◎変容の秘訣
◎変容の秘訣
はい、そしてこの部分の最後が、
「楽・苦しみ・どちらでもないという三つの経験から生じる三毒(愛著・嫌悪・迷妄)を、空・悟り・解脱に変容させる秘訣は、これらの教えを心に銘記して、あらゆる活動に従事することです」。
はい、これはここの章のまとめですね。つまり楽、苦しみ、どちらでもないという三つの経験――つまり、われわれの人生はその連続なわけです。これはまあ当たり前の話だけどね。われわれの人生に起きる現象っていうのは楽、つまり幸せを感じるものか――その程度は別にしてね――楽か、苦か、どちらでもないかでしょ、絶対に。それ以外はありえない。
例えばこの供物もそうだけど、例えばですよ、Mさんがドーナツ買って来ましたと。これを食べたときの反応は、絶対この三つのどれかでしょ(笑)。うまいか、まずいか、どっちでもないか。ね。全部そう。例えば人生におけるいろんな現象があります。それはもちろんすべて楽か、苦しみか、どちらでもないか。
で、ただそれだけなら問題ないんだけど、われわれの意識っていうのは無智なので、それに反応してそこから、ここに次に出てくる愛著、嫌悪、迷妄っていうのが出てくるんだね。これを仏教では三毒――つまり根本的な三つの煩悩といっています。
つまりこれは、この三つは根本なんだね。この三つを根本として、そこからより細かいものが発生するわけです。つまり嫉妬とか、慢心とか、そういったより細かい煩悩の分類が始まるわけだけど、ずーっと根本をたどると、愛著、嫌悪、迷妄――古い言葉だと貪・瞋・痴っていうけどね。つまり簡単にいうと、「好きだ」っていう気持ちと「嫌いだ」っていう気持ちと「よく分かんない」っていう気持ち。この三つにわれわれは襲われる。
つまり楽、苦しみ、どちらでもない感覚があるよね。経験があるよね。当然、楽の経験をしたときはそれに執着が生じます。もっとそれが欲しい、もっとそれが欲しい。表面的にそれを思わなくても、潜在的にそういう気持ちがインプットされます。
いったんこれがいいって思ったら――あのさ、こういうこと言うとみんなどれくらい理解できるか分かんないけど、われわれの欲求のすべては、過去の経験を追いかけてるだけです。ただそれだけです。過去の経験と合ったときに、「OK!」と思うんです。意味分かる? 「これ、これ!」っていうのがある(笑)。そういうことを認識できるときってあるよね。認識できるときっていうのは――例えば、わたしの生まれは福島なんで、福島って喜多方ラーメンって有名だけど、わたし住んでたのは喜多方じゃないんだけど、喜多方じゃないんだけどだいたいね、福島、あの辺のラーメンってみんなああいう味するんです。あの太麺で、醤油味で、シンプルな味なんだね。で、わたしやっぱり小っちゃいころからあれ食べてきたから、あの味が好きなんですね、もともとね、ラーメンの中でね。で、例えばその喜多方ラーメン的な味がいいと思ってる自分がいたとしてね、で、でも東京に来ると違う味のラーメンがある。「これはなんかおれはあんまり好きじゃないな・・・・・・」。で、たまたまそういう同じような喜多方ラーメン的なのを口にしたときに、「ああ、これ、これ、これ」と。おれの求めてたのはこれだと。
でもそれは自分でも分かってる。それは小さいころからそれを食べてきたからだと。つまり小さいころの記憶と、今の経験がしっかり合ったから、「これだ!」っていう感じになる。
今の例は分かりやすいん例だけど、でも実は全部そうなんです。全部過去のどこかで経験したものを追い求めてるんだね。で、それに合ったときに、「ああ! 幸せだ!」って思うんです。
っていうことは、すべての幸せは幻影なんだね。だって絶対的じゃないんです、これ。単に過去の――だって、最初に「幸せだ」って思ったことも錯覚なんです。錯覚なんだけど、その錯覚を追い求めてて、また合ったときに――つまり錯覚に合って、またそれを喜びだっていう錯覚が生じる。もともと錯覚なんだけど、さらに単純に過去の錯覚に合っただけなんだけど、それを喜びっていうふうに錯覚してしまう。それはみなさん自分の心を振り返ったらいいね。
