◎菩薩行の相手
◎菩薩行の相手
はい、また別の観点からの意味でいうと、これもまたよく大乗仏教とかでいわれることなんだけど、例えば苦しんでいる人がいる。あるいは精神的に劣った人がいる。精神的に劣ったっていうのは精神病とかいう意味じゃなくて、例えば怒りが強いとか、妬みが強いとか、執着が強いとか、そういう意味だね。煩悩が多い人もいる。あるいは自分に害を与えてくる人がいる。
そこで菩薩っていうのは、菩薩行をする人は、例えば自分に害を与えてくる人がいたら、それは忍辱、つまり忍耐して耐えるか、もしくはさっき言ったように、その人の中にも恩を感じてね、「ああ、ありがとうございます」ってやるか、だよね。あるいは苦しんでる人とか、あるいは精神的に問題がある人がいたら、なんとかしてその人を救おうとするよね。さあ、なんとかしてわたしはあの人を救いたい!と。慈悲の心を訓練するわけだね。慈悲によって救いたいと。で、実際にいろいろやってあげたりする。これが菩薩行なわけだけど。
ちょっと待ってくださいと。菩薩行というのはそのように人を救ったり、苦しみに耐えたり、人のために生きたりってするわけだけど、それによってあなたはどうなるんですか? 菩薩行をする人は当然、菩薩になってどんどん幸せになっていきます。つまりMさんがもし菩薩行をするんだったら、Mさんがどんどん菩薩になっていって、つまりMさん自身が非常に幸せになっていくわけです。
でも菩薩行するには――っていうことは一人じゃできないんですねと。つまり相手が必要なんだね。
つまり愛を発するには、苦しんでる相手が必要なんです。忍耐の訓練をするには、いじめてくれる相手が必要なんです。つまり、そういう人がいてやっとわたしは菩薩行ができるんだと。つまり彼らがいなかったら、わたしは菩薩行ができなかったじゃないですかと。よって、すべての人々は自分の菩薩行を手助けしてくれた恩人になるんだね。こういう意味でも、すべての人々の恩というのを感じなきゃいけない。
特にその菩薩行の、最高の菩薩行っていうのは、すべての人々をね、すべての人々を救おうって思うわけだから。すべての人々を救おうって思えたらそれは素晴らしい菩薩です、菩薩行ですねと。でもちょっと待ってください。すべての人々を救おうって思うことが菩薩行だとしたら、すべての人々の存在が必要ですね。救われてないすべての人々の存在が必要です。彼らがいて初めて、わたしは菩薩行ができる。ということは、そのすべての人々はわたしの恩人なんです(笑)。こういう関係性があるんだね。
だって、この世の人々がみんな救われてたら菩薩行にならないよ(笑)。「さあ、みんなのために!」って――「あれ? みんなもう仏陀なの? 誰も苦しんでなかったんだ」ってなったら、自分の菩提心っていうのは育てられない。だからそういう意味でもすべての人々は恩人なんです。ちょっとこれも逆転の発想だけどね。
だから決して、「自分が優れてるから、劣ったみんなを救ってやる!」みたいな感覚ではない。相手がいて初めて菩薩行もできる。だから究極的にはそういう意味では、ある意味役割的なのかもしれない。だってすべては一切は平等なわけだから。本質でいうとみんな仏陀なんです。本質はみんな仏陀なんだけど、一応今この環境、この条件において役割があるんだね。一応今わたしは菩薩という役割を演じている。で、この人とこの人とこの人は、その救われる対象としての苦しんでるっていう役割を演じてくれている。ああ、ありがたいと。で、このすべてのシステムっていうかな、全体に対して感謝をするわけだね。これもまた別の考え方ですね。
まあ、他にもいろんな考えができるかもしれない。とにかく、すべての衆生の大きな恩を思うと。
◎感謝の心
つまりもう結論は決まってるんです。結論は決まってるっていうのは、われわれはすべての魂に恩があると。大きな恩がある。これはもう、偉大なる聖者方がいってる教えなんだね。さあ、じゃあどういう意味で恩があるのか、これをわれわれは考えなきゃいけないんだね。
