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「どんな状況にあろうとも」

◎どんな状況にあろうとも

 はい、そしてその後の二行っていうのは、逆境の乗り越え方の一つのパターンなんですね。で、これはさっきから言ってるように、実際にはケースバイケース、いろんなパターンで逆境は乗り越えなきゃいけません。しかしここにオーソドックスな二つのやり方っていうかな、方法論が説かれてる。 

 まず最初が、

「どんな状況にあろうとも、すぐに菩提心をよりどころとして、他の衆生の幸福について熟考してください」
と。

 はい、これが簡単に言うと、逆境を乗り越える一つの方法です。つまり、どんな状況にあろうとも、ね、どんな状況にあろうともですよ、自分が幸せだろうが苦しかろうが、周りの人が優しかろうがあるいは敵になろうが、どんな状況にあろうとも、菩提心――つまり人々の幸福を願い、そのためにわたしは生きているんだという気持ちを持って、他の衆生の幸福について熟考してください。

 つまり、どんな状況でも、目の前の人々の幸福を考えなさいと。で、逆に、自己のエゴの破壊、エゴを滅することを考えなさいと。これによって逆境が逆境じゃなくなります。逆境が自分の修行を進めてくれるプレゼントに変わリます。

 これはだから一つの秘訣です。「どうしてなんですか?」っていう問題じゃないんだね、これはね。秘訣なんです(笑)。よく分かんないかもしれないけど、やってみなさいってことなんです(笑)。特に、逆境に陥ったときこそ、人々の幸福を考え、自我を破壊していくことを考える。これは一つの秘訣だね。

◎四つの加行

 はい、そして次が、

「四つの加行というすぐれた手法をとれ」
と。

 この四つの加行っていうのは、ここに書いてないけども、一つは功徳を積むことです。功徳を積むことね。

 で、二番目が悪業を滅することです。悪業を滅すること。悪業を滅するっていうのは具体的にいうと、日々懺悔をしたり、あるいはもちろん実際に戒律を守ったりとかもそうだけど、懺悔をして、自分の過去の悪業を早く浄化するようにする。

 三番目は、自分の師匠やあるいは仏陀や神に対して、供養を行なうことです。供養ね。この供養っていうのは、もちろん精神的な意味での供養もあるし――つまり、瞑想として今日やったみたいに食べ物を供養するとかもあるし、あるいは実際に自分の師匠とかにお金とか物とかを供養するっていうのもある。とにかく師や神や仏陀に供養すると。

 で、四番目が、これは障害を与えるような、つまり逆境を与えるような魔、悪魔に対して供養するっていうものです。

 ちょっと一つずつ説明すると、つまりこれはね、対処的な話じゃないんだね。さっきから言ってたのは対処療法的な話だよね。グーッと逆境が来たときに、じゃあそれをすべてて慈悲によって見なさいと。これは対処療法でしょ。あるいはガーッて来たときに、それを神の愛と見なさいと。じゃなくて、逆境を全て転換してしまうために普段からやるべきことが、今言ったこの四つです。

 まずは、しっかり功徳を積む。もうひたすら徳を積み続ける。当然その徳の力が、われわれが逆境を乗り越えるパワーになります。

 つまりね、教えだけじゃ駄目なんだね、結局は。例えば今わたしが言った、「逆境っていうのは素晴らしいんだよ」「逆境っていうのはわれわれの修行を進めるプレゼントなんだよ」っていうことをみなさんが頭に入れてたとしても、徳がなかったら現実的には無理です。徳がなかったら心が強くなれません。あるいは乗り越えるだけのパワーがない。よって、徳は徹底的に積み続ける必要がある。

 ただ現代で徳っていうととても難しいんだけど、仏教ではオーソドックスに財施、無畏施、それから法施っていわれてるね。

 簡単にいうと、財施っていうのは、例えば貧しい人に食べ物とかお金とかを恵んだりとか、もしくは修行者にそういうのを恵んだりとか、あるいはさっき言った自分の師匠とか仏陀にお金や物品を布施したりとか――これが財施だね。

 で、無畏施とか安らぎの布施っていうやつは、これは苦しんでる・悩んでる人の話を聞いてあげる。相談に乗ってあげる。恐怖を取り除いてあげる。ね。これが二番目の布施。

 三番目は法施。これは、ストレートに真理を説く。つまりカルマの法則とか、あるいはさまざまなヨーガ・仏教で説かれてる教えを説く。で、できれば説くだけじゃなくて、修行させる。人々に修行させ、それによってその人を本当の意味の幸福に導いてあげる。これが法施だね。

