◎ただ過ぎ去っていく
◎ただ過ぎ去っていく
【本文】
『感覚を喜ばせる対象や、行為の結果から心を離し、
すべての欲望を捨て去ったとき、その人はヨーガの完成者であるといわれる。』
はい。これは読んだとおりですね。感覚を喜ばせる対象、それから行為の結果。そういったものにまったく心をとらわれることなくすべての欲望を捨て去ると。逆に言うと日々これはわれわれが注意しなくてはいけない点だね。
入菩提行論とかでいうと念正智という世界ですが、例えばさ、短い間その境地を保つっていうのは当然あり得ることなんだね。例えば感覚を喜ばせる対象が、今別に何にも心に浮かんでませんと。それから一生懸命何かやっていてそれに対して、別に結果がどうであれ気にしませんと。これは短い間だったら誰でもできるわけだね。
でも日々人生を送りながらいろいろな刺激がやってくる。いろいろな刺激がやってきても一切感覚の対象に心が奪われることなく、――あるいはつまりさ、人生っていうのはカルマに応じて良いことも悪いこともいっぱいやってくるんです、普通にね(笑)。われわれが望もうと望むまいと幸せはやってくるし、望もうと望むまいと苦しいことはやってくる。で、人間っていうかわれわれの失敗っていうのは、幸せがやってきて、で、それはまた消えるんだけど、やってきたことに執着してしまう。で、それはもう消えているんだけど、「ああ、もっと欲しい」とか「ああ、消えないでくれ」って苦悩が始まります。
次に、苦しみがやってくるのも、これは過去のカルマだからしょうがない。で、苦しみがやってきたらもう消えるんだけど、消えたのに、「ああ、おれは何であんなことがあったんだ」とか後悔したり(笑)、あるいはその過去にそういった苦しみを経験したことによってそのものに対する凄い嫌悪感が強まる。で、必要以上にそれを心の中で嫌がってしまうとか、こういう心のとらわれが始まるんだね。 だから悟った人、つまり少なくとも精神的な悟りを得た人っていうのはカルマから解放されているのかっていうと、物理的にはまだ解放されていないんです。物理的にはっていうのは例えば、過去世とかあるいは昔ね、人を馬鹿にしたとしますよ。馬鹿にしてこれがまだ返ってきてないとしたら、この人は――例えば私が悟っていたとしても、私は馬鹿にされなくてはいけないんです、これから誰かに。でも精神的に苦楽とかあるいは「こうしたい、こうされたくない」というものから自分の心が解脱していたら、カルマとしてはやってくるんだけど、ただそれは当たり前のように過ぎ去っていく。ああ、馬鹿にされた。ああ、そうですかと(笑)。あるいは褒められた。ああ、そうですかと(笑)。こんなふうにただ過ぎ去っていく。
◎気を抜くととらわれる
だからカルマっていうのは原因があって条件が――つまり自分が過去になんらかの原因を作って、それが条件に応じてバーッと現われますよと。でも現れたものは当然持続できない。持続せずに消えていきますよと。そしたらまた次の条件に応じて次の因がバーッて現れますよと。ただこれだけなんだね。この繰り返しがバーッてわれわれの人生にやってくる。で、ここに書かれているように一つ一つの感覚的喜び、これにわれわれはとらわれたりあるいは感覚的苦しみに嫌悪したりしていると、どんどんどんどんわれわれはこのカルマが織り成す輪廻の幻影の世界に巻き込まれていきます。だから真のヨーギーっていうのは、生きていていろんな感覚的喜びや苦しみがあるだろうけれども、一切とらわれるなと。
あるいはいろんな、例えば成功と失敗とかもそうだし感覚的喜びもそうなんだけど、気を抜くととらわれるんです。気を抜くととらわれるっていうのは、前もした話だけどもう一回言うけどね、インドのふんどし一枚しかもっていなかったヨーガ修行者の話があって、その人はもう本当に物にとらわれがなくて、自分でも物にとらわれないようにしようと考えていてふんどし一枚しか所有物はなかった。でもある時そのふんどしをねずみに咬まれてボロボロになってしまった。で、そこで男は考えてたわけですね。ああ、予備も必要だなと。だからふんどし二枚持っておこうと。まあそれくらいは執着にならないだろうと。で、ふんどし二枚持っていた。でもまたねずみがやってきた。そこで男は、修行者は猫を飼おうと思った。ねずみ退治のために(笑)。よし、猫を飼おうと。猫を飼い始めた。猫を飼い始めたら――ちょっとここから先はおとぎ話的な話なんだけど、猫を飼い始めたら餌が必要になったのでミルクを買い始めた。でもいつもミルクを買ってくるのが大変なので牛を飼い始めた(笑)。で、牛を世話するのが大変なので召使を雇い始めた(笑)。で、牛がいっぱい子供を産んで世話するのが大変だったので土地を買って牧場を作った。で、ハッと気づいたら、ふんどし一枚しか持っていなかった男が牧場の主になっていたと(笑)。
