◎内なる真我の楽しみ
◎内なる真我の楽しみ
【本文】
『外界の感覚的快楽に心惹かれることなく、常に内なる真我の楽しみに浸っている人は、
常に至高者に心を集中し、限りなき楽を永遠に味わっている。』
『感覚的接触による快楽は一時的なもので、後に苦しみが生起する原因となる。
それゆえ、初めと終わりを考え、ブッダ(覚者)は、そのようなむなしい快楽には心を向けないのだ。クンティー妃の息子よ!』
はい。ま、これはわかるよね。これはヨーガ、仏教でよく説かれることで、感覚的接触による快楽は一時的なものだと。で、『初めと終わりを考え』っていうのは、つまりこの無常性を考えろと。で、喜びも、例えばとらわれることによって、それが後に苦しみの原因となってしまうと。
まあ、それはよくみなさんも経験してると思うが、例えば、前はそうでもなかったんですが、それが手に入った瞬間にとらわれてしまうと。とらわれるっていうことは今度は、失いたくないっていう苦しみが生じます。あるいは失ったことによって苦しみが生じる、とかね。
あるいは例えば、前は――例えば現代でよくあるパターンだけども――前は貧乏で、どんな状況でも生きられた人が、ちょっとお金ができて、ちょっと贅沢な暮らしをしてしまうと、今度は前のような暮らしに戻れなくなる。前の暮らしが非常に苦しく感じる。つまりこれは喜びが苦しみに変わるパターンだね。
つまりわれわれはこの無常なる世界で喜びとか苦しみとかいうものを追い求めると、絶対苦しみに変化する。なぜかっていうと、無常だから。全てはこう移り変わってるから。
だからそういうものに心を向けるのではなくて、全く変わらない本質、これに、これをわれわれが得たならば、条件関係ないんです。
◎心の本性に目覚めなさい
つまりお釈迦様も言ってるけども、全ては無常だと。無常だっていうのは、これは、「ただそれだけ」なんです。それだけっていうのは、ただの現象なんだね。無常自体は苦しみではないです。これは重要なポイントです。全ては無常ですよと。無常なるがゆえに苦なりってお釈迦様は言っているわけだけど、このことばには相当ポイントがあるんです。
無常――なんで無常で苦なんですかと。それは、無常なるものを常だと思って執着してるからなんです。無常っていうのはただの現象なんです。つまり全てが生まれては消え、生まれては消え。あるいは、いろんな現象が集まって一時的にある現象を及ぼすが、一つでもそれが欠けるとまた次の展開をすると。この辺は、この世のカルマの流れとして、当たり前のことなんだね。でもわれわれはその一つに――まあ、例えとしてはこういうことです。うにゃうにゃうにゃうにゃ動いてるものがあって、これはこれで、「ああ、動いてるな」でいいんだけど、動いてるもの一つにガッて執着してしまう。執着してしまうとこれも消えなきゃいけないから、「あー! 消えないでくれよ!」と。ここから苦しみが生まれる。あるいは、自分の今のいい状態が来たと。「ああ、いい状態が来た、いい状態が来た」。で、悪い状態もこれは来なきゃいけないんだけど、いい状態じゃなくて悪い状態嫌だと(笑)。これによってまた苦しみが生じる。
つまり、ちょっと別の言い方をすれば、これはシャーンティデーヴァもいっているように--シャーンティデーヴァはこういう素晴らしい例えを言ってるね。大地を全て覆う皮がどこにあるかと。お前が革靴を履けと(笑)。つまりこれはどういうことかっていうと、外側の条件を整える幸福っていうのは、完全な幸福に至るのは不可能だと。つまり外側の幸福を整えるっていうのは、「よし、おれは金持ちになりたいんだ」と。一生懸命努力して金持ちになりましたと。でも、失われると。例えば株価が暴落して、失われるかもしれない。あるいは死んでしまえば、もちろん金とか、死は全部なくなってしまう。あるいは、素晴らしい友人関係ができましたと。この友人関係、まあ恋人でもいいけど、この人間関係一生大事にしたいと思ってても、絶対失われる。別れなきゃいけないかもしれないし、あるいはけんかするかもしれない。あるいはどっちかが死ねば失われる。
