◎疑いの時代
【本文】
正しい信を持ち、正しい行ないをなす人を助け、邪信の者どもを打ち倒し、
正法を再び世に興すため、私はどんな時代にも降臨する。
私の顕現と活動の神秘を理解する者は、その肉体を離れた後、
再び物質界に転生することなく、わが永遠の浄土に来て住むこととなる。アルジュナよ!
愛著と恐怖と怒りから離れ、すべてを私に任せ、私に頼ることで清らかとなり、
過去の多くの人々は、完全なる神の叡智と修行とによって、私のもとへと到達した。
私に身と心を委ねる程度に応じて、私はその帰依者に報いる。
人々は、あらゆる道を通って私のもとへとやってくる。
はい。この辺は、非常に素晴らしいところですね。素晴らしいところですが、ここにいるみんなはどうか分かんないけど、現代においては、信仰とかいうことがすごくけがれた感じで、われわれのイメージに根付いてるので、あまりストレートにこういった考え方を受け入れられない人がいるかもしれない。こないだも言ったけども、私も最初はそうだったんだね。私も信仰とかいうものに対して、ちょっと抵抗があったっていうか。その神への信とか、ここに書いてるような考え方っていうのが、ちょっと論理的に納得できなかった。
いろんなタイプがいるけども、最初からそういうのを直感的に理解できる人もいるだろうけど。私はそうじゃなくて、いろんな他の修行を進めるうちに、だんだんけがれが取れていくうちに、「あ、そういうことか」というのが、分かってきたんだね。同じ言葉を使ってるんだが、感じていることは違うんだね。
それは例えば、『あるヨギの自叙伝』とかもそうだけど――あれはヨーガの本なんだけど、キリスト教的表現も多い。それから神への信仰、バクティ的な表現がすごく多くて。あれもね、だから、みんなも経験あるかもしれないけど――ヨーガとか仏教の本を読んですごく感動すると。「素晴らしい」と。これはもうみんなにも読ませたいと思って、友達とかに読ませると、反応が悪かったりする(笑)。「え?」と。
そういうことって、よくあるわけだけど。そういうことを、私は昔からいろいろ経験してきて、その中でかなり打率が高いのが『あるヨギの自叙伝』。打率が高いっていうのは、つまり、かなりの人が「いいな」って言う、「これはすごい」って言うのが、『あるヨギの自叙伝』――なんだけど、駄目な人もいるんだね。駄目な人っていうのは、やっぱりあの神とか信仰っていう部分が、もうそこでシャットアウトしてしまうっていうか。ちょっと受け入れられないっていう人がいるんだね。
でもそれは、私が思うに、やっぱり言葉にできないんだけども、受け取り方の違いなんだね。「信仰」っていう言葉の中に、ものすごく邪悪なイメージもあるんだけど、じゃなくて本当に純粋なものもあるんです。その純粋なものっていうものを、修行によって理解するのか、もしくはもともとそんなにイメージがけがれていなくて、最初から理解できるのか。あるいは論理的にそこに到達するのか――は別にして、われわれの心のそういう部分っていうのを、どんどん浄化していかなきゃいけない。
あとエネルギー的な問題でもある。エネルギーが下がりすぎると、われわれの信仰心って消えます。逆に疑いが出るんだね。これはクンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ的な話だけども。
われわれの意識が性欲の、この性器のチャクラに固定されると、疑いが出ます。ここでいう疑いっていうのは、いろんなものに対する疑い。例えば恋人に対する疑い。それから友達に対する疑い。その疑いの念っていうのが、すごく出るんだね。それと同様に、神に対する疑い。あるいは信仰っていうものに対する疑いが出る。
今の時代っていうのは、何度も言っているけども、うお座の時代と言われてて、このうお座の時代っていうのは――今、うお座からみずがめ座に変わろうとしているんだけど――うお座の時代っていうのは、性欲の時代なんです。性欲に完全に翻弄される時代っていうか。
だからエネルギー的にいうと、このスワーディシュターナ・チャクラに固定されがちな時代なんだね。だから疑いの時代っていうか。だからそういう時代に生きているわれわれっていうのは、本当の意味での純粋な信仰を持てる人っていうのは、稀なわけだけど。それを最初から持っている人は、素晴らしいと思うし。そうじゃない人っていうのは、修行によっておそらく目覚めるでしょう。
◎うお座の時代
はい、そしてここに書かれていることっていうのは、ちょっと説明しにくいわけだけど、非常に素晴らしいことなんだね(笑)。