わたしはね、よくそういうことを観察して、つまり自己観察をして、「ああ、そうだなあ」って思ったことがたくさんある。まあ味覚がやっぱり一番分かりやすいんだけどね。例えば「ああ、これだ!」って思って、「うまいなあ」って思ってるんだけど、自分をよく観察すると、別に本当はそんなうまいって思ってないんです。これ昔の味と同じだって思ってるだけなんです(笑)。「おれが求めたのはこれだ」っていうのにビタッときたから、わーって快感が生じてるんだけど、今それをそんなにおいしいって思ってるわけじゃない。ただ「合った」って思ってるだけなんだね。実はね。
で、すべてがそう。で、それはもちろん嫌悪もそうだね。「これが嫌いだ!」っていうインプットがあって、その「嫌いだ!」ってものとほぼ同じものが現われたときに、「うわっ! 嫌だ!」っていう思いが生じる。でもそれも、ただ過去の経験と合わせてるだけだと。
じゃあどこが始まりなんだっていうと困るんだけどね。ここから先は本当は追及しちゃいけない。なんでかっていうと、始まりはないから。ここから先っていうのは、われわれが悟らなきゃいけないところなんだけど、輪廻っていうのは始まりがないんです。始まりがないっていうのは、ちょっとこれは説明しづらいんだけど、われわれが寝てね、夢を見ました。夢を見たときってさ、いきなり赤ちゃんから始まらないだろ? はい、寝ました。夢の世界でオギャーって生まれて、こう育ちました――にはならないよね。夢の世界でいきなり成人として登場するでしょ。それは例えば、Mさんが寝て夢を見たら、まあ今のMさんとして登場するかもしれない。あるいは全然違う人物として登場するときもあるでしょ。例えば自分がなんか王様になった夢を見るとかね。
例えば分かりやすい例でいうとしたら、Mさんが寝て、王様になった夢を見ました。ね。「王様いつ生まれたんですか?」っていう問題がある。いつ生まれたっていえないでしょ。始まりはないんです。まあ強いていえば、夢を見始めたときから始まってるんだけど。例えば南さんが起きてね、「ああ、なんか今王様の夢見たな」と。で、また寝たとするよ。次の日に同じ世界の夢を見ることってあるじゃないですか。またあの王様になったっていう夢。そういう夢みんな見たことある? わたしはよくあるけど、世界観が同じっていうやつ。あるよね? 例えばある夢を見たときに王様で、世界観は同じなんです。その法律とか、自分の周りの登場人物とかみんな同じなんです。で、また起きて、「ああ、面白い夢見たなあ」。一週間後ぐらいにまたその世界に行くと。同じ世界観。ね。だからその夢を見たときが始まりっていえば始まりなんだけど、でも、その世界っていつ始まったの? といわれると始まりはない。ちょっと分かりにくいかもしれないけどね。
仏陀になったら、われわれは目覚めたってことです。今われわれは寝てるんです。夢を見てるんです。この夢には実は始まりはない。始まりはないんだけど、延々としたこの錯覚の繰り返しがある。
つまり、わたしは過去の経験にとらわれて――つまりね、わたしたちが何か経験をしたときに、これが喜びだって思うのは、これは過去の経験からなんです。過去の経験に合わせて喜びだって思ってるだけなんです。で、それによって、次何か経験したときも、またそれを喜びだって思ってしまう。で、それをまた欲求する。じゃあそれを辿ってったらスタートどこなんですか?っていったらスタートはないんです(笑)。これが、理解の難しいとこなんだけど。でもスタートはないんだね。
とにかくその繰り返してる、迷妄の夢みたいな世界があるんです。そこにわれわれは今はまってるんです。これは恐ろしいんだね。目覚めない限り終わりもないんです。始まりも終わりもない世界なんだね、この輪廻の世界っていうのは。
