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◎貴重な宝

◎貴重な宝

【本文】
 性根の悪い人たち、悪行や苦しみによって強くさいなまれている人たちを大事にすることを学べますように。
 あたかも貴重な宝を見いだしたかのように。

 「性根の悪い人たち、悪行や苦しみによって強くさいなまれている人たち」。これは何を言っているのかというと、嫌なやつ、あるいは自分に嫌なことをやってくる人。あるいは明らかに悪人っていうかな。

 つまり、例えばさ、カルマが悪くてかわいそうな人。これにはわれわれは慈悲を向けやすいと思うんだね。例えば肉体的に苦しんでたり、あるいは精神的にいろんな苦難が多いと。「本当にわたし、こんなに苦しいんです」と。「どうしたらいいんでしょうか……」――こういう人には、「じゃあ、こういう教えをやったらいいよ」って言えるんだけど、じゃなくて、別に教えを求めてないと。求めてなくて、なんかこっちに攻撃ばっかりしてくる。あるいは攻撃はしないかもしれないけど、本当に誰から見ても嫌われ者だとか、迷惑者だと。あるいは現代的にいうと、例えばニュースとか観ててね、殺人犯とか、いろんな事件の犯人とか。そういう人を見ると、われわれは単純に、「ああ、なんだあいつは」とか、そういう気持ちになりやすい。

 じゃなくて、そのような人たちこそ大事にしなさいと。それこそ、あたかも貴重な宝を見いだしたかのようなもんだと。 つまり、超・嫌なやつとか、嫌なことやってくる人とかに出会ったら、「うわ! こんな人に出会っちゃったよ……」――じゃなくて、「いましたね!」と(笑)。「そんなところにいたんですか!」と(笑)。「発見しました」と(笑)。そういう気持ちになりなさいと。

 これにはいろんな深い意味があります。それもあまり深く考えなくてもいいんだけど、まあ簡単に言ってしまうと、そのような人こそが、自分の菩薩行を進めてくれる相手なんです。つまり、そういう人がいないと菩薩の修行はできない。

 ちょっと逆説的な感じなんだけどね。もうちょっと基本的な話でいうと、周りに優しい人ばっかりだったら、苦しみ耐える修行ってできないよね(笑)。

 あるいは、周りにやさしい人ばっかりだったら、慈悲の心があまり育ちません。どういうことかっていうと、慈悲の心っていうのは、エゴと両立しないんだね。エゴがなければないほど、慈悲っていうのは育ちやすいわけだけど。つまり、徹底的に自分を馬鹿にする相手を心から愛せるかっていう問題がある。愛せなきゃいけないんだね。愛せなきゃいけないんだけど、誰も馬鹿にする人がいない、みんなやさしい状況だったら、例えば、「Mさん、あなた、あなたを超馬鹿にする人も愛さなきゃいけないんですけど、大丈夫ですか?」と。「ええ、大丈夫だと思います」と。でも本当は駄目なんです。本当は全然心はそこまで行ってない。じゃあそれを鍛えるにはどうするかっていうと、そういう人の登場を待たなきゃいけない。

 そういうことを普段から考えてると、超・嫌なやつが登場したときに、「来ましたね!」と(笑)。「わたし、あなたが来なかったらどうしようかと思ってました!」っていう気持ちになるんだね(笑)。

 だからこれが、「あたかも貴重な宝を見いだしたかのように」と。

◎役割

 で、今言ったのは一例だけど、もっと深い意味もある。それはみなさんが考えたらいいと思います。みなさんがいろんなそういう菩薩の教えを学んだり、あるいは実際に実践しているうちに、もっといろんなパターンの意味が分かってくると思う。それはみなさんの宝物だから。とにかくセオリーからいうとそうなんだっていうことを覚えておいたらいい。

 セオリーからいうと、性根の悪い――つまり、本当にこいつ性根悪いなと。本当に悪人だなと。あるいは、自分と関係あろうとなかろうと、自分に嫌なことやってくる。あるいはやってこないんだけど、この人はちょっとどうなんだろう?――こういう人こそが、本当に大事な人なんだよと。

 日本ではよく、親鸞がね、悪人正機説とか言ってるけど。善人さえ救われるんだから、いわんや悪人が救われないわけないじゃないかと(笑)。そういう面白い言い方をしてる。親鸞の真意は、それはいろんな解釈があるのでどうか分からないけど、でもそれもこれに当てはめられるかもしれない。つまり彼らこそが本当に、われわれの愛の対象なんだと。

 それはだから哀れみじゃないんだよ。哀れみといってもいいんだけど、こうさげすむような感じじゃないんだね。だから、さっきからの言い方をすると、まさに役割に過ぎないんです。魂としてはすべて平等なんです。しかし、われわれの修行を進める最も大事で最も嫌な役を引き受けてくれたすばらしい人が来ましたねと(笑)。そういう感覚だね。だから本当にそういう人っていうのは、大事にされるものであって、批判されたりとか、あるいは追い払われたりするものではないと。

 こういうのは、分かると思うけど、みなさんが百パーセントできなかったとしてもメリットがあります。どういうことかっていうと、例えばそういう人が会社とかで現われたときに、百パーセント心からその人を大事にしようって思えなかったとしても、この教えが入っているだけでも、ちょっと楽になります。つまり逆だったら、この教えが全く入ってなかったら、エゴが正当防衛に走るから。つまり、こいつを憎んでもいいんだと。それはしょうがないじゃないかと。こいつを憎むことこそが、今わたしには必要なんだ――っていうふうに走ってしまうから。それを、そうじゃないんだよ。この人こそ愛しなさいっていう思いを、百パーセント受け入れられなかったとしても、「そうなんだ」っていうのが入るだけでも、「そうなのか」ってなって(笑)、エゴがちょっと沈静化するんだね。エゴが沈静化するっていうことは、さっきの公式でいうと、苦しみが減るっていうことです。エゴがすべての苦しみの原因だから。

 だからこういう教えを学ぶことは、百パーセント実践できなくても、相当メリットがあります。心がやすらぐっていうメリットね。苦しみが減るっていうメリットがある。

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