「カリパダ・ゴーシュ」
「カリパダ・ゴーシュの生涯」
無限であられる神が、どのようにして数え切れない人間の姿で化身され、人間としてのリーラーを演じられるのでしょうか?
さまざまな時に、さまざまな方法で、シュリ―・ラーマクリシュナは弟子たちのためにこの神秘を明かし、こうおっしゃいました。
「他者を解脱に導く者が、神の化身なのだよ。
神の化身は、地上で使命を果たすために、マーヤーの助けを受けたのだ。
人はアヴァターラを通じてのみ、神への信仰と愛を味わう。神のお遊戯の為さり方が無限なのだが、私に必要なのは愛と信仰なのだ。
私はミルクだけを求めるのだよ。ミルクは牛の乳房から出る。アヴァターラは乳房だ。
神ご自身が他者の救済の鍵を握って、化身として人間としてお生まれになるとき、化身はサマーディから世俗の意識に降りてくるのだよ。」
人々はアヴァターラ(神の化身)を理解することができません。なぜならば、彼は唯一無二の存在だからです。彼の生まれ、ライフスタイル、行為、振る舞いは、人知を超えた神の意思に基づいているので、人間の見地から判断するのは不可能なのです。
一切の存在――善良な者、邪悪な者、哀れな者、罪深い者、貧しい者、そして飲んだくれの者――に対するアヴァターラの愛と慈悲とは、存在の絶対的な次元から心を降ろし、それを相対的な世俗の存在に向けるというものです。
このようにして、彼は春の訪れのように、人類に善徳をもたらすのです。
利己的な動機は一切なく、彼は、荒れ狂うマーヤーの海を人々が渡る手助けをされます。
言うまでもなく、シュリ―・ラーマクリシュナは、大酒飲みや社会の堕落者をも救いました。
彼がそのようであったために、いくらかの狭く頭の固い宗教の指導者たちは、そのような人々に対して「十分な道徳的嫌悪感」を示さないシュリー・ラーマクリシュナを批判したのでした。
カリパダは、師によって救われたそのような「身勝手な者」の中の一人でした。
ギリシュのように、彼は根っからのボヘミアン(世間の習慣や伝統に背を向け、自由奔放に生きる者)であり、放蕩者であり、大酒飲みでした。
スワミ・アドブターナンダは、シュリ―・ラーマクリシュナが如何にしてカリパダの人生を変えたかということを回想して、このように語っています。
「ギリシュ・バーブがある夜、カリパダ・ゴーシュと共にやってきた。
カリパダはひどい大酒飲みだった。彼は家族に金を渡さずに、それを酒のために使っていたのだ。
しかし、彼の妻は非常に純粋だった。そのずっと以前に彼女は、彼女の夫の性向を変える何かの薬を求めて師のもとにやってきた、と聞いた。師は彼女をホリーマザーのところへおやりになった。ホーリーマザーは師のもとに返してよこされた。彼は再び彼女をホーリーマザーのところにおやりになった。
このやりとりが三回続いた。
ついにはホーリーマザーは、主に捧げたベルの葉に師の御名を書き、それをカリパダの妻に与え、主の御名を唱えよと告げられたのだ。
そしてカリパダの妻は素直に十二年間、主の御名を唱え続けた。
その後、師が最初にカリパダにお会いになったとき、師は、『この男は、十二年間妻を苦しめた後にここにやって来た』とおっしゃった。
それから師は、彼にこう尋ねられた。
『何がほしいのかね?』
カリパダはずうずうしくこう答えた。
『少しばかり酒をくださいませんか?』
師は微笑んで、こうおっしゃった。
『ああ、いいよ。しかしねえ、私の酒はたいそう強いから、おまえには耐えられないだろうよ。』
カリパダはそれを文字通り受け取り、こう言った。
『それは本物のイギリスの酒ですか? どうか、喉を潤すために少しばかりそれをください。』
『いいや、イギリスの酒ではない。』
師はそう言うと、さらに微笑みながらおっしゃった。
『これは純然たる自家製だ。これは誰にでもやれる酒ではない。皆がそれに耐えられるわけじゃないからねえ。
この酒を一度でも味わってしまったら、そのあとはもう、イギリスの酒など、気の抜けたように思えるだろう。
おまえはそんなものではなく、私の酒を飲む準備ができているのかね?』