まあ、この辺は難しいから、ここから先はあんまり考えなくてもいいんだけど(笑)、とにかく考えなきゃいけないところは、われわれはこの世でいろんな経験をして、勝手に、これは幸せだとかこれは苦しいとか、勝手に判断をしてしまって、で、それによってわれわれの欲求や嫌悪、憎しみやあるいはどうでもいいっていう気持ちは増大する。どうでもいいっていう迷妄は、もう一つの意味としてはこの全体像、つまりこの流されるっていう感覚ね。あまりよく考えずに情報に流されたり、自分のカルマに流されたりすること、これ自体も迷妄っていうけどね。このようにしてわれわれは、この世の中で何も考えずに生き、そして執着や怒りや無智が増していくと。
じゃあわれわれはどうしようもないんでしょうか。この世でカルマの流れによって普通に生きてたら、いろんな楽しいことやいろんな苦しいことがある。楽しいことがあるたびに執着が増し、苦しいことがあるたびに嫌悪が増すと。どうしようもないんでしょうか。そこで出てくるのが、この心の訓練ですよと。
特に今挙げた、今日勉強したところ、つまり「2-A 基礎的菩提心」っていうところ全部。
もう一回言うよ。
「あらゆる問題はただ一つ、エゴのせいである。
それを払いのけなさい。
すべての衆生の大きな恩を思え。
トンレン(他者に幸福を与えることと、他者の苦しみを受け取ること)を交互に繰り返して修習せよ。
それはまず、自分の苦しみを受け取ることから始めるべきです。
この二つは、呼吸に乗せて行なわれるべきである。」
この文章と、それから今日わたしが説明した、詳しい説明。これをあらゆる活動をしながら、これを心に刻みながら経験をする。そうすると今言ったように、普通はいろんな経験に苦しいとか喜びだとかいう錯覚が生じ、そこから執着や嫌悪が増す。しかしそうじゃなくて、さっきからずーっと言ってきたようなトンレン的な発想とか――つまり苦しいことがあったら、「ああ、みんなの苦しみが来てるんだからありがたい」と思うとか、あるいは「喜びはみんなに行ってくれ」って思うとか、あるいは「すべてのわたしの苦しみの原因はエゴなんだ」って思うとか、こういう教えを心に銘記しながら人生を送ってると、同じ経験をしていてもそれが執着や嫌悪や迷妄になるんじゃなくて、悟りや解脱の手助けになるんだね。
つまり、この環境自体は変わらない。環境自体は変わらないんだけど、そこにその心の訓練、あるいはトンレン、慈悲とかいうエッセンスがチョンと注がれることによって、この世界が、われわれを迷妄に引きずり込む魔の世界ではなくて、われわれを悟らせる神の世界に変わるんです。
つまりこの輪廻には実は実体がない。実体がないっていうのは、繰り返すけども、われわれを悟りに導く神の王国ともいえるし、われわれを地獄に導く魔の王国ともいえる。それはただ一つ、自分の心構えで決まるんです。自分の心構えにこの心の訓練の教え、あるいはトンレンの教えが入ってたら、この世界は神の慈愛の王国です。でもわれわれのエゴが勝っていたら、あるいはそのような縁がなくてね、まだこの聖なる教えに出合う縁がなくて、エゴを肯定する生き方をしてたら、この世界は生きれば生きるほど引きずり込まれる魔の王国に過ぎない。
だから何度も言うけども、このような教えに出合えたこと自体がわれわれにとってはとても幸福なことであって、もう滅多にないようなことなんだということを自分に言い聞かせなきゃいけないね。
◎無始の過去とは
はい、じゃあ今日は一応ここで終わって、後は質問を聞いて終わりにしましょう。
(U)あの、さっきの話だと、過去の経験に照らし合わせて、これは幸せだっていうのをこう感じてるって言ってたじゃないですか。で、その過去の経験はまた前の過去の経験に照らし合わされてて、で、その前の過去の経験も前の過去の経験……っていうふうに無限後退していって、で、その最初はどうだったのかっていうのはたぶん「無始の過去」っていう言葉で――
そうそうそう。無始の過去。
(U)表わされてるんですよね。
うん。
(U)で、だけどじゃあ始めは何だったのかっていうところは、例えばチベット仏教でも、上座部仏教とかでも、その辺のことについて詳しく研究してるような、その経典とか教えっていうのはないんですか?