 で、もちろんこの三つのカテゴリーだけじゃなくて、まあ簡単にいうと、人を幸福にすること。これが、大雑把にいうと、徳になるといってもいい。徳っていうのは、つまり善いカルマのことだから。

 ただぶっちゃけて言うとですよ、何が一番徳になりますかっていったら――ぶっちゃけていうと、二つあります。こういうことは本当はあまり言いたくないんだけど(笑)。まあ、ちょっと言いますけどね。一つ目は、自分の師匠への布施です。もう一つは、法施。特に最後に言った、人に修行させることです。この二つ。

 まあ一番目っていうのは、師匠への布施だけじゃなくて奉仕とかも含まれるね。師匠に奉仕や布施を徹底的に捧げる。二番目は人々に修行させる。この二つが最強の功徳になります。

 なんでこういうことあんまり言いたくないかっていうと、なんかちょっと宗教みたいになる(笑)。だってさ、これ具体的にいうとしたら、「じゃあみなさん、わたしのところに――わたしが師匠だとしたらね――はい、いっぱいお金とか物を持ってきてください」とね(笑)。「あと、みんなここのヨーガ教室にいっぱい生徒連れて来てください」と(笑)――「あれ? なんか宗教ですか?」と(笑)。あるいは、すごくエゴでやってるように見えるよね。「なんかあそこのヨーガ教室って、なんか生徒にいっぱい人連れて来させて、で、お金持って来させて、何をやってるんだ」っていうふうに見えてしまう(笑)。だからあんまりこういうこと言いたくないんだけど、でもぶっちゃけて言うとそうなんです。ぶっちゃけて言ってしまうと、一番功徳になるのは、師への布施・奉仕、それから――もちろんここじゃなくてもいいんだけど――本格的な修行を人にさせること。それによって、その人の精神性あるいは霊的ステージを上げること。これは最高の功徳です。

 もちろん実際は、なかなかそれが出来ない場合、もちろん自分の出来ることをひたすらやるしかない。さっきも言ったように、ベーシックなものでいったら、人を幸福にすること、これは全部功徳になるから。

 例えば、わたしは今お金がなくて布施ができないと。じゃあ功徳を積めないのかと――そうじゃない。例えば苦しんでる人がいたら、話を聞いてあげるとか、あるいは、ちょっとでも何かいろんなお手伝いをするとか。もう何でもできるよね。ちょっとでもいいんで、自分のできるところから始める。

 あるいは、例えばわたしは教えがあんまり入ってなくて、人々に教えの話をすることができない。でも、ちょっとはできるかもしれない。それはほんの少しかもしれないけど、苦しんでる友達に、ちょっとしたカルマの話をしてあげるとか、ちょっとはできるかもしれない。だから少しそういうところから始める。

 だから何でもいいから徐々に出来ることから始めるわけだけど、それによって自分の徳のエネルギー――これはだから物理的にエネルギーなんだね。ちょっと合理的に聞こえるかもしれないけど、徳のエネルギーっていうのはしっかりと物理的に自分の中に蓄えなきゃいけない。で、これがないと、どんなに理想が高くても、逆境を乗り越えるだけのパワーがない。これが一つですね。

◎悪業の浄化

 で、二番目が悪業の浄化。これも分かる。これは徳と逆です。つまり、まずね、悪業があると否定的になります。で、暗くなります。で、さっきの徳と逆で、逆境を乗り越えるだけのパワーがなくなります。で、逆に逆境に巻き込まれて、どんどんその心が腐っていくっていうかな。

 つまり逆境そのものは善でも悪でもない。われわれを聖者にもしてくれるが、逆にひどい状態にもしてくれる。で、それは教えによってそこは乗り越えるんだけど、でも教えだけじゃ駄目なんだね。さっきから言ってるようにね。強烈に徳があって、で、悪業が少ない状態じゃないと、現実的には非常に難しい。よって準備として徹底的に徳を積む。徹底的に悪を滅する――っていうのをしなきゃいけない。

 で、それの一番いいのはいつも言うように、懺悔です。日々懺悔をする。で、もちろん戒律を守る。これをすることによって、自分の悪業っていうのを極力小さくしていく。

 で、本格的なカルマ落としとか浄化とか逆境とかが来る前に、小さないろんな日々の――あると思うんだね、苦しいこととか。それは自分のカルマが浄化されてるんだと思って、もう耐えると。これによって自分の悪業を浄化していくプロセスが必要なんだね。

◎供養

 で、三番目が――さっきの布施とも関わるけども――供養。

 これは完全に、自分の師や仏陀や神とのパイプ作りです。

 徹底的に供養して――瞑想で供養したり――瞑想っていうのはこう座ってるときの瞑想もあるけど、もう日々全てを供養と考える。

 これはいつも言ってるけどね。道を歩いててきれいな景色があったら、これは神に供養しますと。仏陀や自分の師に供養しますと。あるいはこういう美味しいものを食べたら、この美味しさを供養しますと。もう何でも供物だと考える。これはイメージ的な供養だね。