カリパダは少しの間考えていた。それから私は、彼がこう言ったのを聞いた。
『どうか、私を一生を酔わせてしまう酒をください。』
そして師が彼にお触れになると、カリパダは泣き出した。
われわれは彼をなだめようとしたが、それにもかかわらず、彼は泣き続けたのだ。」
カリパダ・ゴーシュは、1849年に、カルカッタのシャームプクルで生まれました。
彼の父、グルプラサード・ゴーシュは非常に宗教的な傾向のある人で、母なる神カーリーに献身していました。
グルプラサードは小さな黄麻の商売をやっていましたが、それは経済的に家族を支えるのには十分なものではありませんでした。
それゆえに、カリパダは第八学年のときに父に学校を辞めさせられ、カルカッタにあるイギリスの新聞社、ジョン・ディッキンソン&カンパニーに務めました。
カリパダはほんの少ししか教育を受けなかったのですが、彼は知性的で能率的であったので、徐々に昇格し、会社で重要な身分を得るまでになったのでした。
カリパダは背が高く、がっちりとしていました。そして黒い肌に大きな眼を持ち、陽気で、愉快な顔をしていました。彼とギリシュ・ゴーシュは近しい友人であり、よく一緒に酒を飲んでいました。
1884年にカリパダをシュリ―・ラーマクリシュナのもとへ連れて行ったのはギリシュでした。
師の何人かの信者たちは、彼らを、チャイタニヤによって人生を変えられた悪漢「ジャガイとマダイ」と呼んでいました。
カリパダがシュリ―・ラーマクリシュナと出会った後、彼は家に帰り、師の言葉と人格に圧倒されていました。
彼はシュリ―・ラーマクリシュナに再び会いたいという抑えがたい欲求に駆られました。その後すぐ、1884年9月に、彼は船でカルカッタからドッキネッショルに行きました。
師はカリパダを見ると、「ちょうどカルカッタに行こうとしていたのだ」とおっしゃいました。
カリパダは、彼の船がガートにとまっていて、そこにシュリ―・ラーマクリシュナをお連れしたいということを彼に告げました。
シュリ―・ラーマクリシュナはすぐに準備し、ラトゥ(後のアドブターナンダ)とカリパダと共に出発したのでした。
彼らは船に乗りましたが、カリパダはこっそりと船頭に、河の真ん中に舵を取るように指示しました。そしてカリパダはひざまづいて、師の御足を握りしめ、こう言った。
「師よ、あなたは救世主です。どうか私の命を救ってください。」
「なんとまあ、これこれ!」
シュリ―・ラーマクリシュナは言いました。
「主の御名を唱えなさい。そうすれば解脱を得るよ。」
するとカリパダはこう言いました。
「私は不道徳で大酒飲みであります。神の御名を唱える時間さえないのでございます。
あなたは慈悲の大海であられる。どうか、私のような自制も誠実さもない悪党をお救いください。」
彼はしっかりと師の御足をつかみ続けました。
シュリ―・ラーマクリシュナはこの窮地から逃れる方法はないということ悟り、カリパダに舌を出すように言われ、そしてそこにマントラを書いたのでした。
そして師はこうおっしゃいました。
「これでおまえの舌は、自動的にこのマントラを唱えるだろう。」
しかしカリパダはうれしくありませんでした。
彼は師にこう言いました。
「そのようなことは望んでおりません。」
「では、どうしてほしいのだね?」
「私がこの世を去るとき・・・・・・」
カリパダは答えました。
「私は辺り一面暗闇に包まれ、その恐ろしい暗闇は私を恐怖でいっぱいにするでしょう。
わが妻、子供、そして他の身内の者たちは、そうなっても私を助けることはできないでしょう。
その恐ろしい時に、あなたは私の唯一の救世主となられるのでございます。
あなたは左手に光、右手に私を持って、私を連れて行ってくださるに違いありません。
そうして私は、永遠にあなたと共にあるのです。
あなたはこの私の祈りを叶えなければなりません。」
師は慈悲で心がいっぱいになり、こうおっしゃいました。
「わかった。わかったよ。
おまえの祈りを叶えてあげるよ。
おお、私の女神様!
