◎カルマと慈悲
(P)あの、カーストの話してましたけど、僕はインドに行ったときに、よく障害者とかに会ったとき、別にその人じゃなくて、一緒にいた人とか、「ああ、それはカルマだから」と言って、同情しないように言い出した。
逆にそれはひどいと思います。だって他人の……まあ自分だったら、例えばこれは自分のカルマだから、自分はこういうふうに生まれたのはしょうがない。でも他人だったらそれはなんかひどくないですか?
あのね、それはとてもね、難しい問題だね。
まずね、段階があります。今Pさんが言ってることは非常に正しくて、そういう人はもう最悪なんです。最悪っていうのは、つまり自分に優しく、人に厳しいと。人に対しては「カルマだ」と。
まあ例えばね、あるべきなのは、こういう発想です。自分はどうでもいい。でも人は幸せであってほしいと。この発想があれば、自分に生じたことは全部「ああカルマだね」と。「全く私は関係ないですよ」と。でも他人に対しては、カルマなんだろうけど、それでも見てられないっていうか。それでも例えば、彼がちょっとでも傷つくのは、もうかわいそうでしょうがないと。そういう発想が第一に必要なんです。
でもこれもさっき言ったように――つまりね、仏教とかヨーガって、一個人の修行者でもいえることだけど、進化と堕落を繰り返すんです。例えば仏教の教えに巡り合って「おお、カルマ。よし分かった」――でもカルマの教えを間違ったふうに解釈しちゃうと、今言ったようなすごく利己的な感じになってしまう。自分に対して文句ばっか言ってるのに、人に対しては「カルマだから」って冷たくなる。
それよりはちょっと情緒的なくらいに相手に対して愛とかを持って、でも「自分にとっては全く関係ない」くらいの気持ちの方がいい。
で、そこから更に先があるんです。
本当に「ああ、みんなかわいそうだ。本当にかわいそうだ。どんな苦しみも得ないで欲しい」って思ってる人が、もうちょっと智慧が深まると、「さあ、カルマを落とせ」と(笑)。「それによって苦しめ」と。「それによって君は智慧を得るだろう」っていう本当のもうちょっと高度な愛になるんだね。
でもその辺のインドの人がそれを得ているとは思えない(笑)。だから何が正しくて、何が優れているかって非常に難しいんだね。
例えばキリスト教の場合、あまりカルマっていうのを知らない。で、表面的な愛の実践をいっぱいする。貧しい人とか病気の人とかにいろんな世話をしたりする。
でもこの人と今Pさんが言ったインド人を比べたら、絶対キリスト教の人の方が優れてます。キリスト教の人はカルマの法則っていう智慧を知らないけども、少なくとも実質的に相手に愛の実践をしてる。この前者っていうのはそうじゃなくて、知識的にカルマとかを知ってるけども、実際は単純に――さっきの言い方をすれば、エゴの方が神の意思に勝ってるんだね。本当に自分がそこでやらなきゃいけないことや考えなきゃいけないことよりも、知性というものを逆利用して、エゴによって物事を見てしまっているっていうか。
ちょっと今の話ってすごく重要な話だけども、微妙なっていうか複雑な話なんだけどね。
だから教えっていうのはそういう意味で深まりがあるんです。深まりがあるから、例えば同じことを発したとしても、そのAとBが同じことを言っていたとしても、その理解の度合いによって正しいか、正しくないか全然違ってくる。
つまり、ものすごい優秀な素晴らしい慈愛を持った聖者が「あれはカルマだから苦しめ」って言う場合もある。でもそうじゃなくて、本当に単純にエゴによって言ってる場合もある。
でももう一回言うけども、第一段階としてわれわれは、どんなものに対してもやっぱり慈悲の心を持たなきゃいけないね。当たり前だけどね。つまり、だから四無量心だね。
四無量心っていうのは簡単に言うと――人の幸福を願いましょうと。人が苦しんでたら、もうそれを見てられないぐらいの慈悲を持ちましょうと。人がもし素晴らしい要素を持っていたら、それを称賛しましょうと。そして自分の苦しみや喜びはどうでもいいですよと。こういう教えなんだね。つまりカルマだから。
だから――それが一つの根本になるね。自分のことはどうでもいいと。でも人が苦しんでたらいろんな形で手助けしてあげなきゃいけない。
で、その手助けのレベルが上がっていくんです。そういうことができないうちに――つまり高度な相手のカルマを見切れないし、あるいはその高度な手助けもできないのに、低いレベルの愛とかさえも実践しないようでは全く駄目なわけだね。
ちょっとこの話は非常に難しいとこでもあるので、みなさんもぜひ考えてみたらいいと思うね。
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