 で、もちろんそうじゃなくて、実際のその物品とかの供養でもいいけど。 

 あるいはさっき言った奉仕。奉仕っていうのは自分の肉体とか、自分の時間とかの供養になるね。

 とにかくいろんな意味での供養を日々すると。これは徳を積むっていうのもそうなんだけど、それ以上にパイプを強める。自分と神、自分と師匠、自分と仏陀、その自分を守ってくれる存在との絆を強める。これはとても大事なことです。一番大事といってもいい。命綱みたいなものなんだね。これだけは絶対に強めておいた方がいいです、わたしの経験からいうと。

 修行の中でいろんなことがあるけど、一番大事なのは、この自分の師や仏陀や神との命綱を強めるってことです。

 なぜかというと、われわれは無智だから、何度も失敗するんです。間違った道に入ることがたくさんある。その度に、間違った悪業を積んじゃったり、変な魔的な世界に入っちゃったりする。そんなのは日常茶飯事。でもこの絆がしっかりしてると、絶対救われます。

 つまりわれわれは無智だから盲目なんです。盲目で山道を登ってるようなもんだね。修行っていう山道を盲目のまま登っている。で、智慧がある人は、盲目でもルートが分かっていてうまく行けるんだけど、われわれは無智だから適当に歩いちゃって、すぐに足を踏み外す(笑)。でも命綱があるから大丈夫なんです。これがどれだけ強いかだね。これがだから供養ですね。

◎魔への供養

 はい、そして四番目がちょっと変わってるんだけど、魔への供養ってある。悪魔への供養。

 これはね、つまり実際に、これもいつも言うけども、魔的な存在っていうのは存在する。それはエネルギーであったり、あるいは霊的な存在であったり、あるいは実際その天の魔の場合もあるけども、いろんな意味で魔的な存在っているんだね。で、それが、しょっちゅうわれわれの修行、特に修行者の修行を邪魔しに来るんです。さあこれに対してどうするかって問題なんだね。

 で、ここでは、この伝統では供養っていわれてるんだけど、でも実際は供養だけじゃない。例えばミラレーパの話とか見ると面白いんだけど、ミラレーパってよく悪魔と戦うシーンが出てきて、で、あるときそのミラレーパの洞窟に魔がやって来て、最初ミラレーパはその魔に教えを説こうとした。でも魔は笑ってるだけで全然反応しないと。で、もう徹底的にマントラとかで魔を退散させようとした。でも全く効かないと。で、最終的にミラレーパは、「わたしが間違っていた」と。つまり、「この魔というのはわたしの心から現われたものに過ぎない」と。「それを外在するものと考え、倒そうとしたり教えを説こうとしたことは間違っていた」と。「お前たちはわたしの心の現われに過ぎない」――と見たことによって、魔が退散して行ったっていう話がある。でも、これは一つの話なんです。

 で、この供養っていうのは、伝統的にはチベットではチューの瞑想ってあるんだね。このチューの瞑想に繋がる話で。あの、わたしもこれ経験があるんだけど、実はわたしも修行今までしてきて、いろんな形で魔と戦ったことってたくさんある。魔と戦うっていうのは、イメージ的にいってるんじゃなくて、本当に魔なんです。本当に物理的に魔が現われる。で、何度もわたし、いろんな形でその魔と戦った。

 その経験とか、あるいはわたしの知ってる他の修行者の経験とか、昔の聖者の経験とかでいうと、いろんなタイプの魔を退散させるやり方があるんだね。で、よく漫画とかいろいろ出てくるさ、こう魔が現われて、「うおお・・・・・・」ってマントラ唱えて「アーッ!」ってやるのは、あれはレベルの低いやり方です。もちろんそれでもできるけども、それはあまり本質的なやり方ではない。

 そうですね、いくつか挙げるとすると、――これはみなさんがね、例えば修行中とか、あるいは修行してなくても、変な魔に襲われたりしたときの一つの方法だけども――まあ一つは、もちろんマントラがあるね。マントラで強力なのは、ヴァジュラサットヴァです。ヴァジュラサットヴァのマントラをもしみなさん知ってたら、それを唱えるのはいいことですね。

 で、次に二番目として、帰依です。帰依。具体的にいうと自分の師匠とか、あるいは自分の好きな神とか、あるいは仏陀のことを強く念じる。つまり、聖なるものへの帰依によって、その魔的なものを打ち破るっていうのはあります。