あなたは私をガンガーの真ん中まで連れていき、こんな状況をお与えになりました!」
カルカッタに到着すると、カリパダは師に、どこに行かれるのかを尋ねました。
カリパダを喜ばせるために、シュリ―・ラーマクリシュナは、彼の家を尋ねたいとおっしゃったのでした。
カリパダはすぐに馬車を手配し、師を家に連れて行きました。
シュリ―・ラーマクリシュナが座られた部屋には、いくつかの神々、そして女神方の油絵があったと言われています。
そのような聖なる絵を見ると、師は大変お喜びになり、恍惚境の中でいくつかの歌を歌われ、その家に素晴らしい霊性の雰囲気を創られたのでした。
師がカリパダの家を訪れる数ヶ月前に、興味深い出来事が起きていました。
ある晩、カリパダの妹のマハーマーヤーが二階の窓から外を眺めていると、彼らの家に面しているシャームプクル・ストリートを、馬車が通り過ぎていくのを見ました。
その馬車の中には、目に留まるような人がいました。
すると突然、その人は窓から顔を出して、御者に「止まれ! 止まれ! 馬車をここで止めておくれ! ここがあの場所のようだ」と叫んだのでした。
マハーマーヤーは、彼の光り輝く顔を見ると、畏怖の念に包まれました。
ただちに彼女は家の者を呼び、あの聖人を見るように言いましたが、彼らが来る前に、馬車は元来た道を引き返していってしまったのでした。
馬車はゆっくりとラームダン・ミトラ・レーンを曲がっていき、そして見えなくなってしまいました。
マハーマーヤーは、決してあの神聖なる光景を忘れませんでした。
そしてシュリ―・ラーマクリシュナがカリパダの家を訪ねたとき、マハーマーヤーはすぐに、彼があの晩に見た人だと分かったのでした。
カリパダは定期的にドッキネッショルを訪ねるようになり、徐々に近しい信者の一人となっていきました。
彼は歌がうまく、ヴァイオリンとフルートも演奏できたのでした。ときどき師のために演奏することもありました。
ある日シュリ―・ラーマクリシュナは彼の奏でるフルートを聞いて、サマーディにお入りになりました。
カリパダは料理の達人でもあったので、信者たちはときどき冗談で、彼のことを「主婦」と呼んでいたのでした。
あるとき、彼がドッキネッショルにいた際に、カーリー寺院に行き、汚い言葉で母なる神を叱り始めました。
彼の胸は赤くなり、涙が頬を伝わりました。
シュリ―・ラーマクリシュナもそのときそこにおられ、カリパダの説教を聞くと、寺院から出て行かれました。
彼はその態度をよく思わなかったのです。
そこにいた弟子たちに、師はおっしゃいました。
「われわれの母なる神に対する態度は、子供がその母親に対する態度でなければならないよ。その他の態度(英雄の態度)はたいそう難しい。」
1885年9月、医師がシュリ―・ラーマクリシュナを癌の治療のためにカルカッタに転居させるように忠告しました。そうして、師のためにバグバザール地区に家が借りられたのでした。
シュリ―・ラーマクリシュナはその家がお気に召さなかったので、すぐに歩いてバララームの家に行ってしまわれました。
彼は他の家が見つかるまでの一週間、そこに滞在なさったのです。
それまでの間、信者たちはカルカッタで彼にまみえることができるのがうれしくて、彼に会いに集まってきました。
スワミ・サーラダーナンダは、以下のようにこの光景を述べています。
「ある午後だった。われわれはバララームの家に行き、人々で溢れかえっている上階の広間を見たのだった。
ギリシュとカリパダが、歌を豪快に熱唱していたよ。
おお、ニタイ、私を抱き締めておくれ!
今日、私のハートはいつもと違う
おお、ニタイ、私を抱き締めておくれ!
おお、ニタイ、愛の河に起ちあがる波――
ハリの御名を全生類にもたらしてくれる波――
私はその波にさらわれている
おお、ニタイよ、私は自分の手で契約書を書いた
そして八人の女友達はそれを見ていた
さあ、さあ、私は愛の『債権者』に借金を返そうか?
