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◎母なる衆生

◎母なる衆生

【本文】
 如意宝珠にもまさるすべての衆生の最高の幸福を実現しようとの決意をもって、いつも彼女たち(母なる衆生)を慈しむことを学べますように。

 これは分かりますね。「如意宝珠にもまさるすべての衆生の最高の幸福を実現しようとの決意をもって、いつも彼女たち(母なる衆生)を慈しむことを学べますように」と。

 はい、まず、すべての衆生――つまり自分以外のすべての生き物というのは、如意宝珠にもまさると。

 如意宝珠っていうのは、仏教でよく出てくる、望みをかなえてくれる珠、つまり宝石みたいなものがあるといわれてる。これを如意宝珠。これは樹もあるんですね。樹って書いて如意宝樹。どっちも「にょいほうじゅ」って読むので、ちょっとややこしいんですが、意味はどちらも同じようなものです。望みをかなえてくれるすばらしい貴重なもの。

 で、わたしの周りにいるすべての生き物は、それに匹敵する、いや、それ以上なぐらいすばらしい存在なんだっていうことがまずいわれている。

 で、もう一つそれに対して、母なる衆生っていう言い方がされてるね。

 これは分かるよね。つまり、輪廻転生観というのが背景にあると、母なる衆生っていう考えが湧いてくる。つまり輪廻転生があって、で、縁というのがあって、縁は無常だと。縁は無常っていうのはつまり、今のこの人間関係っていうのが毎回続くわけではない。というよりも、毎回違う。例えば今回やさしいお母さんだった人が、前生では敵同士だったかもしれない。その逆もある。もういろんな縁があるんだね。いろんな縁があるわけだから、絶対――例えばAさんという人がいたら、Aさんが自分のお母さんだったことも一回はある。何でかっていうと、その生まれ変わりの回数が半端じゃないから。もうそれは、よく「無始の過去から」っていわれるんだけど、つまりもう数字にできないぐらい、スタートがはっきりしないぐらい、もうひたすら生まれ変わってる。

 これもいつも言うけどね、最近の精神世界の人とかは適当に、「人間というのは7回生まれ変わるのです」とか、あるいは「あなたは今回初めてですね」とか(笑)、適当なことを言う人がいっぱいいるけど(笑)、でも仏教とかあるいは伝統的なヒンドゥー教とか、伝統的なインド的な考えからすると、もうひたすら生まれ変わってるんです。つまり解脱しないと生まれ変わりは終わらないから、ひたすら生まれ変わってるんだね。

 その中で必ず、この人はわたしのお母さんだったことは、絶対一回はある。まあ一回じゃないね、何回もある。

 だから他の関係も全部あるわけだよ。例えば好きな人ができて、「あの子って過去世で僕のお嫁さんだったんじゃないかな?」――そりゃ、一回はあるよ(笑)。それはあるよ、誰だって、と(笑)。そんな感じです(笑)。だからみんなあると。

 その中で、お母さんとして自分を育ててくれて愛を注いでくれたこともあると。よって、その部分をピックアップして「母なる衆生」っていうんだね。つまり、みんなその恩があるんだと。

 ただね、現代では、この中でお母さん大好きな人、お母さんに恩を感じている人は「母なる衆生」でいいけども、現代でこういう話すると、よくね、「でも先生、僕お母さんそんなに好きじゃないんです」っていう人もいる。つまり現代っていうのは――これも仏教でもヨーガでも同じだけど――カーリー・ユガといって、堕落の時代といわれてる。もう悲惨な時代なんだね。人間界のなかで最もひどい時代なんです。で、この時代っていうのは、家族とか友人とか、そういうのが全部逆縁になるんだね。逆縁になるってどういう意味かっていうと、すごく敵同士のカルマが強い者同士が家族になったり、友人になったりとかなるんだね。表面的には仲良かったとしてもね。表面的には仲良かったとしても、潜在的に敵っていう思いが強いから、なんかギクシャクする。もちろん表面的にもひどい状態になる場合も多い。だから現在でもよく、家族間の殺人とかいろんな暴力とか増えていると思うけども。