 で、三つ目は、慈悲です。この慈悲っていうのは強力です。どういうことかっていうと、これもちょっとわたしの経験でいうとね、あるとき魔的なものと遭遇したときに、最初ちょっと自分の中で恐怖があった。「うわっ・・・・・・」と。次にわたしは戦おうとした。でもそこでハッとしてよく考えたら、これはわたしが考えたことだけどね――よく考えたら、わたしは菩薩の道を歩もうとしていると。菩薩の道っていうのは、つまり全ての衆生をね、全ての生き物を悟らせ、救い、幸福にする道だと。その観点からいうと、悪魔ってかわいそうな奴なんです。つまり魔という存在にはまっちゃって、苦しんでる存在なんだね。つまり、自分が恐れたり戦う相手じゃないんです。救う相手なんです。で、そういう意識になって、「あ、かわいそうだ」と。「さあ、どんな魔でも来い!」と。「わたしが救ってやる!」と。「わたしが仏陀や神の祝福を受けて、救ってやるから来い!」と思ったら、魔が消えてったんだね。まさにミラレーパみたいな話なんだけど(笑)。だから慈悲っていう気持ちもすごく強力です。

◎チューの瞑想

 で、四番目に、今言ったこのチューの瞑想に代表されるような供養っていうのもあるんだね。

 これもちょっとわたしの経験をいうと、わたしがそういう経験をしたのは、実はもう結構そういう魔との戦いをたくさんして、もうだいぶ魔に対して余裕ができてたことがあったんだね、わたしがね。で、そのときにあるところでわたしが寝てたら――寝てたっていうか、まあちょっと寝入りばなっていうか――に、魔がやって来た。で、それはわたしは目をつぶってるんだけどはっきりと分かるんです。これくらいの小さい子供みたいな魔なんだね。で、二人組なんです――が、窓から入ってきて。あの、幽霊じゃないんですよ。魔なんです。入ってきて、いるんです。

 昔のわたしだったら、恐怖するか、戦おうとするかしてたんだけど、そのときはすごいなんか余裕があったっていうか。いろんな経験によってね。で、何をしたかっていうと、まあ、これは別に意識的にやったっていうよりは自然になんだけど、自分の体を瞑想で切り裂いて、ガーッと切り裂いて、「あ、よく来たな」と。「わたしのことが欲しいんだったらあげるよ」と。バーッとバラバラに切り裂いて、「ほらっ」てこう渡した。瞑想でだけどね。

 そしたらその二匹共がたじろぎだしたんだね。なんか困りだして、うろたえだして、窓から逃げて行ったことがあって(笑)。

 これがだからチューの瞑想なんだね。でもこのときはそれをやろうとしてやったんじゃなくて、多分わたしの中に過去世からの情報があって、自然にやったと思うんだけど。

 これは一つの方法なんだけど、ただ、ここで例えば魔への供養っていうのが挙げられているけど、これをみなさんが付け焼刃でやるのは危険です。「お、魔への供養も必要なのか。じゃあ魔よ、来てください」とかやると、魔に飲みこまれるかもしれないから(笑)。みなさんが修行してて自然に魔に襲われたときに、わたしが今言ったようなことを思い出して――もう一回言うと、マントラを唱えるか、帰依の心を培うか、もしくは慈悲の心を出すか、もしくは――チューっていうのはここで習ってる人と習ってない人がいるだろうけど、習ってる人はチューを思い出して、自分を捧げる瞑想をするか。このいずれかをやってみるのはいいけど、まだわざわざやることはないね。

 だからこの四番目っていうのは、そうですね、この中でチューの瞑想を知ってる人はそのチューも瞑想をやればいいと思うんです。知らない人はまだあんまり考えなくていい。で、実際自分がそういう魔的なものに襲われることがあったら、今言ったことを思い出して対処すればいいと思います。

◎逆境を乗り越えるために

 はい、だからまとめると、この四つ。

 日々徹底的に徳を積む。

 徹底的に懺悔をしたりして、あるいは苦しみに耐えることで悪業を浄化する。

 そして徹底的に供養して、師匠や仏陀や神との縁の絆っていうのを強くする。

 そしてまあプラスアルファとして、チューの瞑想を知ってる人はそれをしっかりやるとか、あるいは魔ともし対峙したときに、さっき言ったようないろんな対処法を行なうと。

 これを日々土台として積み上げていくことによって、結果的に、ちょっと最初に戻るけど、さまざまな逆境がやってきたときに、それを乗り越えるだけのパワーが付きます。

 はい、じゃあ今日はちょっとだいぶ時間が過ぎたので、この辺で終わりにしましょう。お疲れ様でした。

(一同)ありがとうございました。

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