外的に、一生懸命条件を、はい、はい、はい、はい、はいって整えて、はい、はい、はい、できましたあ!ってのはまさにねえ、もう本当にもろいんだね。ああ、できたけどちょっとどうしようかと。もう、砂上の楼閣っていうか、まさに砂浜に作った城みたいなもんで、「あ、できたけどちょっと、ちょっと触らないでね」と(笑)。「ああ、ちょっと待って」。「ああ、波が来たあ!」と(笑)。「あああー!」って感じで。こんなもんなんです。それは意味ないよと。
じゃなくて、こっちだと。つまり、心の本性に目覚めなさいと。そうしたら、条件関係ないんです。関係ないっていうのは、まあいつもいうように、恋人がいりゃあ幸福だけど、いなくても幸福なんです。誰かと親密であれば幸福だが、ちょっと相手に嫌われたって幸福なんです。あるいは、金があれば幸福だが、なくても幸福なんです。このように、簡単にいえば、心の方を開発し、心の方を覚醒させ、心の方を――まあ、段階的にいうとね、徳に満ちさせる実践。これが、修行なんだね。
だから修行者と一般人との大きな違いはそこにあります。一般人っていうか修行してない人ね。つまり、外側を何とか整えて幸福になろうとしてるのか、こっち側、内側に、幸福の、壊れない心の境地を作り出そうとしてるのか。
で、このカルマ・ヨーガとかバクティ・ヨーガの世界においては、常に神を思い、常にこの宇宙の本質に心を合わせ、その状態を作り出そうとするんだね。だから一時的な、移り変わる感覚的な楽しみとか、あるいは一時的なカルマとか徳によって作られた、いろんな成功とか失敗とか、そんなものに一切とらわれないんだと、そんなもの一切関係ないんだと、いうことだね。
それはまあみなさん修行してるから、少しは当然そういう感覚は分かると思うんだよね。どんな状況でも幸せっていうか。 だから私いろいろ見てると、カイラスももちろんそうだけど、カイラスだけじゃなくて、ちゃんと修行してる人っていうのはだいたいね、楽天的です。ま、よくチベット仏教徒の人たちはみんな楽天的だっていうけど、チベット仏教の、いろんな亡命の記録とか見ると、何かみんな楽天的なんだね。国を失って、殺されながら旅してるんだけど、何かすごい、ユーモアに溢れてるっていうか(笑)。あんまり何か、自分たちが国を追われてるとかっていうことを、そんなに真剣に考えてないっていうか(笑)。でもそれはたぶん、彼らが心の浄化っていうのを常に思ってるからだと思うんだよね。こうこうこうだから私は嫌なんだっていうんじゃなくて。
でも、ある意味ではですよ、これはいいとか悪いとかいう意味じゃないんだけど、だから潰されたといえるのかもしれない。つまり、あまり外的な、国を守るんだ、とかいうパワーが少ないんだろうね、仏教ではね。だから――でもそれは別に悪いことではない。それもまたブッダや神の意思によって、チベットは潰されたのかもしれない。チベット人たちがもっと現実的な、外的なことを考える人たちだったら、もっとうまくやってたかもしれない。でも、「いやあ、ブッダにすがればなんとかなる」とか、そういうのしかやってないから(笑)、どんどんどんどん唯物的な中国共産軍にやられてしまったと。でもそれも含めて、別によくも悪くもないんだね。全ては神の意思だと。ブッダの意思だと。だからそういうのがたぶん根底にあるから、チベット人たちもすごく楽天的だし。
私が見てきた中で、やっぱり修行者ってだいたい楽天的です。もう、全てをこう、そんな、何か小さな、今日これが起きたとか、成功した、失敗したとか、あんまりそんなのにとらわれていないよね。うん。失敗すれば失敗したで、「ああ、失敗した」と。わっはっはと(笑)。
(一同笑)
カルマ落ちたねと(笑)。だいたい、カイラスもそうだけどさ、みんな私によく相談とかするときとかって、半分答え分かってるでしょ。例えば、「ここ痛いんです」とか、「こんなことがあったんです」。「ああ、浄化です」と(笑)。
(一同笑)
「ああ、神の愛だね」と(笑)。
(一同笑)
何かこう、具体的なものもあるけども、それよりも何か、根底がそうだから(笑)、根底がそうなら別にまあどうでもいいのかあっていうことになってくる。だから楽天的な感じになってくるよね。でもそれだけでも普通の――普通のっていうか、そういうことを知らずに、小さなことでいつもくよくよ悩んでいる人に比べたら、相当心は解放されてるだろうし、幸福感っていうのはあると思うね。