yoga school kailas

◎大乗の修行のすばらしさ

◎大乗の修行のすばらしさ

 またもうちょっとひねった言い方っていうか考え方すると、すべての衆生は過去か未来の自分だっていう考えがあるんです。これどういうことかっていうとね、これ壮大な考えなんだけど、いつも言うようにヨーガの壮大な考えでは、われわれの真我っていうかな――つまりここにいる、ここにいるっていうか宇宙にいるすべての生き物っていうのはもともとは純粋な真我だったんだけど、偉大なね、至高者――これはクリシュナでもシヴァでもいいけども――の慈愛によって苦しみの世界に突き落とされた。なぜかっていうと、そこで苦しみをいろいろ経験して、やはりこの煩悩とか現世っていうか、マーヤーの世界っていうのは意味がないんだと――苦しみなんだってことを悟らせて、心を成熟させて、成熟した真我に育てるための‘かわいい子には旅をさせろ’的な神の愛によってね、われわれはこの苦界に落とされたっていう表現がある。で、それによってわれわれは無始の過去から、つまり遥かな過去から錯覚のプロセスが始まったんです。
 つまりまず純粋な超ピュアだった真我が――真我っていうかわれわれの心が、まず何か経験しましたと。ちょっとけがれましたと。
 で、そのけがれによって、錯覚によっていろんなものを求めだします。
「ああ、私は金持ちになりたい。ああ、私は性欲を満足させたい」と。あるいは「私は褒められたい」と。
 求めて奔走が始まって、そこでいろいろそれが叶ったり叶わなかったり、喜んだり苦しんだりしながらどんどん輪廻に巻き込まれていきます。で、それはもちろん一つではなくて、何かやってるうちにまた次のとらわれとか欲求がやってきて、それによってもうがんじがらめになって、ウワーッてなって最終的にもう動けないような、もう苦しみとカルマにがんじがらめになった状態になります。
 ここでやっと心が、「ああ、人生って何なんだろう? 」と。本当の幸福って何なんだろうと。こういうことを求めだします。そしてそこに救済者、仏陀とかが現われればその縁ができて、「ああ、修行したいな」っていう思いになってくる。
 で、修行して、今まで散々自分をがんじがらめにしてきたカルマとか心の煩悩とかと戦って、なんとかきれいになって解脱しましたと。「さあ、私はすべてのけがれから解放された」と。「私は悟った」ってなるんだけど、このまた先もあって、また未熟な真我はまた落ちるんだね。
 完全に悟ってればいいんだけど、別のまた――これはいつも言うように、別の刺激がやってきたときに、前に経験した煩悩に対しては悟ったけど、別のタイプの煩悩がやってきたときはまた巻き込まれるんです。で、巻き込まれてまたウワーッていろんながんじがらめになって、やっぱ修行かなってなって(笑)、また修行して悟ると。これを遥かな時を費やして何度も繰り返した場合――もちろんもう一つの方法は、菩薩の道ね。菩薩の道っていうのは一回の人生でいろんな人の苦しみを背負って、そこから解脱する。だから一回でお得っていうか(笑)、一回でバーって多くの悟りを得ることができる(笑)。どっちでもいいんだけど、とにかくいろんな堕落と上昇を繰り返して、で、最終的にまったく動じない完全な仏陀、完全な解脱者になりますと。
 さあ、この偉大なる長い道のりがあるんですよ。で、われわれは今そのどっかにいるんです。そしてすべての衆生もどっかにいるんです。ということはわれわれは結局、同じ道を歩んでいるんです。
 でも、われわれよりはまだ後ろを歩んでいる人もいれば、前を歩んでいる人もいる。あるいはそれは一個人では言えなくて、あの人の中でこの部分は私よりも前を行っているけども、この部分は私よりも後ろを行っているっていう部分もあるんだね。
 で、前を行っているとか後ろを行っているとかいうのはどういうことかっていうと、それは例えば私がね、十生ぐらい前にプライドで苦しんでいたとするよ。プライドで苦しんでて、九生前ぐらいになんとか抜け出せたと。それからはあんまりプライドがないとするよ。で、今例えばYさんがプライドで凄く苦しんでいるとするよ。これはつまり十生前の自分なんです。だからタイムマシンで十生前に戻ったようなもんなんです。
 で、私よく――前も言ったことあるんだけど、例えばさ、リアルに考えてください――みなさんがね、今タイムマシンに乗って、十年とか二十年前の自分に会ったとしますよ。で、そのときの自分が今の自分に比べて、駄目駄目なとこがあったとしますよ。みなさんどうしますか? 絶対励ますでしょ(笑)? 自分だから(笑)。「おい、お前もっと頑張れ。」と(笑)。そんなんじゃ駄目だと。励ますと思うんだね。それと同じ感覚が周りの人に対してもあるんです。つまり、自分よりちょっと劣った者とか、まだ克服してない部分を見つけたら馬鹿にするんじゃなくて、「ああ、これは過去の自分だ」――と思って励ますんだね。
 さあここで問題です(笑)。もしYさんが過去に戻ってね、例えば十年前の自分に出会って、もっと今よりも物凄くプライドが高かったとするよ。で、プライドで闘争してたとするよ。で、その人を――十年前の自分を、説得したり修行させたりして、「プライドを落とせ!」と。「さあ頑張れ」ってやって、十年前の自分がかなりプライドが落ちたとするよ。そしたらどうなると思います? ――当然、今の自分も変わるんです。十年前の自分が変わったことによって今の自分も変わるでしょ? それとまったく同じことが、この世の中においても言えるんだね。
 私が例えばYさんを十年前の自分だと思って、「さあ、Yさん、こうやってプライドを落とすんだよ」って言って修行させて、Yさんがパーッて変わったとするよ。そしたらこっちもパーッて変わる(笑)。そういう法則があるんだね(笑)。だからそれは非常に大乗の修行っていうのは素晴らしい。