聖者たちは、すべての衆生には恩があると、恩を思いなさいといってると。さあ、それはどういう意味なんだろう。つまり結論はもう決まっていて、で、それをいろんな形でそれに結び付けていく。それを日々考えるといいですね。
もちろんわれわれが本当に悟ったら、リアルにそれが分かる。「あ、本当にすべての衆生に恩があった」と分かるんだけど、それまではやはりそういう「そうか、過去から多くの聖者がそう言ってるんだったら、たぶんそうなんだろう」と。「どういう意味で恩があるんだろうか」――それをしっかりと考えるといいね。
こういうのっていうのはね、まだ自分が無智でよく分からなかったら、もう結論だけ繰り返すのでもいいんです。例えば、「ありがとうございます、ありがとうございます」と。「本当に感謝しています」――何がありがとうか、何が感謝なのかよく分かんなくてもいいんです(笑)。「本当にありがとうございます。本当に感謝してます」――やってるうちにだんだん分かってきます。すべてが自分の修行、自分の魂の進化に役立ってくれている。
逆に苦しめてくれる人とかの方が、分かりやすいかもしれないね。うん。誰かいじめてくれる。「ありがとうございます」――これは分かりやすい。
でも関係ない、会社で一言もしゃべったことのないような人が通り過ぎると。そういうのも、「ありがとうございます」と(笑)。何がありがとうなのかよく分かんないけど、でも何らかの関係性が当然あるはずなんです。ね。ただ目にしただけの人でもね。
それは陰で何があるか分かんないよ。われわれは気づいて初めて分かることってあるじゃないですか。例えば、全く知らなかったけど、あの人は陰で自分のことを褒めててくれたとかね。それによって自分の評判がよくなってたとか、そういうことって現実的にあると思うんだね。あるいは、全く気づかなかったけど、あの人は陰でいろいろ援助してくれてたとかね。それは気づいて初めて分かるんだけど、じゃあ気づかなかったらどうなんですか? 気づかなかったらわれわれは最後まで分かんないかもしれない。そういうことってあり得るよね。で、それを、何度も言うけど、超肯定的に考えるんです。
例えばさ、自分のこと悪口言ってる人がいたとしても、もちろんそれはさっきから言っているように、「あ、これによってわたしのカルマが落ちる」とか、そういう意味でもいいんだけど、それだけじゃなくて、本当はなんか陰でわたしのためにいいことをやってるかもしれない。あるいはもちろん、過去にやったかもしれない、でもいいけども。そういう肯定的な見方をするんだね。
これは実践しなきゃいけない教えだね。実践して初めて実感が伴ってくる。あ、なるほど、そういうことかと。で、そのメリットっていうかな、みたいなものもだんだん分かってくると思います。それを繰り返していくうちにね。
最近の精神世界でもよく「ありがとうって言いましょう」ってよくいうけど、わたしは精神世界って今いわれてるものってあんまり好きじゃないんだけど、ただその「ありがとうって言いましょう」っていうのはいいことだと思うね。
ただ嫌味になんないように気をつけないといけないね。インターネットとか見てもなんかさ、嫌味っぽいときあるよね。なんかすごい相手の罵倒とかして、相手と議論して、最後に「ありがとうございます」(笑)。ええ? なんかそれってさ、内容的に全然なんか逆のこと書いてて、最後だけありがとうって言えばいいのかっていうのは、ちょっとそれは違うから。
だから心からありがとうっていう思いを持たなきゃいけない。ありがとうっていう思いを持ったら、相手を攻撃なんかできない。あるいは、相手のことを否定したりはできない。だから本当の意味で感謝の心を常に持ち続けるっていうのは、とても大事だね。
-
前の記事
第五章 師と法友 -
次の記事
4 ビージャ・マントラ2