私の積み立てた富は尽きた
それでも借金はまだ未払いで残っている
さあ、私は愛の借金を払うために、己を売り払おうか
たいそう苦労して部屋に入ると、われわれは師が東の方向を向いて部屋の西側の端に座ってサマーディに入っておられるのを見た。
彼の御顔は、優雅で素晴らしい微笑みを浮かべた表情で装飾されていた。
その部屋は終始、寂静で神聖で感動的な雰囲気に包まれていたのだった。
数日後、カリパダはシャームプクルの自宅の近くに、師が暮らすための家を見つけた。
彼はその家に家具を取り付けて、師のお部屋に神々や女神方の写真を飾り、台所用品や食料を運んだ。
さらに彼は、師がカーリー・プージャーの夜にマザー・カーリーを礼拝したいとおっしゃたと聞いて、その礼拝のための準備をしたのだった。
母なる神への供養として、カリパダの妻は穀粉のプディングを用意し、シュリ―・ラーマクリシュナはそれを後でプラサードとして召し上がられた。
シュリ―・ラーマクリシュナはカリパダの寛大な性質にお喜びになり、彼を『マネージャー』とお呼びになられた。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダはときどきカリパダのことを『ダナ・カーリー(寛大なカーリー)』と呼んでいた。(ダナは同時に悪魔という意味もある)」
1885年10月24日、シャームプクルの家に滞在しておられたとき、シュリ―・ラーマクリシュナはジャパの秘儀を信者たちに説かれていました。
「ジャパとは、人里離れた場所で静かに神の御名を唱えるという意味がある。
彼の御名を一心の信仰心をもって唱えるならば、神の御姿を見、そして彼を悟るだろう。
ガンガーの水の中に沈み、その岸に鎖で結ばれている木片があったとしよう。
鎖にしがみついて進み、水の中に飛び込んで鎖を辿っていくと、遂には木片に到達できるだろう。
同様に、神の御名を唱えることで、彼に心奪われ、そして最後には彼を悟るのだ。」
カリパダは師の話に耳を傾けていましたが、彼はすでにその恩寵を受けていました。彼の舌は苦もなくマントラを唱えていたのです。
彼は微笑んで、信者たちにこう言いました。
「われらの師は素晴らしい師だ! 瞑想も苦行も他の修行も、やれとはおっしゃらない。」
1884年に、シュリー・ラーマクリシュナはギリシュ・ゴーシュの劇のチャイタニヤ・リーラーを見に行かれ、チャイタニヤの役を演じた女優のビノディニーに大変喜ばれ、彼女を祝福されました。
彼女は次第に師を大変愛するようになりましたが、再び師と会うという機会をなかなか得られませんでした。師のご病気のことを聞いて、彼女は再び彼と会いたいと切望していまいた。
しかし師の弟子たちは、訪問者に関しては非常にシビアでした。彼らは、シュリー・ラーマクリシュナが過度に話しをしてしまったら、あるいは不浄な人々に触れられてしまったら、彼のご病気が悪化してしまうだろうということを恐れていたのでした。
師に会うために、ビノディニーはギリシュを通じて知ったカリパダに助けを求めたのでした。
ある晩のこと、彼の助言を実行に移し、彼女はヨーロッパ風の淑女のように着飾り、カリパダと共にシャームプクルの家に行きました。
彼女を自分の友人として弟子たちに紹介し、カリパダは彼女を、そのとき一人で部屋におられた師のもとに連れて行きました。
カリパダが彼にこの「ヨーロッパ風の淑女」が本当は誰かということを話すと、シュリー・ラーマクリシュナは笑っておられました。
ビノディニーの信、信仰心、勇気を称賛すると、師は彼女にいくつかの霊性の教えを与え、彼女が額で彼の御足に触れるのをお許しになられました。
ビノディニーとカリパダが去ると、シュリー・ラーマクリシュナはカリパダの策略を弟子たちに話し、それは彼らの感情を刺激しました。しかし師は、弟子たちが怒れなかったほどに、非常にそれを楽しまれていたのでした。
1885年12月11日に、シュリー・ラーマクリシュナは、スモッグの多いカルカッタの環境から、コシポルのガーデンハウスに居を移されました。
12月23日に、彼はカリパダの胸に触れて、こうおっしゃいました。
「目覚めよ、おまえの内の魂……」
それから、カリパダのあごを優しく撫でて、彼は愛情たっぷりにこうおっしゃいました。
「神に心から呼びかける者、あるいは日々、敬虔な祈りを捧げている者は誰でも、間違いなくここに来るだろう。」
その日、師の祝福と無限の愛は、カリパダを別の人間に変えました。
彼は酒を飲む習慣を捨て去り、一切の世俗の事柄への興味を失ったのでした。
