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「アビシェーカを受け取ること」

◎アビシェーカを受けること

【本文】
☆一般の加行

 一般の加行には二つある。
「アビシェーカを受けること」と、
「諸々のサマヤを遵守(じゅんしゅ)すること」である。

◎アビシェーカを受けること

 秘密真言乗の生起と究竟の二つの次第を修習するにおいては、四つのアビシェーカを受けなければならない。そのことは多くのタントラに説かれている。

 アビシェーカっていうのは、これはインドの言葉でアビシェーカっていうんですが、欧米とかに訳された言葉ではイニシエーションとかよくいうね。通過儀礼とか訳されてイニシエーションとかいうんですが。

 このアビシェーカってもともとは何かっていうと、これはインドの昔の儀式でね、新しい王様が前の王の跡を継いで即位するときに、頭に水をかける儀式があるんだね。頭にこう、灌頂っていうんですが、頭から水をかける。この儀式が昔からインドにあって、それをヒンドゥー教とか仏教に取り入れたんだね。取り入れて、弟子が入門するときとかに、実際にその通りに頭に水をかけたり、あるいはそういうことはやらないんだけど、その宗派に則ったある儀式を行なって、例えばその教えであるとか修行法に対する入門の儀式を行なう。それで、「はい、あなたはこれによって神々から祝福されて、この教えに入る許可がおりましたよ」っていうようなのをアビシェーカっていうんだね。

 はい、で、四つのアビシェーカってありますが、これはあまり考えなくていいです。これも伝統的にいろんなやり方がある。で、これは、あくまでもこの教え自体はチベット仏教の教えなので、例えばわれわれが正式にチベット仏教に入門して、わたしはもうこれからチベット仏教でやっていきますというならば、正式にアビシェーカを受けなきゃいけない。でもそうでないなら、あまりこれは考えなくていいです。つまりこれは、祝福を受けるための儀式だね。

 だから例えばみなさんが誰か師匠について、まあわたしならわたしでもいいけど、その人がそのアビシェーカ的なものを何か設けてるんだったら、それはやる必要がある。でも設けてないんだったら――例えばですよ、まあわたしが師匠として――まあ例えばね、このアビシェーカっていうのはあらゆる教えに本当はあるんだね。例えばこの、あらゆる教えっていうのはもちろん高度な教え。高度な秘密の教えを授けるときには、何らかの儀式的なことをやって授けたりするんだね。でもそれは、それをやるやらないっていうのは、その流派の考え方であるとか師匠の考え方によって全く変わってくる。

 例えばわたしが師匠として、例えばM君とかがやってきてね、「ちょっと、弟子になりたいんです」と。で、「ちょっと、高度な修行法を教えてください」と。「ちょっと、まず儀式から受けたいんですが」と。「ああ、いいよ、じゃあちょっと来て。じゃあまず、こうやって……」「え? ちょっと待ってください。何か儀式やらないでいいんですか」。「え? 別にいらない、そんなこと」っていって教えたとしたら(笑)、それはそれで全くかまわないんです。それがわたしのやり方だとしたらね。だからそこら辺はあまりこだわらない方がいい。

 これに関する話として、有名なナムカイ・ノルブっていう人がね――ナムカイ・ノルブっていうのはチベットの聖者で今も生きてて、日本にもたまに来たりする人だけど――このナムカイ・ノルブっていう人も、まあいわゆるリインカーネーションというか、高僧の生まれ変わりといわれた人だった。でもこの人はちょっと変わってて、最初は正式にチベットのやり方、学問的なやり方で、伝統的なやり方で、その師匠とかに教えを受けてたんだけど、あるとき夢を見た。夢の中に、自分の本当の師匠が出てきたんだね。ああ、わたしは今チベットのお寺で師について学んでるけども、自分の本当の師匠はこっちだっていうことに気づいた。で、その人のところに出かけていって弟子入りしたんだね。

 で、その本当の師匠っていうのは、全く正式なチベット仏教を学んだことがない人だった。つまりもう完全に天才的な修行者だったんだね。で、正式なチベットの流派のやり方では何も学んでいない。でも完璧に悟っていた。