 前にもね、何人かそういう人がいたけど、わたしが「母なる衆生」とかいう話をすると、「先生は良く分かってない」と。「わたしは親に虐待されたんです」と。「だから、母なる衆生とかいわれても、全然ぴんときません」――という人も複数いるんだね、実際に。だからここは、母というのは一つの、愛を与えてくれる対象の象徴なので、もちろん母という言葉じゃなくてもいい。つまり、自分に本当に愛を注いでくれた相手、ということです。あるいは、自分を本当に犠牲にして育ててくれた相手、ということです。そういうポジションにいたことが、すべての衆生があるということだね。

 だからすべての衆生に、わたしは恩があるんだと。よって、わたしはみんなに恩を返さなきゃいけないし、みんなを本当に愛していると。そういう気持ちを持つわけだね。これが母なる衆生ということですね。

◎如意宝珠にもまさる

 はい、しかもそれは――なんていうかな、菩薩の道、大乗の道を歩こうとすると、たまにちょっとこう、慢心に陥る危険性がある。つまり、わたしは偉大な道を歩いていて、他の衆生はまだちょっと劣っていると。よっておれが救ってやるか――みたいな感じになる。じゃなくてここでは、そうじゃないんだと。すべての衆生はまるで如意宝珠のような、宝のような、わたしにとってすばらしいかけがえのない存在なんだと。そういう発想だね。

 これはラーマクリシュナとかヴィヴェーカーナンダもそういう方向性でいってる。わたしにとって最も愛する存在は神しかいないと。しかし神というのは、すべてに偏在していらっしゃると。つまり、わたしが他人と見ているすべての人も、実は神であると。よって奉仕しなきゃいけない。これはラーマクリシュナとかヴィヴェーカーナンダとか、あとはラーマクリシュナの在家の弟子のナーグ・マハーシャヤとかね、こういう人がよくそういうことを言ってる。

 だからそういう感じで、衆生は劣っているから、しょうがないな、救ってやるか――じゃなくて(笑)、まさに衆生に奉仕させていただきたいと。こういう感覚があるんだね。

 で、これがここにある「如意宝珠にもまさる」っていう表現とか、「いつも彼女たち(母なる衆生)を慈しむことを学べますように」と。

 この系統の教えっていうのは、もう一回言うけども、方法論です。だからあまり、なぜなんだろうっていうのは――まあ、今「なぜなんだろう」っていう話をしたけども――あまりそこは突っ込まなくてもいいです。分からなかったら分からないでもいいから、こういうふうに考えればいいんだなっていうことです。

 つまり、すべての衆生は如意宝珠のように貴重な、わたしにとって大事な存在だと。しかも、過去世において多くの恩を受けた、恩返しをしなきゃいけない存在だと。そして、本当に愛すべき存在だと。この思いを培うんだね。

 これはね、こういう教えっていうのは実は、中途半端に頭のいい人は駄目かもしれない。こういう教えが身につくのは、かなり知性の高い人か、無智な人です(笑)。無智な人は、「よく分かんないけど、先生がそう言うならそうしようか」と思って(笑)、「母なる衆生!」ってやる(笑)。で、超知性のある人は、ピピピッと「なるほど、そういうことですか」と。「分かりました」と。で、中途半端な人は、「母なる衆生って言っても、絶対にお母さんだったといえるんでしょうか」とか(笑)、「お母さんだったかもしれないけど、わたしに変なことやったこともありますよね?」とか(笑)、わけわかんないこと考え出すから、全然その教えのエッセンスが入っていかないっていうか。

 だからみなさんは、もし知性でこれが理解できるんだったらすばらしい。理解できないんだったら、無智になって実践すればいい。そういう教えだね、これはね。あまりこう論理的に突っ込まなくてもいい。っていうか、突っ込まないでください(笑)。

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