「愛著と恐怖と怒りから離れ、すべてを私に任せ、私に頼ることで清らかとなり、 過去の多くの人々は、完全なる神の叡智と修行とによって、私のもとへと到達した」
と。
そうですね、この辺はちょっとどういう風に伝えていいか、迷うところだけども、ちょっと誤解を恐れずにまた――このバガヴァッド・ギーターの説明っていうのは、いつもそうだけどね。ちょっとどう伝えるかというのでいつも迷うわけだが(笑)、端的に言うとね、実はわれわれは――特にここに今来て、修行にちょっとでも足を踏み入れている人っていうのは、この宇宙を超えた本質の、真理の絶対性っていうか、それを心の深い部分では分かってる。分かってるっていうのは、過去世でちょっとでもそれを悟ったことがあるとか、ちょっとは理解したことがあるとか、それがあるはずなんだね。それが人間の形をとるのか、とらないのか。もしくは何とか如来とか、そういう形をとるのかは別にして、その絶対性みたいなものがあって、で、実はそれしかないんだよっていうか。いろいろ理屈はあるが、実は、それに帰依すること、身を委ねることだけがすべきことなんだよ――っていう真理があるんです(笑)。これに気づけた者は、ほとんど修行が成功したも同然です。なかなかこれは言葉では表しにくいことなんだけど。
例えばね、今書いてあるこの文章だけ読むと、例えばキリスト教とかでも同じこと言ってる。キリスト教は私はいいとも悪いとも言わないけど、キリスト教も仏教と同じで、もう2000年ぐらい経ってるから、いろんな派があって、いろんな間違った教えもある。キリスト教の方が仏教よりもちょっと不健全だと思うね。仏教っていうのはさ、いろいろ喧嘩しつつ、いろんな派に分かれてああだこうだやってるんだけど、少なくとも、悟りとは何か、ということで喧嘩してるんです。キリスト教は、なんかよく分からない人が集まって、こっちが正教だとか、あっちは邪宗だと。それは非常にその時代の為政者っていうか、政治家と結びついて、都合のいいものが正統とされたりとか。
つまりこれは、例えば、キリスト教のこっちの聖者が瞑想して、こういう経験をしたからこっちの方が真理なんだ――っていう、そういう論争じゃないんだね(笑)。仏教ってそういう論争をずっとしてきたんだけど。そういう意味ではすごく、うお座の時代の――こういうこと言うと、キリスト教好きな人は怒るかもしれないけど、さっきうお座の時代っていう話をしたよね。うお座の時代が始まったのって、大体2000年前ぐらいなんだね。つまりキリスト教が始まったころなんです。つまり、うお座の時代と呼ばれるこの2000年前から今までの時代ってどういう時代だったかっていうと、キリスト教がどんどん広まっていった時代。
キリスト教って言っちゃうと、別に宗教のことだけじゃないんだけど、キリスト教を土台としたっていうかな――ここでいうキリスト教っていうのは、深い話になっちゃうけども、一部ユダヤ教も含まれるといってもいい。ユダヤ教の顔をしたキリスト教徒っていうのもいるわけだね。こういう話をどんどんすると、陰謀論的になってくるんだけど(笑)。まあ、それはいいとして、あっちの方の人たちね。彼らが、自然科学っていうのをすごく研究して、つまり自然科学の進歩における人間の幸せみたいなものを、どんどん広めていった時代。
この部屋とかもそうだけど、こんな寒いのに暖房によってこんなに暖かいと。電気がついてると。ね。これはつまり、西洋の人たちが、一生懸命科学っていうのを研究してね、こういう便利な時代を作ってくれたと。まあ、それは素晴らしいんだけど。それと同時に、よく昔、マクドナルドとプレイボーイが世界を駄目にするっていう言葉があったけど(笑)、つまり、全然そういう文化がなかった田舎の素朴な国とかに、マクドナルドとプレイボーイが――これはだから、象徴なわけだけど――つまり食の、味覚の追及っていう文化と、性欲の追及っていう文化が入ることによって、どんどんその国の精神的な伝統とか、質素、素朴さとかが失われていって、世界中がそういうのを求めるような時代になっていくっていうか。
で、キリスト教の広まりと共に――まあ私は、歴史は実はそんなに好きじゃなかったんで、あまり詳しくないけども(笑)――キリスト教の広まりと共に、何が起きたかっていうと、昔でいう植民地がどんどん広がっていったし、つまり文化がどんどん――単なる、キリストの教えは愛であると。さあみんな、隣人を愛せよと。あるいは敵を愛せよと。そういう教えだけが広まるなら素晴らしいんだけど、彼らの考え方とか、あるいは幸福に対する考え方、あるいは欲望追求の考え方とかが、どんどんこう侵食していった時代というか。