上座部仏教ではないだろうね。チベット仏教とかヨーガでは、何ていうかな、便宜的にいってるのはある。まあただね、そうだな、本当の本当の最初まではいっていない。
どういうことかっていうと、われわれが例えばニルヴァーナとかから落ちる最初をいってるのはある。でも、その前もあるんだね。例えば、じゃあニルヴァーナから何で落ちるんですかと。それは、例えばヨーガでいったら、三グナの影響があって、あるいは仏教でいったら例えば如来がね、未熟な魂を成長させるために落とすんだと。その落とし方が煩悩とかで誘惑すると。で、何で誘惑されるのかっていうと、そのニルヴァーナに入る前――つまり彼らはニルヴァーナに入る前の迷妄の経験がある。つまり彼らは、ニルヴァーナに入る前にどっかでまた迷妄だったんです。迷妄だったのが、解脱してニルヴァーナに入った。でも解脱したんだけど、それは完全な解脱じゃないから、ただ煩悩を止めてただけだったと。で、止めてた煩悩をまた刺激される。っていうことは、ニルヴァーナに入るさらに前の経験があったっていうことなんだね。
じゃあその前はどうなんだろう――と、また始まってしまうというか(笑)。だからそこは、誰も言ってないんです。言ってないっていうよりも、何で言ってないかっていうと、言えないんです。
何でかっていうと、ニルヴァーナっていうのは一元の世界――つまり非二元といってもいいけど。でもこの、経験をして、執着が出て、とかいう世界っていうのは二元の世界、輪廻の世界だね。つまり本来は一元から二元のシフトっていうのはありえないんです。二元は二元なんです。一元は一元なんです。だからここら辺が、あんまり頭で考えてもしょうがない部分なんだね。悟らなきゃいけない部分なんだけど、理屈でいうとそうなんです。
だから始まらないものは永遠に始まらないんです。始まったものは終わるんだけど。でも始まるっていうことは、始まってなかったわけでしょ。始まってなかったものは始まらないはずなんです。「何で始まってんの?」って話がある(笑)。つまり、一元と二元は永久に交わらないし――っていうよりも二元自体が実は幻なんだね。だから言葉にすると非常にわけが分からなくなってくんだけど(笑)。
(U)始まってるんだけど、始まってないんだよって気づくことですよね?
うん。だから究極的に言っちゃうと、実は何も始まってないんです。だから今言っていることも全部夢の中のことであって、全部仮のことなんだね。でも仮っていっちゃうとみんな勘違いする人が出てくるから、「え? じゃあ輪廻とかカルマは仮なの? じゃあおれは何やってもいいんだ」っていう人が出てくるから(笑)、それは違うと。もう完全にその仮の中にわれわれははまっちゃってるから。
だから答えとしては、ちょっとショッキングかもしれないけど、あなたは過去においてこういう苦しみを味わいましたね、喜びを味わいましたね、それによって今こういう執着が出てますね――これは真実なんだけど、究極的には嘘なんです(笑)。本当は何もなかった。
だからもうちょっと誤解を恐れずに言えば、そういうことがあったような錯覚に陥ってるんです。ちょっとそれは究極的にいうとね。でも本当はそういうふうに考えちゃいけない。われわれは今その中に入っちゃってるから、それは実際にあったって考えた方がいい。でも本当は何もなかったんです(笑)。ここら辺が難しいところなんだね。
だからそれが、今日も最初に言ったんだけど、勝義諦と世俗諦ってやつだね。つまり究極の真理をいってしまうと、実は何もなかったってなっちゃうんだけど、そればっかり考えちゃうと、われわれはこの世において正しく生きることができなくなる。だからまずはこの迷妄の中で、二元の世界の法に則って正しく生きるっていうことを続けなきゃいけない。
だから便宜上、ある程度までのこの方便の法則を受け入れるんだね。つまり輪廻というのはあって、過去世もあって、このようにしてわたしの心は形成されてきたっていうのを実際に受け入れて、その中で正しく生きる訓練をする。
しかし究極的にわれわれが悟るときには、「あ、あれ全部本当はなかったのか」ってことになる。
