◎精根尽き果てるまで
【本文】
『ジャナカ王のような人たちも、義務の遂行によって完成の域に達した。
ゆえに、世の人々に手本を示すため、君も自分のなすべき行為を立派に行ないなさい。
何事であろうと偉人の行為を、一般の人々は真似るものだ。
ゆえに、指導者的立場の者が模範を示せば、世のすべての人々はそれに追従するであろう。
プリター妃の息子よ! 私には、三界においてしなければならぬことなど何もない。
何の不足もなく、何も得る必要がないのに、それでもなお私は活動している。
なぜなら、もしも私が真剣に活動しなかったならば、人類も私に見習って、誰も活動しなくなってしまうからだ。プリター妃の息子よ!
私が活動をやめたならば、世界はやがて破滅するだろうし、望ましくない不順な人々を増やし、人々を滅ぼすこととなってしまうだろう。」
はい。前のバガヴァッド・ギーターの説明のときにも言いましたが、このカルマ・ヨーガ的な説明を読んでると、ヴィヴェーカーナンダをすごく思い出しますね。
ヴィヴェーカーナンダってどういう人かというと、ラーマクリシュナの一番弟子ですが、彼の思想っていうのは一言で言うならば、「活動せよ」なんです。
彼こそはバガヴァッド・ギーターの、今説明してたような、カルマ・ヨーガの教えを第一においた人で、つまり世を捨てたと言いながら、瞑想ばっかしてる修行者たちを非難したわけだね。「そうじゃない」と。「君の師匠であるラーマクリシュナの意思、あるいは神の意思というのはそこにはない」と。「この世において全力で活動しろ」と。「もう、精根尽き果てるまで神の意思を実践しろ」と。で、彼らの場合はもちろん、世を捨てた修行者だから、彼らのとっての活動っていうのは人々を目覚めさせることだけだったんだね。だからヴィヴェーカーナンダっていうのはもう全力で――まあ彼の使命っていうのは西洋へのヨーガの普及だったわけだけど、もう体がボロボロになるまで世界を飛びまわって、ヨーガの普及に励んだと。
で、ちょっとこう、「いやあ、私は瞑想の人生がいい」とか言ってる人がいると、バーッと叱咤するわけだね。
「君はそれが君のグルであるラーマクリシュナの意思だと思ってるのか」と。
◎全力を尽くせ
まあこれはね、この背景にあるのは、昔ラーマクリシュナが生きていて、もうすぐ死ぬってときね。彼は咽頭癌で死んだわけだけど、ラーマクリシュナが病床にあってもうすぐ死ぬってときに、ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナのもとに行って、お願いをしたわけだね。その頃のヴィヴェーカーナンダっていうのは、とにかく自分は人から離れて修行して、悟りたいと思ってた。で、ラーマクリシュナに、
「いや、どうか私に、いつもサマーディに入れて、いつも寂静の境地に至れるような力をお授けください」
ってラーマクリシュナにお願いしたわけだね。
そしたらラーマクリシュナは怒りだして、ヴィヴェーカーナンダを叱ったわけですね。
「お前はなんてつまらないことを考えてるんだ」と。
「お前は後に偉大なる存在となって、多くの人がその木陰で安らぐように、多くの人を安らがせる存在とならなきゃいけない」と。
「それが君の使命なのに、君は今自分の平安をひたすら求めている。恥を知れ」
というふうに言ったわけだね。
それでやっとヴィヴェーカーナンダは自分の師匠の愛の偉大さってのに気づいて、涙したって話があるわけだけど。
それを心の根本にヴェヴェーカーナンダは置いていたので、兄弟弟子とかが自分の修行だけに没頭しようとすると、叱ったわけだね。「君はラーマクリシュナの意思をわかっていない」と。「彼の意思はまさに人々の覚醒の為に働くことだ」と言って、ひたすら活動しまくったわけですね。
だからカルマ・ヨーガの、バガヴァッド・ギーターの話っていうのはまさに――今のこの一節とかはそうだけども――もちろんこれはいろんな段階があるよ。段階があるっていうのは、例えば、修行すらあまり興味がないと。自分の解脱すら興味がないっていう人に関しては、どうすればいいのかと。それは私はね、その人が興味のあることを全力で行えばいいと思う。例えば「私は今野球選手になりたい」と。「修行とか言われても全く興味がない」と。それだったらもう全力で野球やれと。
でも普通はそうじゃないんだね。「修行興味ありません」と。「野球選手……なりたいなあ」と言いながら無駄な毎日が過ぎていくと。野球選手になりたいんだったら、じゃあ野球に全力を注げと。それによってね、例えばその人が全力で野球に打ち込んで、成功するかもしれない。失敗するかもしれない。しかしそれは素晴らしい経験になるんです。彼の段階ではね。で、それが彼がそのような全力でいろんなことに打ち込むことを繰り返して、人生の後半で修行に向かうかもしれない。あるいは向かわないかもしれないけど、そういうことを何生も繰り返しているうちに、必ず修行に向かいます。でも全てを中途半端にやってる人っていうのは全然カルマが――さっきのEさんを例に出した話しでも言ったように――全然カルマが悟りに向かわないんだね。
だから修行とか、あるいは人々の救済とかに向かえばいいけど、そこまでまだカルマがない人は、今自分が興味があるというか、そういうことに全力で向かえばいい。