もちろん日本なんかもいい例だけども。ね。これが、二千年に渡って行なわれたと。
で、さっきも言ったように、この時代っていうのは、インド占星術的にいうと、うお座の時代。人々が性欲とか、そういった煩悩に翻弄される時代。
◎エゴの罠にはまるな
あと、二分化の時代って言われるんだね。いろんなものが完全に二分化されると。例えば、東西の二分化。精神世界と物質主義の二分化とか。あるいは男女の二分化とか。いろんなものが二分化されていく。こういう時代の、一番最初のところにいたのが、キリストなんだね。イエス・キリスト。
イエス・キリスト自体がどうこうっていうんじゃないんだけど、キリスト教っていう宗教の役割っていうかな、宗教がこの世界にもたらしたものっていうのは、うお座の時代の宗教だったのかなっていう感じがするね。まあ、ちょっと話がずれましたが、われわれの――もう一回話を戻すと――信仰とかあるいは神とかいうものに対する、多分ここにいるみなさんが、それぞれの思いを持っていると思うんだけども、それをどの段階であれね、より純粋化していかなきゃいけないんだね。こういった修行においてはね。
これは「あなたこう考えているけど、こうだよ」って、言葉で言える問題じゃないので非常に難しい。バクティ・ヨーガとかカルマ・ヨーガの世界っていうのは、ある程度アウトラインっていうのは話せるんだけど、あとは非常に難しいね。
だからハタ・ヨーガって簡単なんです。例えば、こう、「腰曲がってますよと」。アドヴァイスが簡単なんだね。あるいは「腹式呼吸できてませんね」と(笑)。肉体の問題だからアドヴァイスが簡単なんだけど、バクティ・ヨーガとかカルマ・ヨーガってね、本当にもう深い心の問題につながってくるから、難しいんだね。
だから縁であるとか、あるいはみなさんの純粋な心とか――だからさっきも言ったように、外側を固めていくことでそこに至ることはできる。例えば私みたいに、最初は信仰とか嫌いだったんだけど、例えば肉体的にヨーガをしてどんどん気が通ってきたと。で、論理的にいろいろ考えるヨーガをしてたら、それによって私のけがれとか観念とかが崩れていったと。こうやって心が大分きれいになって、体もきれいになってきたら、「あ、バクティは素晴らしいと」(笑)。信仰っていうのはそういうことだったのかっていうのが、分かるようになってきた。そういう風にまわりから固めることはできるんだけど、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ自体を論理的に説明するのはすごく難しいね。だからこう、語ってフィーリングで感じてもらうしかないっていうか。
でも私がとても驚いたと同時に嬉しかったのは、前回ね、前回このバガヴァッド・ギーターの話をしたときに、前回も非常に言葉にできないような内容で、何とかこう言葉にしながら伝えてたんだけど、みんなの反応を見ながら話してたら、みんなしーんとしてて。「あ、やっぱり伝わってない」と思って(笑)。全然反応がないって思ってたんだけど、後から聞いたら皆が「感動しました」とか言ってたから、ああ一応やっぱり感じてくれたのかと。ああ、やっぱりみんな、偉大なね、クリシュナとの縁があるんだなと(笑)。とても嬉しかったんですけども。
だから今回ね、こういう形で分かりやすく紙にしたので、これを例えば何度も読んで、自分の人生にあてはめてみるとか。
少なくともね、こないだのバガヴァッド・ギーターにあったけども、「あら捜しをするな」って書いてあったね。だからあら捜しはしない方がいい。例えば、あら捜しっていうか、こういうことを言うとあれだけども――否定はしない方がいい。否定するんだったら、触れなければいい。例えばこれを見て、「何これ、どういうこと? これはちょっと違うと思う。」って思うんだったら、触れなければいい、そんなんだったら。で、違う修行すればいい。そうじゃなくて、分からないっていうんだったらいいよ。分かんないんだったら、何度も読んだり、あるいはそれを自分なりに実践してみたり、自分なりに考えてみたりすればいい。でも否定はしない方がいいね。それによってどんどんどんどん、利己的知性っていうかな、エゴによる論理的な罠にはまってしまう。
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