◎死と無常
◎死と無常
そして二番目が「死と無常」ね。これも簡単にいうけども、さっきも言ったようにすべては無常、移り変わると。そしていつ死ぬか分からないと。で、この一番目と二番目をセットとして考えると、やはり修行せずにはおられなくなる。つまりこの稀有な機会。しかしそれは無常であると。あるいは死がいつやってくるか分からない。
これは前も言ったけども、わたしよく昔考えたのは、若いころとか、いろんな煩悩的なことやりたくなったり遊びたくなったり、いろいろするわけです。そのときによく自分に言い聞かせたのは、「わたしは過去世において」――つまりヨーガや仏教の教えが正しいという前提だとするならば――「わたしはもう計り知れない人生を生きてきた」と。「その中でもう遊びまくってきたはずだ」と(笑)。「多くの欲楽を味わってきたはずだ」と。で、今生も教えに巡り合い、本格的に修行始めるまでは遊びまくったと。ね。
そして今生は、出合っちゃったと。出合うことができたというより、出合っちゃったと(笑)。出合っちゃったらもう観念するしかない(笑)。「出合っちゃったんだからもういいや」と。
で、これはちょっとずるい――ずるいっていうよりも自分のエゴに対する言い訳的な発想なんだけど――来世また生まれ変わって、今生一生懸命修行すれば、来世また修行に巡り合えるだろうと。しかしその巡り合うまでの期間があるよね? 例えば二十歳で教えに巡り合うとしたら、二十年は遊べるわけです(笑)。そういうのを自分のエゴに言い聞かせるんです(笑)。
「おれは過去世で何万生も何億生も遊んできたぞ」と。「しかも来世二十年くらいは遊べるぞ」と(笑)。「でも今生はもう教えに巡り合っちゃったんだから、もうきっぱりあきらめろ」と。そういう言い方をよく自分にしてたね。
つまり、それだけ真剣に考えないと、本当にいつ終わるか分からない。このチャンスっていうのは。さっきも言ったように、いろんなことが揃った素晴らしい修行のチャンス。そして目の前には教えがある。さあこれをどれだけ真剣にやりますかと。今日明日でもう達成してしまうぐらいの気持でやらないと駄目ですよと。「十年、二十年おれは死なないだろう」と。「だからちょっと十年、二十年かけてちょっとゆっくりやるつもりです」――そんな甘い問題じゃないですよと。
カルマっていうのは本当に無常だと。ね。これはこの中でも、長く生きてる人ほどそれは分かると思うよね。つまり周りの親戚とか友達とかがどんどん死んでいく。
わたし前も言ったけど、若いころはもちろんそういう実感はあまりなかった。でもだんだん当然歳をとっていくにしたがって――前に言ったけど、あるときね、何年か前に、しばらくわたし実家に電話してなくて、実家にも帰ってなくて、久しぶりに電話したんです。そしたら本当に偶然なんだけど、うちのお母さんがね、「大変だったのよ」とか言って、電話する本当に数日前に、わたしと同い歳の仲の良かったいとこがいて、その彼が過労で倒れて、脳卒中か脳溢血か忘れたけど何か脳の病気で倒れちゃって、一命はとりとめたけど半身不随になってしまったというのを聞いて。で、「それだけじゃない」って話で、うちの弟の息子。だからわたしの甥だね――が、白血病だと分かったと。しかもそのドナーが見つかるか分からなくて、死ぬ可能性もあると。で、わたし実はしばらく連絡してなかったから、うちの弟の子供の存在も知らなくて、しかもうちの弟が結婚したっていうのも知らなかった(笑)。いきなり「甥が白血病」って言われて、「甥って誰?」って(笑)。甥の存在も知らなかったんだけど。つまり甥が生まれてて、しかもそれが白血病であると。で、「ところで、おじいさんとおばあさんは元気?」って言ったら、「とっくに死んだ」と(笑)。つまりわたしが連絡しなかった数年間の間に、あらゆることが変わってたんだね。で、それだけじゃなくてね、うちのおじいちゃんが会社の社長で結構大きな家に住んでたんだけど、「あそこどうした?」って聞いたら――つまりわたしが小さい頃に遊んだ思い出の家ですね。もうおじいさんもおばあさんも死んで、で、その受け継いだ息子が会社潰しちゃって(笑)――で、その会社っていうのがさ、五階建てくらいの巨大な家具屋さんだったんだけど、わたしもよくそこで遊んだ思い出があったんだけど、それはもう更地になって駐車場になってると。そのおばあちゃんの家ももう今は全部取り壊して駐車場か何かになってると。
