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◎憎しみを捨てる

◎憎しみを捨てる

【本文】
 また、忍辱に等しい苦行はないのですから、御身は怒りを起こすようなことがあってはなりません。怒りを断てばもはや退くことのない境地に達する、とブッダは説いています。

 「この人は私を非難した、この人は私を打ち負かした、この人は私の財を奪った」と言って憎しみを抱く人は争いを起こします。もし憎しみを捨てるならば、安らかに眠るでありましょう。

 はい。忍辱ね――苦しみに耐えること。これに等しい苦行はない。これはシャーンティデーヴァの『入菩提行論』にもそういう一節があるね。忍辱に等しい苦行はないと。だから決してどんなときでも、怒りを起こしてはいけないと。
 もうちょっと細かく言うと、怒りと憎しみはちょっと違います。怒りっていうのは、かっとくる怒り。「え!」「なに!」――この怒り。これはやめなさいと。ただこれは、はっと出てしまうことってあるよね。普段から慈愛だ慈愛だって思っていても、何かされたときにかっとしてしまう。これは出てしまうことがある。これは日々訓練して抑えればいいんだけど、しょうがないといえばしょうがない、出ちゃったものは。
 ただ多くの人が持っている憎しみっていうのは、次の段階なんです。憎しみというのは、ここでも書かれているように、「こいつは私を非難した、こいつは私を打ち負かした、こいつは私の財を奪った・・・・・・」――これを延々と考える。これで憎しみが増大する。瞬間的に怒っちゃうのはしょうがない。しかし教えがしっかり入っていれば、次の段階で、「ああ、駄目だ、駄目だ」と。「この人はわたしのカルマを浄化してくれたんだ」と。あるいは、「このようなわたしに害を与える人を愛することができてこそ、慈愛と言えるんだ」とか、このような心の訓練ができるはずなんだけど、そうじゃなくてもんもんもんもんと「あいつ、許せない」と。「あいつだけは、本当に憎い」と。
 前も言ったけど、人間って馬鹿っていうか、怒りとか苦しみを一生懸命持続させているようにわたしは見えるんだね。いろんな人の相談を聞いてるとね。わたしも昔の自分自身の経験としてもあるんだけど、例えば友達に何かをやられたとするよ。で、「くそー」と思ってる。ずーっと思ってる、「あいつ許せない!」と。「本当に口も聞かないぞ」と。で、次の日学校とかで会って、すっかり忘れてて、なんかやってきたときに笑顔で「よっ!」と言っちゃって、「ああ、駄目だ駄目だ!」と(笑)。「あいつはあんなことおれにやったんだから」と。本当は別に素直な心に戻っているはずなのに、損な気がするんだね(笑)。ここで憎しみを捨てると、わたしは損だっていう気持ちがある――それがさっき言った、邪見なんです。つまり、わたしは害を受けたんだから、憎しみを持って当然だと。憎しみを持たないと損だっていう、変な気持ちがある。これによって人は、自分の苦しみのカルマをどんどん増大させる。
 だからまずは教えを学んで、憎しみを持つことイコール自分にとってマイナスなんだとしっかり学んで、ここに書かれているような「ああ、わたしはこんな害を受けた。こんな苦しみを受けた。ああ、あいつは憎くてしょうがない」っていう、その心の修習をやめなさいと。
 だから、もう一回言うよ。瞬間的な怒りを捨てられれば最高。じゃなくて、最低限でも憎しみの修習――わたしはこんなふうにやられたんだ、こんなふうにやられてしまったんだ――これを捨てなさいと。
 わたしの好きな言葉で、
「人から受けた恩、これは絶対忘れるな。人から受けた被害、これはすぐ忘れろ」
と。
 これは空手の大山倍達の言葉なんだけど(笑)。空手の大山倍達って知ってる? 大山倍達って極真空手を作った人なんだけど、この人はすばらしい武道家で、もちろん別に悟っていたわけじゃないとは思うけども、この言葉はわたしは素晴らしいと思うね。
 もう一回言うよ、
「人から受けた恩、これは絶対忘れるな。人から受けた被害はすぐ忘れろ」
と。
 でも現代においてはみんな、被害も絶対忘れちゃいけないというような変な気持ちがある。でもすぐ忘れたほうがいい。それが自分にとっても相手にとっても利益があります。

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