yoga school kailas

◎すべては神の導き

◎すべては神の導き

【本文】
『偉大なる勇者よ! 人はヨーガを行なわずにただ放棄しようとしても、なかなかできるものではない。
ヨーガを実践した聖者は、速やかに至高者のもとへと到達する。』

 はい。まあこれも同じですね。さっきも言ったように、つまり教えに基づいて、心を動かさず――ちょっと噛み砕いていうとね、心を動かさず、神の使命、もしくは自分に与えられた使命をただ淡々と実行する。その中でさまざまに起きてくる心の乱れや、あるいはいろんなカルマの現象を乗り越えつつ、心を平静にもっていくと。このような修行をヨーガっていうわけですが、そういうことはやらずに、ただ人里離れ、放棄、放棄といっても、なかなかそんなことは達成できませんよと。しかし、自分の――ちょっと噛み砕いていうとね、自分に生ずる――まあこれはみなさん修行者だからよくわかると思う――まあ結局ねえ、われわれが何に心を向けるかによって人生の動きは大きく変わります。われわれがこの世の欲望を追い求めたいって思ったら、そっちの方向でカルマは動き出すし、そうではなくて、われわれが本当に神に至りたいとか、悟りを得たいとか、まあそこまでいかなくても漠然と、何か正しい生き方をしたいなとか、そういうことを思い出すと、本当にその人が本質的な幸福、本質的な悟りに近づくように、いろんな現象が動き出すんです。つまりそれは、いいことだったり悪いことだったりするんだけど、その人を鍛えるための、その人を浄化し、覚醒へ導くための、いろんなことが起こり出して、いろんなことをやらなければいけなくなる。で、それを素直に全て受け入れて、しかもその中でまったく心を動かさずに、淡々と、その、それを神の意思と感じて生きることができれば、一番速やかに達成しますよと。しかしそういうことを全部無視して、逃げて、一人になりたいといって、ただ「いや、私は全て捨ててるんです」「捨ててるんです」ってやってると、それでも行けないことはないが、相当時間はかかりますよと。
 これについてみなさんどう思いますか。じゃあ、どう思う――まあどう思うでもいいし、それはなぜだと思いますか。
 じゃあ、Kさん、それはなぜだと思いますか。ちょっと難しい(笑)。

(K)人里離れたところで一人でいること――質問は、みんなの中で……。

 まあ、みんなの中でっていうよりも、いろいろ起きてくる現象をね、つまり修行――まず、第一番――第一前提として、修行を志してるっていうのが前提だけど、志した上で、そこで生じてくる全ての現象を、全ては神が私を導いてくれる現象であると受け止めて、一切それから逃げることなく、修行としてそれをとらえ、そこで何にも心を動かさずに、やるべきことをやる実践をするパターンと、じゃなくて、全てを放棄、放棄といって、現象から全て逃げて、一人になって、何にも触れない実践。この両者は、後者も悪くはないんだが、後者の方が相当時間がかかる。これはなぜかっていう問題だね(笑)。