つまりこの人は最初から牧場の主になるぞと思っていたわけではない。最初は本当にもう謙虚に質素にすべてに執着しないぞって思っていたんだけど、ああ、やっぱ二枚くらい必要かなとか(笑)、猫飼うかなとかそういう感じで心がだんだんだんだん巻き込まれていったんだね。
だからこれと同じで例えば日々ね、何の執着もない、今の時点で執着がない人がいたとしても、例えばそれは――いつも言うけどさ、例えばお金がなくてね、何も持っていない人がいたとしますよ。この人は聖者なのかっていう問題がある(笑)。単に金ないだけだろうと(笑)。別に執着していないから何も持っていないんじゃなくて、単に金がなくて持っていないと。でも例えば何も持っていないから、あるいは何も執着するものがないから、あまり心の煩わしさとかはないと。でも例えばその人が何かで大金を手にして何かを得たと。例えば家を買ったとかあるいは自分の好きな何かを買ったと。そこで執着が生まれます。で、それが奪われそうになったら悲しみます。でもよく考えたら最初からなかっただろうと(笑)。なかったのにカルマによって現われた――で、それはまたカルマによって消えるかもしれないんだけど、とらわれちゃうんだね、人間てね。
とらわれなかったらただカルマが――ああ、過ぎ去りましたねと。ああ、私は一時的にこういう現象があってこれを得るカルマがあったけど、カルマが終わってそれが私から去っていきましたねと。それは宇宙の原則どおりですねと。何の問題もありません。――だったらいいんだけど、こういうことを頭でわれわれが理解していたとしても、心がとらわれてしまうんだね。何も無かったら何も無いでよかったのに、何かを得てしまったらそれにとらわれると。
◎浄化のための人生
成功と失敗も同じで――普段ね、「ああ、私は成功にも失敗にも何も結果にはこだわりませんよ」って生きている人がいたとして、で、普通にいろんなことにそうやって心掛けていたとしても、例えばそれぞれ自分の心の煩悩とか性格とか違うから、自分の心をくすぐるようなことがバーッてやってきたときに、「え! これは成功したい」とか「こうなったら嫌だ」とか「絶対こうならなくてはいけない」とか始まるわけです。で、それに付随して周りの現象とかも、「いや、これを達成するためにはこれがこうなってくれないと困る」とか、「いや、こういうふうに見られたら困るからこうしよう」とか、だんだんだんだん凝り固まってくるわけだね(笑)。で、自分の心が完全にこの輪廻に結び付けられる。
よってヨーギーというのは、そういったわれわれを結びつける罠がうじゃうじゃあるこの現世を堂々と歩きながら、まったく何にもとらわれない状態でありなさいと。そうではなくて、そういったうじゃうじゃ生じてくるのが嫌だから私は逃げますというのは駄目なんだと。
というよりも逃げることはできないんだと。
どんなところにいっても――例えば、いや私は出家しますといってお寺に入ったとしたら今度はお寺での人間関係が始まります。すべてはカルマだから、例えば誰かに馬鹿にされるっていうカルマがあったとしたら、その人が会社を辞めて次の会社にいったとしても馬鹿にされます。ああ、それもやめようといってお寺に入っても馬鹿にされます(笑)。
必ずその因があるわけだね。因が消えるまではその人の――つまりその因っていうのは何かっていうと、その人が今生で乗り越えなくてはならない課題なわけだね。それを経験してその中で心の訓練を行なって、また一つ成長できるかもしれない。もちろんこれは良い場合だけどね。修行者の場合。
修行者じゃない場合は――修行者じゃない場合っていうか悪いパターンの場合は、悪いカルマがやってきて例えば馬鹿にされたと。馬鹿にされることによって相手に対する憎しみが強まってより相手を馬鹿にする。馬鹿にするっていうか、より相手に対してネガティブな思いを抱くと。それによってまた将来より自分も周りから憎しみを受けると。またこのカルマの輪の中に入っていくわけだけど。
修行者の場合は、ヨーギーの場合はそうじゃなくて、そういった一つ一つの過去の自分のカルマっていうのを経験して、それを浄化すると。ちょっと変な言い方をすれば、自分が過去に多くの人に与えたネガティブな――憎しみとか執着とか疑いとか、そういうものを清算するためにこの人生はあるといってもいい。その清算する過程において、自分のそれに関する心っていうのが悟りを得ていくっていうか浄化されていくんだね。そのために人生があるって考えるのがカルマ・ヨーガ的な考え方だね。
だからそうではなくて、そのための人生なのに、一つ一つの自分を浄化する手段であるはずのいろいろなカルマの現れに対してとらわれたり嫌がったりしていると、それはヨーギーではないんだということだね。
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