「どのような礼拝であろうと」
◎どのような礼拝であろうと
【本文】
さまざまな愛欲によって正しい叡智を失った者達は、生まれつきの性格や性質に応じて、さまざまな神々に心を向け、
いろいろなやり方で礼拝している。
だが、どのような形であろうと、人が神々を礼拝する気持ちになるならば、
神々に対する信仰心がさらに強くなるよう、私はその人を助けるであろう。
はい。われわれが本来持っている智慧。これが覚醒すればわれわれは、この――名前はいろいろあるけども――至高者。如来といってもいいし。クリシュナといってもいい――完全なる存在に、必ず心を向け礼拝するようになるんだが――いろいろな愛欲やさまざまなカルマに翻弄されている人々っていうのは、それぞれのカルマにあった神と縁ができ、それぞれ礼拝するわけだね。でもここで言っているのは、完全なる至高者、バガヴァーンっていうのは――例えばちょっと無智な人がバガヴァーンのことを知らずに、ちょっと限定された――いろんな意味で限定された神といわれる存在に対して礼拝する状態があったとしても、「お前、だめだ」と。「お前、馬鹿か。こっちを見ろ」ってやるんじゃなくて、一応その段階の人が、今自分の信じている神をしっかりと信仰してね、強くそれに帰依をするような方向に持っていってあげると。
つまり、さっきから言っているように、魂には段階がある。われわれが例えば、エゴに浸りきり、自分のことしか考えず、人を憎み――こういう段階よりは、少しでも、完全ではなくても、ある段階の神に帰依し、自分のエゴを放棄しようとしている人――これは応援すべき存在なわけだね。だからそれは、世界にはいろんな宗教があって、いろんな修行法があって、いろんな神がいて、で、その中にはバガヴァーンといわれる存在から見ると、非常に限定されたものもいっぱいあるわけだけども。それでしょうがないというか、それでいいんだと。
ラーマクリシュナの言葉を借りると、お母さんが魚を料理して子供たちに食べさせると。その子供たちはいろんなおなかの調子とか、好みとかいろいろあるから、ある子には魚を揚げて食べさせると。ある子には焼いて食べさせると。ある子には酢漬けにするかもしれない。いろんな形で食べさせるわけだね。これが完全な至高者の愛なんだね。つまり、最初からバガヴァーンっていうのを、直感的にでも理解できる人は少ない。よって――これはラーマクリシュナが、いろんな弟子たちに対して言っていることだけども――ラーマクリシュナとMの会話でもあるよね。Mが最初、よく巷にいる偶像崇拝、つまり石の神とかを祈って、これこそが私の神ですって言っている人がいるとしたら、「いや、神なんてそんな石の中にはいないんだよ。もっと普遍的なものなんだよっていうことを、教えてあげなきゃいけません」ってMが言ったら、ラーマクリシュナが、「お前は何者なんだ」と(笑)。「お前は人に教えるような資格はあるのか」と。つまり、神というのはそのような形で礼拝されていたとしても、その礼拝している信者の性質というのは、よくご存知なんだと。それは神がなさっているんだ――というのが、至高者に対する考えなんだね。
そこら辺はすごく柔軟な思想がある。神というのは完全にわれわれを分かってくださっていて――ここでいう神っていうのは至高者ね――分かってくださっていて、それぞれに合ったやり方で導いてくださっているんだと。だから、例えば智慧が低い人がいて、「それってちょっと本質じゃないんじゃない?」っていうものに信仰を持っている人でも、それはそれでいいんだと。それはそれで頑張らせろという感じだね。
この発想っていうのは、ラーマクリシュナとかもそうなんだけど、結局この発想をみんなが持つならば、一切の宗教戦争はなくなります(笑)。全部オッケーになるんだね、結局ね。全部それは段階やその人のカルマが違うだけであって。しかしもちろん、何度も言うけども、最高の求めるべきは、このすべてにつながる一者――バガヴァーンに気づくこと。これが最高ではあるんだが、まだそこまで行けてなくて、その途中段階にある人。これはこれでバガヴァーンは助けるんだよ、ということだね。