解説「菩薩の生き方」第十一回(7)
はい。このあとは、ずーっと懺悔をしてるわけだね。はい、そしてまあ、さっき言ったのと同じように、「私の罪が滅びない間に、にわかに死が私に到来しないように願う」と。つまり、さっき言ったことと同じね。つまり自分が修行によって全力で浄化しきれないうちに死が来ちゃったら、もうこれは最悪の状況になるかもしれない。だからこれは「死が到来しないように願う」って書いてあるけども、逆に言うならば、死が到来しないうちに絶対に修行を成就させるぞと。そういう強い心持ちが必要だっていうことですね。
「この死は、我々がことをなし終わったか否かをかえりみない。確信をもってわれらを滅ぼす。それは、健康なると否とによって当てにしがたい。大電撃のように突然に我々を襲う。」
これもわかるね。いつも言ってるように、われわれが生まれて、どうなるか、決まってることは一つしかありません。死ぬってことです。われわれが生まれて、仕事に成功するかどうかとか、結婚するかどうかとか、あるいは幸せになるかどうか、それは決まっていない。まあ運命学とかあるけども、あれも一つの――修行しない人にとっては決まってるけどね。でも修行者にとっては決まっていない。しかし、修行者であろうが修行者でなかろうが、誰であろうが、お金持ちであろうが貧乏人であろうが、決まってるのは、最後は死ぬっていうことです。これは確定している。
しかもそれは「健康なると否とによって当てにしがたい」って書いてあるけど、つまり普通は、病気のときは「病気になった――ああ、死ぬのかもな」っと。そして健康のときは「わたしは今健康だからまだ死は先だな」って思うかもしれないけど、それは社会、世間を見れば、そうじゃないことはわかるよね。これもいつも言ってるように、ポックリ逝くなんてのは普通にあるし、あるいは事故死も普通にあるし。で、現代はもう情報化社会だからさ、芸能人にしろスポーツマンにしろ、あるいはいろんな一般の人にしろさ、いろんなかたちでの死をわれわれは情報として知ってるよね。ああ、誰々が急に――ある有名人が車に轢かれて死にましたと。ある人が急病で死にましたと。さまざまなかたちで、瞬間的に死がやって来ると。これもまた現実として、自分に言い聞かせなきゃいけない。
だから、まとめるよ。――これは、チベット仏教の基本修行としてもよく教えるわけだけど。繰り返すよ。まずカルマの法則が厳然としてあると。カルマの法則自体が絶対的にこの世を支配してる。そしてわれわれは、過去・過去世において大変な悪業を積んできたと。で、その結果としてわたしは多くの心のけがれも持っていると。よって、今死んだらまずいと。われわれは、なぜかラッキーによって、あるいは過去世からの、素晴らしい聖者社会で修行してきたその恩恵によって、今この、本当に稀な幸運として人間の体を得て、ダルマの修行をする機会に巡り合えているが、しかし、今死んだらちょっとまずいぞと。しかも、死は絶対来る。そしていつ来るかわからない。この、いつ来るかわかんなくて、今死んだらまずくて(笑)、しかし、修行を達成しさえすればすべてがハッピーに終わる――この状況を与えられたら、もう、やるしかないよね(笑)。全力で修行するしかないでしょと。ここに必ず帰結するんだね。これがこのパートの教えですね。
だからこれは、今日言った話をちゃんと心に考えながらね、このパートをしっかりまた繰り返し読んだりして、徹底的に自分にその心がまえを根付かせたらいいと思うね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第十一回(6) -
次の記事
解説「菩薩の生き方」第十二回(1)