 で、そのナムカイ・ノルブは若いときに、まだ修行の本質がよく分かってなかったから、自分の師匠からそのアビシェーカを受けたいって思ってた。つまり、何ていうかな、ちょっと自分なりに修行っていうのをこう格好よくイメージしてたんだね。修行っていうのはまずアビシェーカを威厳を持って受けて、で、それによって自分がちょっと変わった感じになって、で、こういう段階を進んでいくっていうふうに思ってた。で、実際そのナムカイ・ノルブ自身も小さいころから高僧の生まれ変わりとして育てられたから、何度もいろんな人からアビシェーカを受けた経験があったんだね。わたしはいろんな人からアビシェーカを受けてきたが、自分の真の師匠であるこの人からは受けていないと。だから「受けたい!」といってせがんだ。いつもね。せがむんだけど、その師匠は「いや、そんなのは必要ないよ」と全然やってくれない。でもあまりにもせがむから、「よし、分かった。じゃあ、そんなに言うなら」っていって、その儀式の場が設けられた。その師匠はアビシェーカのやり方なんか知らないから、本を見ながら、例えば、例えばね、ここでベルを振るとかいうのが書いてあって、「ベルを振るのかあ」、ウーンってやって、なんか三十分くらいずーっとやってるんだって(笑)。で、やった後に「あ! これ一回でいいって書いてあった」(笑)。「ああ、ごめん一回だった!」とかいって(笑)、そんなことの繰り返しで、本当は一時間ぐらいで終わるアビシェーカが一日中かかった。で、一日中そんなことばっかりやってて、さすがに最後にはナムカイ・ノルブがやっと理解したんです。「これ、意味ねえ」と(笑)。こんな儀式的なことを本どおりにやったって、それは意味がないと。

 最後にそれがすべて終わった後に、これはその師匠の偉大なところなんだけど、一応最後まで付き合うんだね。最後まで自分の馬鹿なところを見せて、全部もうどうしようもないやり方でアビシェーカを終わった後に、「さあ、本当のアビシェーカに入ろうか」と。つまり、わたしのやり方で、あなたの神秘のドアを開いてあげようと。で、彼なりの全くその――まあそのやり方っていうのは、ただ彼なりに教えを話すことだけだったんだけど、彼のやり方で、全くどこにも経典にも書いてない話し方で、ナムカイ・ノルブの心の扉が開くようなことを教えたんだね。つまり、それまでの儀式なんて全く意味がなくて、それこそが本当のアビシェーカだった。

 だからもちろん、何度も言うけども、みなさんが本当に普通に例えばチベットのお寺とかに行ってそのシステムに入るんだったら、もちろんそこで用意されてるアビシェーカは受けるべき。でもそこに現代のわれわれはこだわる必要はないと思う。ただまあチベットの伝統ではそうなんだっていうことだね。

 だからどちらかというと、このアビシェーカが本当に受けられてるのかの重要性は、自分と師匠との縁であるとか、あるいは師匠の力とかに関わってくるといってもいいかもしれない。例えば現代では、チベットのお坊さんっていうのは世界中に広まって教えを説いている。まあこういうこと言うとちょっとあれだけどさ、われわれには例えば、チベット仏教ってもうブランド化してるから、チベットのお坊さんっていうともう全員が聖者に見えてくる。っていうかね、インド――欧米からすると日本とかもそうかもしれない。例えば「禅」とかいうと、それだけですごいオリエンタリックな、神秘的なイメージがあるから、例えば生臭坊主とかがいたとしても(笑)、日本から来た禅の僧侶ですとかいうと、すごい聖者に見られるかもしれない。

 チベット仏教も同じ。もちろん聖者もたくさんいるだろうけど、中にはそうじゃない人もいるだろうと。とてもまだまだ未熟な人もいるかもしれない。でも一応チベットから来たラマとしてあがめられる。その人が例えば伝統的な、本に書いてあるようなやり方で儀式を行なったとしても、それにどれだけの祝福があるか分からない。

 そうじゃなくて例えばさっきの話みたいに、本当はある高い悟りを開いている人が、あるいは仏陀や神からの祝福を受けている人が、全く伝統的なことはやらないが、われわれに何か教えを授けてくれる場合もあると。ここで生じる祝福の方が、重要なんだね。

 だからこの辺は伝統的な教えではあるけども、あまり観念的には引っかからない方がいいですね。

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