それはさっき言ったように、二元と一元は決して交わらない。二元と一元は決して交わらないっていうよりも、もう一回言うけども、二元って本当はどこにもない――っていうのが答えだね。ちょっと難しいけどね。
だからお釈迦様とかはその有名な――いわゆる無記だね。そういうその究極的なところにいくと、もう何も言わないんです、お釈迦様は。「聞くな」と(笑)。つまりそれは言ってもしょうがないっていうか、言葉では表わせない世界だからね。そこで惑わしてもしょうがない。
ただ密教とかヨーガっていうのは、結構ギリギリのところまでいくんです。言っちゃうんだね、ギリギリのとこまで。つまり言葉で表わすことっていうのは、前も言ったけど、円周率みたいなもんで、結局そのπ【パイ】っていうのはピタッといかない。もちろんさ、円周率は最終的にピタッといくかどうか分かんないともいわれるけど、まあ、いかない。いかないものを――なんか現代の小学校では円周率を「三」とか表わす、三しか教えないっていってるけど、三・一四なら三・一四で、そこで切っちゃってるのがお釈迦様。で、密教とか仏教は、結構いってるんです(笑)。十万桁ぐらいいってる(笑)。十万桁ぐらいいってるんだけど、でも最後まではいけない。つまり二元から一元までいけないのと同じで、言葉では結局最後まで表わせないんだね。でも一応われわれの希望に応えて、われわれが納得できるような結構なとこまでいっちゃってるんだね。説明しちゃってるっていうか。
でもそれも、まだ究極の真理ではない。究極の真理は悟るしかない。
で、そういうことっていうのは、頭の片隅には置かなきゃいけないんだけど、じゃなくてわれわれは、何度も繰り返すけど――そうですね、頭の中の六〇~七〇%は、この世における真理に標準を合わせた方がいい。つまりさっきから言ってる、わたしの苦悩というのは幻影なんだと。それは過去の経験に照らし合わせて、苦や喜びを味わってるに過ぎないと。よって、そういうものは意味がないと。で、それはエゴが原因だと。よって、慈愛や慈悲やトンレンの瞑想によってそういうのを破壊しなきゃいけない――これによってわれわれの、まず第一段階で、いつも言ってるけど、悪夢がいい夢に変わります(笑)、まずね。われわれは悪夢を見てる。悪夢がいい夢に変わります。つまりまだ夢からは脱してないんだけど、幸せになります。
こう寝てて、「ああ夢だなあ」「幸せな夢だなあ」ってなってきます。
で、最終的にそこから脱却します。
つまり、騙されたと思ってやってみろと。騙されたと思ってトンレンやってみろと。それが一番早いと。これがこの心の訓練の教えなんだね。
だからそうだね、この心の訓練の教えっていうのは、まさにそういう教えです。「騙されたと思ってやってみ」と。パッと大聖者が現われて、「おまえ、いろいろ教え学んでるけど、騙されたと思ってこれやってみ」と(笑)。「これ、すごいよ」と。「早いよ」と(笑)。これが心の訓練の教えなんだね。
もちろんわれわれに縁があれば、こういうのを読んでね、「ああ! なんかよく分かんないけどたぶんこれは真実だ」と思って実践する。あるいはそこまでの縁がなくても、それを教えてくれる師匠とかに信があれば、あるいは仏教そのものに信があれば、わたしは無智でよく分かんないけど、師匠が言うならそうなんだろうと。あるいは仏教で伝統的にそういわれてるんだったら信じますと。これも素晴らしいね。
こうやって、よく分かんないんだけどそれを一生懸命やってるうちに、これは本当に素晴らしい教えなので、スイッチが入って、さっき言ったように自分の輪廻の夢がよい輪廻の夢に変わり始め、最終的には目覚めるための足がかりができる。これがこの教えですね。
だから何度も言うけども、この種の教えっていうのは、もちろん『入菩提行論』もそうなんだけど、こういった種の教えっていうのは、われわれが本当に出合うことの難しい、エッセンス的な教えともいえるんだね。
はい、じゃあ今日はこれで終わりにしましょう。おつかれさまでした。
(一同)ありがとうございました。
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