師がお隠れになった後、ギリシュとカリパダは、たびたび一緒に師の写真の前で長い時間、静かに座っていました。
眼に涙を溢れさせ、彼らは祈りました。
「師よ、どうか、われわれにあなたの正体をお明かしください。」
ナヴァゴーパール・ゴーシュが自宅でシュリー・ラーマクリシュナの祝いの祭りを執り行うときにはいつでも、ギリシュとカリパダはキールタンを歌い、踊りを踊ったのでした。
その後、彼らは眼を閉じてじっとして座っていると、ナヴァゴーパールは彼らに花冠をかけ、彼らは恍惚境の中で「ラーマクリシュナ、ラーマクリシュナ」と声を上げました。
信者たちは、彼らの人生における変革に感銘を受けていました。
カリパダが亡くなった後、ギリシュは彼の劇「シャンカラーチャーリヤ」を彼に捧げました。
その中で彼はこう書いています。
「兄弟よ、俺たちはドッキネッショルで何度も一緒に、ヴェーダーンタの権化を見たよなあ。
おまえは今、至福の世界にいるだろうが……すまない……私はおまえが生きている間にこの劇『シャンカラーチャーリヤ』をおまえに見せることができなかったよ……。
この作品をおまえに捧げるよ。どうか受け取っておくれ。」
カリパダはギリシュのように物書きや劇作家ではありませんでしたが、多くの曲を作曲しました。
1893年に、それらの曲は、ラームチャンドラ・ダッタが所有するリトリートハウス、カンクルガチ・ヨゴディヤーナにより、「ラーマクリシュナ・サンギット」と題された小冊子として出版されました。
カリパダはヨゴディヤーナを頻繁に訪れていました。なぜならば、シュリー・ラーマクリシュナのいくつかの遺品がそこに安置されており、師の定期的な礼拝が行われていたからです。
ある日、カリパダは、礼拝のために大量の花を持って来ました。しかし彼は、靴を履きながら運ばれた花々は儀式の礼拝では使えないということを知りませんでした。
マノモハンがそれをカリパダに教えると、カリパダはその花を飾りに使うようにとそこに置き、裸足で花屋に戻って供養用の花を買ってきたのでした。
カリパダが仕事で大成功していることはすでに述べました。ジョン・ディッキンソン社がインドの主要都市に多くの支社を開いたのは、主として彼の取り組みのおかげだったのです。
それはイギリスの商会でしたが、カリパダはそれぞれの支社にシュリ―・ラーマクリシュナの写真を勝手に飾っていました。
彼は、自分の性格を変え、自分を幸福にしてくれたのは師の祝福であるということを完全に信じ切っていました。
彼が働いていた事務所には少しスタッフが足りなかったので、彼は師の信者をそのポジションを埋めるために指名しました。
彼は一時的にボンベイに異動になったときに、ヴィヴェーカーナンダ、ブラフマーナンダ、トゥリヤーナンダ、アベーダーナンダ、そしてアカンダーナンダのスワミたちはそれぞれが、巡礼中に、違う時に彼の家に滞在していました。
師の出家弟子たちに奉仕することは、彼にとって大変な喜びでした。
カリパダの最後の病の間、スワミ・アドブターナンダは、彼のカルカッタの家に見舞いに行きました。
カリパダは彼に、ミルクやその他の必需品を買うようにと、毎月いくらかお金をあげていました。
スワミ・アドブターナンダは彼にそのような援助はやめるように言いましたが、カリパダはこう答えました。
「兄弟よ、私は師の恩寵によって、何の欲求もないのです。
あなたが私から数ルピーであなたに奉仕させていただける機会を奪うなんてことをすれば、師が私をお怒りになるでしょう。」
スワミはカリパダの気持ちを傷つけなくなかったので、カリパダが1905年6月28日に亡くなるまで、その供養を受け続けたのでした。
かつてシュリー・ラーマクリシュナは、あの船の上で、スワミ・アドブターナンダの前で、カリパダに三度も約束をされました。カリパダの死のときに、師は彼の右手をつかんで、彼を連れて行くのだということを。
そしてカリパダは息を引き取ったとたんに、右腕を上げたのでした。
スワミ・プレーマーナンダがそこに居合わせていました。
スワミ・プレーマーナンダからカリパダの死の状況を聞くと、スワミ・アドブターナンダは信者たちにこう言いました。
「ごらん、師はカリパダの最後のときに彼のもとに来られた。
カリパダの手をつかんで、師は彼を連れ去ってしまわれた。
ブラザー・バブラーム(プレーマーナンダ)は、はっきりとそれを見ていたのだよ。
師がおっしゃったことはなんでも、必ず成就するのだ。」
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