるぞ」と。

 動物って弱肉強食の――例えばテレビとかで、まあみんなテレビとか見ないかもしれないけど――わたし小さいころはよく、何だっけ、「野生の王国」とかやってたね(笑)。「野生の王国」とかいう昔のテレビがあって、今もそういうのあるかもしれないけど、毎週、アフリカとかの、ああいう動物の生態を映すんだけど。まあだいたいこうライオンが草食動物を捕まえて食う姿とかが、延々とこう流れてる。そういうのを見ると、例えば自分がシマウマになったことを考える。生きた状態で内臓を食い破られ、まだ意識が全然あるのに、もう内臓をずーっと食われてる。自分がああなったらどうだろうかと。ね。これリアルに考えると恐ろしいよね。生きてる間にこう食われるんだよ(笑)。うわーって食われて、内臓ぐわーってやられる。そういった苦しみとか。

 あるいは無智の苦しみ。無智の苦しみっていうのは、これはみなさん日々街歩いてても、例えばカラスとか、あるいはスズメとか、あるいは川で泳いでる鯉とか、ああいうのを見てもよく分かる。本当に無智に、もちろん深い思索とかがあるわけではなくて、同じような行動をずーっと一日中繰り返している。そういうのを分析して、動物界の苦しみ、動物に落ちることのデメリットっていうかな、それをしっかりと考える。

 あるいは輪廻全体ね。これはわれわれはまだ悟ってないから、教えを学ぶしかないんだけど、教えでいうと輪廻っていうのはもう終われない世界だと。つまり、仮にわれわれが徳があって神になったとしても、神も死ぬと。神として死んだら、また地獄に落ちるかもしれない。この延々とした、たまにいい状態になるけどまたそこから落下する苦しみがある。で、ほとんどは下の世界で苦しんでる。たまによくなるんだけど、また落下する。この終わらない輪廻の苦しみみたいなのがある。それを考えれば考えるほどぞっとしてくるんだね。

◎解脱するしかない

 修行って、あらゆるコンディションのときにもちろんできるわけだけど、特にね、みなさんが例えば生きててね、ちょっと暗いときってあると思うんだね。暗いときとか、ちょっと卑屈なときとか、あるいは何か悲しみや苦しみを感じてるとき。そういうときは逆に、この輪廻の瞑想っていうのはやりやすいかもしれない。つまり例えば、嫌なことがあったり、誰かに怒られたり、あるいはそういうのはないんだけど精神的にちょっとこうなんかむなしくなってるときとか。そういうときこそ、逆にこういうことをたくさん考えたらいいかもしれない。本当に輪廻っていうのは苦だと。一つ一つも本当に苦しいことばっかりだけども、全体のもうシステム自体がもう苦なんだと。

 生きててもそうでしょ。生きてる中でもいろんな成功や失敗の繰り返しがあって、それに、常に未来に向かってわれわれは希望と恐怖を持ち、過去に対して後悔をしたり、あるいはいろんな思い出にしがみついたり、そんなことをしながら、何かを得ても失わなきゃいけない。で、自分が望むものを得られるか得られないかも分からない。得られても失う。得られなかったら逆の苦しみが待っている。このシステム自体が非常に苦なんだね。

 それが人生そのものを見てもそうだけども、死んだ後も、この輪廻と呼ばれる巨大なシステムの中からわれわれは逃れられないんだと。これから逃れるには修行して悟りを得るしかない、解脱をするしかないっていうことを、チベット仏教のシステムでは徹底的に考えさせるんです。徹底的にもうひたすら情報を入れて、そして思索をさせる。それによって、本当にもうわたしはこの世界にいてもしょうがないと。世界にいてもしょうがないっていうか、自殺しても変わらないからね。自殺しても、その人の心が輪廻から脱出してない限りはまた生まれ変わってしまう。よって、生きてても本当に苦ばっかりだと。自殺しても全く変わらない。つまり、わたしの心がこのシステム自体から解脱するしかないんだと。こういう思いを強く自分の中に、基本的な準備修行の段階で植えつけなきゃいけないんだね。

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