私はね、前も言ったけど、自分の自慢をするわけじゃないけども、私は経験する前に悟った(笑)。どういうことかって言うと、小さい頃に野球選手になりたくて、「ああ、野球選手になりたいなあ」って思って、頭の中でいろんなシュミレーションして、イメージしてたんだ。巨人軍に入って、エースとして大活躍して、芸能人と結婚して、大金持ちになって、国民的ヒーローになって惜しまれて死ぬと。
そこまでイメージしたときに、「え? そんなもん?」と思った(笑)。「おれがこの世に生まれてきた意味はジャイアンツ?」って考えたときに、「え! そうじゃないだろう」って思って(笑)、そこで野球選手の夢は消えた(笑)。
つまりその、あきらめたわけじゃなくて「え? それ、なんか意味ないな」って思っちゃった。多分それはだから過去世において経験してたんだろうね。そういう欲求の意味のなさっていうのをね。過去世において、いっぱいそういう経験がある人っていうのは、最初から修行に心が向かう。そうじゃなくて、この世で全力で何かにぶち当たって、それによって破壊されたりして、目覚めなきゃいけない場合もあるんだね。
だからそれはもう徹底的に、そのときそのときの、心が集中するところに全力でかたむければいい。そうじゃなくて、修行というものに価値を見出し始め、悟りとか解脱とかに価値を見出し始めた人はそれに全力を尽くせばいい。そうじゃなくて更にもっとカルマがよくて、「人々の為に働きたい」と。そういうとこに価値を見出し始めた人は、もちろんそれに全力を尽くせばいい。
で、ここに書かれてるのはもちろん、最終的な理想だね。
◎修行者の責任
だからこれはね、一つ一つの詩の意味を説明するんじゃなくて、今さっき読んでもらったとこの全体として言うと、これはわれわれ自身が衆生の見本にならなきゃいけない。これは私はいつも言うけども、こういうこというとちょっと重く感じるかもしれないけど、真理というものがあったとして、それに最初に、悟らなくても、ちょっとでも最初に触れた者は責任があるんです。
特にここにいるみなさんていうのは、真理に「触れた」じゃなくて、実際に修行を始めている。ま、それは最初は健康のためヨーガ修行だけだったかもしれない。しかし、そうじゃなくていろんな、たとえば勉強会を聞いたりとか、あるいは自分の日々の修行を進めることによって、世の人々がはまっている様々な煩悩の苦しみではなくて、そこから脱出した素晴らしい心の本性の静けさ、喜び、至福みたいななものに、完全にではなくてもちょっと気づき始めてる。これは責任があるんです。まだ気づいてない人に、その道を教えてあげなきゃいけない。あるいは自分がその見本とならなきゃいけない。
別にみんなを強引に引っぱってきて、「お前修行しろ」ってやる必要はないんだけど、みんながみなさんを見て、「あ、彼はなんか幸せそうだな」と。あるいは「あ、彼は輝いてるな」と。
例えばね、極端な話を言えば、お釈迦様の一番弟子のサーリプッタ。彼がお釈迦様の弟子になったのは、お釈迦様の古い弟子だった、アッサジって人がいて、アッサジを見てなんですね。つまりアッサジが普通に歩いてただけなんだけど、そこから――まあサーリプッタも素質があったわけだけど、「彼はただものではない」と思った。アッサジが普通に歩いてたんだけど「あの振る舞いはただものではない」と(笑)。すごい人物に違いないって言って、聞いたら、「いや、私はたいしたもんじゃない」と。「ただ私はお釈迦様という方の教えを学んでるだけなんですよ」と。「じゃあその教えをぜひ教えてください」と言って、教えてもらって――まあその教えを聞いただけでサーリプッタは悟っちゃったんだけど(笑)。ちょっと素質が違うんだけど(笑)。
ただ、そのときのアッサジみたいに、われわれはならなきゃいけない。つまり多くの人が「なんかちょっと彼は違うな」と。あるいは「あのように生きればいいのかな」と。「あのように生きれば幸せそうだな」と。
だからもちろん言葉によって法を説くのも大事なんだけど、言葉じゃないんだね。結局は。重要なのはね。言葉ももちろん必要なんだけど、その人が話すヴァイブレーションとか、エネルギーとか、あるいは行動がかもし出す影響ね。
だからもしこの中で将来的にヨーガの先生とか、あるいは瞑想の先生とかなる人がいるかもしれない。その人に言っておくと、相手に利益を与えるのは言葉じゃありません。こちら側の神聖なエネルギーです。だからみなさんが人と話すときに覚えておいたらいい。例えば困ってる人がいて、その人に何か相談を聞いてあげるときに、三時間その人に話をするよりも、二時間半修行して、三十分話した方がいい(笑)。その方が相手にいい影響を与える。絶対に。ね。
あるいはもちろん修行だけじゃないんだけど、日々その人が正しい生き方を繰り返して、その影響を相手に与えてあげた方が絶対に利益になる。
だからこの辺は大乗的な話と関わってくるわけだけど、自分の修行とか、正しく生きるとか、カルマ・ヨーガそのものが、単に自分の悟りの為にあるんじゃなくて、それを見た周りの人達、あるいは自分と縁のある人達になんらかの影響を与える為に、あるんだと。そういう責任があるんだということだね。