「ゆるぎなく保て」
【本文】
種々の雑談、現に起こりつつある雑多の事柄、好奇心を誘うあらゆる現象--これらに対して生ずる興味を殺すべきである。
土を砕き、草を刈り、畦を作る等の行いは(出家修行者になったからには)無用となった。如来の定められたおきてを思い起こし、それを(破ることを)おそれ、直ちに放棄せよ。
動こうという願いが起こり、語ろうという願いが生じたときには、自己の心を反省し、まず心しっかりと結びつけて(平静なる状態においてなせよ)。
もし自己の心が愛著に傾き、あるいは憎悪に傾くのを見たならば、その際には、行なうべからず、語るべからず、木材のようにとどまるべきである。
【解説】
原始仏典を見ると、草を刈ったり土を耕したりすることだけではなく、様々なことを、お釈迦様は出家修行者に対して禁止しています。シャーンティーデーヴァがこの教えを説いたときは僧院で修行する出家修行者でしたから、それらの規律に従って生きることをまず表明していますね。
もちろん、今の我々は出家修行者ではないので、若干事情は違っていますが、お釈迦様が説いた戒なども原始仏典などから学び、守れるところは守っていく姿勢は必要ですね。
基本的な五戒や十戒、あるいはヨーガ・スートラで説かれる禁戒・勧戒、あるいは様々な教えを学び、まず自己の生きる道、なすべきこと、なしてはならないことなどをしっかりと学び、認識すべきです。
そして、さあ、何かを自分がしゃべろうとするとき、あるいは何かの行動に移ろうとするとき、何も考えずにぼーっと、あるいは興奮した心で行なうのではなく、まず平静な心を保ち、その上で自己の心を観察しながら行ないなさい、と言っていますね。
そして観察の結果、自分の心が愛著に傾いたり、憎悪に傾いたりしているのを発見したら、行動にブレーキをかけ、しゃべるな、行為するな、と言っているのです。木材のようにあれと。
そのように愛著や憎悪に支配された心の状態というのは、何を話すにも行動するにも適していないのです。そのような状態で行動を起こしても、ただ自己を地獄に落とす悪業を積むだけです。だからそのような時は、木材のように一切の自己の言葉や行動を停止すべきなのです。
もちろん、そこから自己の心を反転させ、真理に基づいた、慈悲に基づいた状態に戻してから行動ができればベストです。しかしなかなか戻らないようだったら、戻るまでは何もすべきではありません。
そして、どのようなときに行動をストップし、木材のようにあるべきなのか、その具体例が次から挙げられています。
【本文】
もし心が浮ついて、他人を嘲笑し、傲慢と固執にとりつかれ、はなはだ残忍となり、邪曲となり、狡猾となり、自慢をし、他人の欠点をあげつらい、他人を軽蔑し、論争に落ちようとする場合には、自ら木材のように処するべきである。
私の心は、所得と尊敬と名声を求め、あるいはまた従者を求め、奉仕を求める。それゆえに私は木材のごとくに処する。
私の心は、他人の利益に反対し、自己の利益を求め、あるいは取り巻きを欲し、饒舌を望む。それゆえ、私は木材のごとく処する。
忍耐心無く、怠慢で、臆病であり、向こう見ずで、罵詈雑言を好み、また自己の朋党を偏愛する。それゆえに、私は木材のごとく処する。
かように、心が煩悩に染められ、無益な企てをなすのを見るとき、勇士は常に、対治法を用いて、それを強く抑制せよ。
【解説】
さあ、この部分は、しっかりと読んで、我々も反省すべきところですね。
もし我が心がこのような状態にあるのを発見したら、我々は「木材のように」、行動をストップすべきです。
そうすると、一日中、我々はストップしていなくてはならなくなってしまうかもしれませんね(笑)。
それでは困るので、対治法、つまり対抗治療法を用います。たとえば傲慢さが出たときには他を称賛する瞑想をしたり、懺悔をしたりします。あるいは憎しみが出たときには慈悲の瞑想をするなど、様々な法の中から、今の自分の悪心に適した対抗の法を選び、実践するわけです。このような方法を、「択法覚支」といいます。
【本文】
心を堅く決定し、はなはだ清らかに、不動に、(教えや師を)深く敬い、尊重し、(罪を)恥じ、おそれ、寂静に、(衆生を)なだめることに専心し、互いに矛盾する愚者の願望に倦んで飽きることなく、「煩悩が生ずるから彼らにこのような心が現われるのだ」と哀れんで、常に非難されない事柄に自己と衆生とを従わせ、これなる私は、化現のように、心を我執無く保ちたい。
(人間に生まれて真理を実践できるという)最上の機会が、久遠の時を経てはじめて得られたものであることを、幾度も繰り返して思い起こし、このような心を、スメール山のごとく、ゆるぎなく保とう。
【解説】
先ほどは、どのような心のときに行動を止め、木材のようにあるべきかが説かれましたが、今度は、では常にどのようにあるべきか、ということが説かれていますね。
真理の教えを実践するという決意を心に堅く決める。
常に心を清らかに保つ。
常に心を動かさない。
師や教えへの深い尊敬の念を持ち続ける。
悪業を犯すことを恥じ、おそれる。
常に寂静の心を保つ。
愚者の意味のない欲望を見ても意気消沈することなく、彼らも煩悩の魔に巻き込まれた哀れな者たちだと、慈悲の心を持つ。
常に、真理の観点から非難されない状態に自己を置き、他者もそのようにさせる努力をする。
そして最後にある「化現のように、心を我執無く」というのは、まるで神通力によって作り出された幻のようにあれということですね。そこには「私は・・・」とか、「私の・・・」とかいう我執はいらないということです。
そして、我々がこの輪廻の中で、人間に生まれることは大変稀なことであり、しかも真理の教えに出会い、実践できるチャンスに巡り合うということは、とてつもない稀なチャンスなのです。それは前にも解説したとおりです。そのことを、繰り返し繰り返し思い起こし、何度も何度も自分の心に根付かせるのです。そしてその上で、上記のような心の状態を、ゆるぎなく保て、ということですね。我々には時間も余裕もないのです。このような心の状態を実践し、根付かせる努力をすべきなのは、まさに今、今なのです。
-
前の記事
「法の柱に結びつける」 -
次の記事
「身体は道具」