◎他人に良い部分を見つけたら

 それからそうじゃなくて、自分にない良い部分を周りに見つけたら、それは逆に未来の自分だと思ったらいい。だからそれは卑屈になる必要もまったくない。
 プライドの高い人はやはり卑屈になっちゃうんだね、人の良い部分見ると。
 でもそれはさっきも言ったように、人それぞれいい部分と悪い部分があって、で、あの人の持っているこういう部分は自分の先を行っていると。つまりこの人はたぶん――例えばまたYさんでいうと(笑)、私はYさんよりもプライドはないが布施の心はYさんの方があるとするよ。ということは、「ああ、私は遥か昔に一生懸命プライドを落とす修行をやってきたけども、あんまり布施やんなかったな」と。布施やんないでずっと生きてしまったと。でもYさんはプライドをいっぱい持ってたけども、もう何生も何生も布施をやってきたと。よって今はもう何の欲望もなく人に、あるいは真理に対してすべてを投げ出せるような布施の心があると。「ああ、これは見習わなきゃいけない」と思うようにするんです。
 なぜかっていうと、われわれの心の方向性っていうのは「ああ、こっちだ」と、「ああ、こうしなきゃいけない」って思った方に向かうんだね。でもね、例えばですよ、これはすべて仮の話だけどね、もし私が物凄く貪りが強くて布施の心がないと。で、カイラスの他の人も布施の心がなかったとするよ。で、そこにYさんが現れて、Yさんだけが布施の心を持っていたとするよ。これはわたしにとって、あるいはみんなにとって凄い宝物なんです。なぜかっていうと、「ああ、そうか」と(笑)。布施というのは素晴らしいんだと。そういう発想を与えてくれるんだね。
 もうちょっと分かりやすくっていうか具体例で言うと、曖昧にね、何となく修行とかヨーガとか仏教って素晴らしいなって思ってても、実際の生活における表現の仕方とか生き方っていうのはいろいろあると思うんだよね。それは例えばこういった場所でね、法友と接すると、それぞれ法友の持っている具体的ないろんな良い部分が見えてくる。「ああ、そうか」と。ああいう感じで――ああいうときはこういう表現するのがやっぱ素晴らしいねと。あるいはああいうふうな状態のときに、こういうふうに考えるのは素晴らしいと。ああいう発想は私にはなかったと。そういうのを見かけたら、もうそれを賞賛するんです。賞賛して自分の未来の姿だと思うんです。
 その人全体を賞賛するんじゃないよ。ここら辺が難しいところなんだけど。人間ていうのはさ、錯覚があるんだね。一部分を全体だと思ってしまう。恋愛とか一番いい例だけどね。――まあ私がいつも恋愛を語るのも何なんだけど(笑)――何かきっかけがあったとしてね、例えば本当に自分が苦しんでいるときに、優しい言葉をかけてくれたとか。あるいは本当にちょっとした仕草とか。何かそれで恋愛のスイッチが入ってしまったと。そうするとすべてが(笑)――つまりたまたま相手も適当に優しいこと言ったのかもしれないし、あるいはその仕草だってたまたま何かバシッと自分に合う仕草やっただけなんだけども、それによって全肯定されてしまう。よく「あばたもえくぼ」って言うけども、すべてが肯定されると。 
 で、それの逆もあるんだね。ずっと好きだった人に何かのきっかけで「え!? やっぱこの人駄目!」ってなると、今度は全否定に走る(笑)。今度は「えくぼもあばた」ってやつだね(笑)。前までは本当にもう相手の汚いところとか見えてても「いや、これもこういうふうにいいとこなのよ」って思えてたのが、今度からは、それはいいところなんじゃないって思える部分でも全否定に走る。
 これはもういろんなね、中国の故事とかでもよくそういう話あるよね。ある王様がね、ある愛人がいて――その愛人を物凄く可愛がっていたと。で、もう何をしても許してたと。で、大事な王様の桃の園があって、愛人がその桃を食っちゃった。でもそれは「可愛いやつだ」と(笑)。で、許したと(笑)。でもその後いろいろあって、愛人が嫌いになって別れることになったんだね。で、別れた後にその王様が、「お前あのとき桃食っただろう」と(笑)。で、処罰したって話があるんです(笑)。

(一同笑)

 つまりそういうところがあるよね、人間ってね。

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