(K)神が与えてくれた、カルマ落としのチャンスだから。

 そうだね。それは一つだね。うん。

◎教え、ヨーガ修行、実生活

 つまり、自分のことっていうのは自分では全く分かってなくて、結局修行者が失敗するパターンていうのは、観念で修行を捉えようとした場合、失敗するんだね。
 だから、そういう意味でも本当は、師匠が必要なんです。師匠の役割っていうのは、前も言ったけど、追い込んであげることなんだね。エゴを追い込んであげる。教えをただ与えることが役割ではなくて、つまり例えば、教えっていうのがあって、で、エゴっていうやつは非常に巧妙なので、教えを逆利用して何とかエゴの破壊から逃れようとするんです(笑)。
 で、その人っていうのは自分は修行してるんだっていう気持ちの中で、実はエゴを守ってる場合が非常に多い。
 そうじゃなくて、純粋な心が、神に対する純粋な心があると、自分に起きてきた現象を、逃げないと。全部それを受け止めて、修行としてやると。こういう姿勢ができてると、いろんな嫌なこともやってくる、あるいは、執着しそうなこともいろいろある、でもその中でも一切に、いいことにも執着せず、嫌なことにも嫌悪せず、なすべきことをなすと。
 もちろん別にわざわざいろんなことを探す必要はないよ。よし、おれはカルマ・ヨーガやるぞと。ちょっと、じゃあなんか今――例えばCちゃんが今仕事してないっていう素晴らしい状況にあるけど、これは神から与えられたプレゼントだと。でも、カルマ・ヨーガやりたいから仕事しよっかなあっていうのは考える必要がない(笑)。それはね。
 そうではなくて、いやおうなく、例えばEさんみたいに、働きたくないんだけど働かないといけない(笑)。もう、もちろん将来的にね、修行だけに没頭するような状況を目指すならいいことなんだけど、目指したいんだけど今いろんなことやんなきゃいけない状況があると。これはこれでもう神の愛として一〇〇パーセント肯定するんです。肯定して、そん中で生きると。
 そうすると、当然、実際、これは本当のことなんだけども、本当に、そういうことを目指している人には、その人を浄化するようなプログラムが人生に発生します。で、それに一切言い訳を入れずに、淡々と乗り越えようとする人は、それはもう一番その人を自動的に浄化するプログラムだから、速いんだね。
 でも自分の観念で、修行というのはこういうもんだって考えて、本当はプログラムがいっぱい来てるのに、それから逃げて、頭の中の修行の世界っていうのを一人で作りあげてやってると、本来は、まあ今Kさんが言ったようにカルマ落としもそうだし、単純なカルマ落としっていうことだけじゃなくて、自分の考え方を変えるチャンスとか、あるいは見解を変えるチャンスとか、いろいろ自動的に本当はやってきてるんだね。やってきてるのを全部シャットアウトするから、時間がかかるんです、非常にね。
 それでも、何度も言うけど、できないことはないよ。できないことはないけど、すごく時間がかかるっていうことだね。だからカルマ・ヨーガっていうのは、そういう意味では非常に大乗的なヨーガともいえる。一切のことから逃げない。
 ただしもちろんベースとしては、これはラーマクリシュナもいってるけども、実際にわれわれがそういうようなことをやる前には、ある程度自分の信仰心とか、あるいは修行に対する強い思いっていうのは確立されてないといけないんだね。これはラーマクリシュナの例えでいうと、「手に油を塗ってからジャックフルーツの皮をむけ」とかね。ジャックフルーツってベタベタするらしいんだね(笑)。
 だから自分で準備をしてないで、カルマ・ヨーガだっていっても、単にいろんなカルマに巻き込まれて、ボロボロになるだけかもしれない。
 だから私いつも言うように、現代においてはね、やっぱ三本柱が必要だと思います。三本柱っていうのは、まず徹底的に教えを学ぶこと。
 そして、二番目が、肉体的なアーサナやプラーナーヤーマも含めた、瞑想も含めた、修行――つまりその、形のあるヨーガ修行、仏教も含めてね。
 三つ目が、日常生活のカルマ・ヨーガ。この三つがしっかり合わされば無敵です。
 つまり教えっていうのはしっかりあって、でも教えというのは、なかなかその通り生きるのは難しい。実践できてたと自分で思ってても、現実生活で全然できてなかったりする。
 で、この教えを、現実的に実践しやすくするのがヨーガなんです。
 つまり肉体とエネルギーと心というのは密接に関係があるので、ま、みなさんも経験あると思うけど、ヨーガとかやって、あるいは呼吸法とか瞑想とかした後っていうのは、例えばいつもだったらうだうだと考えてしまうことが、すごくすっきりとして、「あ、神の意思だ」って思えたりするかもしれない。そうすると、例えば教えがあって、このように生きなさいっていうのがあって、でも生きられないよっていう日常生活があったんだけど、ヨーガ修行をしっかりやってると、ちょっとはできるんです。前はできなかったことが、例えば「ああ、この上司は嫌だ」と。この上司を愛することなんて全然できないって思ってたのが、ヨーガ修行やってたら、ちょっとはできるようになる。愛するとまではいわないが、まあ憎まないまではできる――っていう感じでだんだん進んでくんだね。
 でもこの三つのどれかが欠けると、まず教えが欠けると、そもそもどうやったらいいか分かんない。教え、ヨーガ修行、実生活のうち、教えが欠けると、ヨーガ修行やってるから前よりは何か心が解放されてくる。心が解放されてきて、前よりは何か生き生きとしてるんだけど、どうやって生きたらいいかよく分かんないから、生き生きとしたまま、悪いことやっちゃうかもしれない。生き生きとして人の悪口言ったりとか(笑)、こうなってしまうんだね。
 で、逆にヨーガ修行がないと、さっきも言ったように、教えはあって、それを実践しようとしてるんだけど、なかなかうまくいかない。なかなか自分の殻を超られない。
 で、逆にその三番目の実生活の訓練っていう気持ちがないと、ヨーガ修行やって、教えを学んで、で、できるだけ誰とも接さない――ま、それは最初の段階ではいいんだけど、それやってると、さっきも言ったように、自分の殻の中の修行になるんだね。ある程度まではいいんだけど。
 じゃあ、この条件のときはどうでしょうか。あなたの慈愛は、座ってるときにみんなの幸福を願えるまではいきましたが、じゃあ、誰かに馬鹿にされたときその人の幸福を願えますかと。これを試すには、馬鹿にしてくれる人が必要なんです。これは、馬鹿にしてくれる人が現われて初めて、「あ、私は馬鹿にされると、大丈夫だと思っていたけど、こんなに心が動くんだ」と。「じゃあ、次に馬鹿にされた時には、心を動かさないように、訓練しよう」と。こういうことができるんだね。これによって、こう、鍛えられていく。よって、実際の生活も必要だと。
 この三つがちゃんと回って、やっとカルマ・ヨーガが成り立つっていう感じがするね。

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