それをいきなり聞いたから、「無常だな」と(笑)。「いやー、人生って本当に無常だな」と(笑)。あの小さい頃から遊んでた――たーちゃんっていうんだけど(笑)――たーちゃんは半身不随で寝たきりだと。おじいさん、おばあさんはこの世にいないと。いつの間にかわたしには甥ができていて(笑)、しかも白血病であると。思い出の家や遊び場は今は更地になってると――ミラレ―パみたいな心境だね(笑)。
ミラレ―パも久しぶりに故郷に帰ったら、お母さんは死んでて、妹は放浪に発ってて、家はもうすべて崩壊してると。そこでこの世の儚さを知って修行に入ったって話があるけど(笑)。だから長く生きてるほど当然――だってこの世が無常なんて当たり前の話なんです。でもわれわれはそれを自分の問題としてあまり実感しない。芸能人が死んだとかそういう話はよく聞くけども、自分の周りでそういうのをいっぱい見ると、「ああ、やはり無常だ」と。
さっきのわたしのいとこなんてさ、わたしと同い年なわけです。同い年で、小さい頃からよく知ってる。だから非常に親近感がある。その存在が半身不随です。ということはわたしだって分からないわけだよ。今日明日半身不随になるかもしれない。半身不随になったら――まあ、もちろん半身不随になっても修行はできるけど――まあ細かい話だけどね、蓮華座組みにくいなとか、経典読みにくいなとか、いろいろあるよね。もちろんそれはそれとして逆境として受け入れればいいんだけど、でもまあそういう感じでいろんな今の自分の修行のしやすさ、修行できる環境を落としていく、崩れ去って行く要因っていうのは、もう至る所にあるんだね。いつ何がやって来るか分からない。
だからそういうことっていうのは、世の中を見渡してよく分かる。智慧者は経験しなくても分かるんです。つまりお釈迦様のパターンだね。お釈迦様は若いころ、別に自分がそういう目にあってるわけじゃないし、自分の親戚とかがそういう目にあってるわけじゃないんだけど、世の中を見渡して、生老病死の苦悩を知って、無常の苦しみを知って、修行に入ったっていわれている。だから智慧者はもう別に経験しなくても分かるんだけど、われわれは無智だから、なかなかいろいろ身近に経験しないと分からない。
でも教えにわれわれは巡り合ってるので、自分の知性を総動員して、その無常っていうのをしっかり考えなきゃいけないね。本当に一瞬たりともわれわれには約束された、保障された瞬間はないんだと。一瞬先には死んでるかもしれないんだと。あるいは一瞬先には悪いカルマによって堕落してるかもしれない。よって、修行できる素晴らしい環境を大事にして、一瞬一瞬、一日一日――まあ、仏教ではよく「一日一生」っていうけど。つまり「一日でわたしの人生は終わるんだ」ぐらいに考えて、その濃密な一日を送らなきゃいけない。
だからこの間も言ったけど、「明日やればいいか」とかね(笑)、「何ヶ月か後には修行できてると思います」とかそんなんじゃ絶対駄目(笑)。「今日やらないと、もうわたしには明日はないかもしれない」くらいの気持ちじゃないと駄目だよね。それがこの一番目と二番目の考え方によって身についてきますよと。
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