解説「菩薩の生き方」第六回(3)
実際は、お釈迦様の教えにも、そういう教えがある。お釈迦様の教えで、まあ、その前提の教えとしてね、まずここにある男がいて、その男が、縛り付けられ、朝に百回、槍で突かれる。体をね。昼に百回、槍で突かれる。夜に百回、槍で突かれる。で、これをひたすら、何十年も続けて、やられてね、で、もしそれによって、そのあと真理を悟れるんだったら、それはやるべきだって言ってるんだね。つまりこれは、いつも言ってるけども、例えば比較の問題なんだけどね。例えば皆さんがこの世で安楽に生き、今の日本人みたいに、非常に、夏も涼しい、冬も暖かく、おいしいものをいつも食べ、周りにも仲のいい、心を許せる友達がいて、あるいは恋人がいて、子供もいて、非常に幸せな人生を送れましたと。あまり悩みはありませんでしたと。病気にもあまりかかりませんでしたと。でも真理には出合えませんでした――この人生よりは、朝昼晩と槍で刺され続けると。死なない程度に刺され続けると。朝昼晩と苦しみ、激痛が襲うと。これを十年、二十年、三十年続けられて、そして最後に真理を悟る――この人生があったならば、当然後者を選ぶべきだっていうんだね。でもこれは、前提の話なんです。つまり真理っていうものがそれくらい、何を犠牲にしても、それだけはつかまなきゃいけないものなんだと。だから今言ったように、朝昼晩と体を血だらけにされて、槍で刺され続けても、つかむべきものなんだが――っていう前提ですよ、まず。しかし、その上で言うけども、このわたしの道、つまり仏陀がお説きになった道は、一向楽の道だっていうんだね。つまりこの道をしっかり正しくやったならば、そんな苦しみもいらないと。つまり喜びが増大し続ける道なんだと言ってらっしゃるんだね。
お釈迦様の原始仏教っていうのは――いつも言うように、実際には、今、普通に、原始的なね、初期仏教として宣伝されてる上座部仏教、テーラワーダっていうのは、あれは原始仏教ではありません。つまり原始仏教の全体像を、ある時期の――上座っていうのは、テーラっていうのは、長老っていう意味なんだね。つまり上座部、テーラワーダっていうのは、長老部、あるいは長老論者っていうかな、長老の教えみたいな意味があるんですね。だからある時代の、長老といわれた、仏教原理主義の人たちが、お釈迦様の教えを解釈してまとめた教えがテーラワーダ。それは解釈だから、実際にはそうじゃないかもしれない。彼らが言ってるのはそうじゃないかもしれない。まあ、これはもちろんあんまり突っ込まないけども、わたしははっきり言ってそうじゃないと思ってる。そうじゃないと思ってるっていうのは何を言ってるかっていうと、今テーラワーダの人たちがまとめてる「これがお釈迦様の教えだ」っていうものとは、実際は違うと思う。本当のお釈迦様の教えは。
で、それは随所にあるんですね。経典では非常にシンプルに書かれてるので、なかなか、なんていうかな、細かく――例えば、前も言ったけどさ、お釈迦様の経典の中で、こういうのがある。例えば、「われわれのカルマによってけがれた心によって、あるいはけがれたその行ないによって、われわれの心を、けがれたヴェールが覆っている」と。で、「これをはがされたときに、光り輝く心があるんだ」っていう言い方をしてるんだね。これは原始仏典に書かれてる。これはのちの大乗仏教の、そうですね、如来蔵思想や、あるいは密教的な世界に非常に近い。あるいはヒンドゥー教にももちろん近いね。つまりわれわれの心の本性は、光り輝く純粋な心があるんだ。それを輝き出させなさい、みたいな言い方をしてる。今の上座部仏教的な人たちは、あまりそういうことは言わない。あるいは大乗仏教でも、ちょっと頭の固い人たちは、そういうことを言わないんです。つまりお釈迦様は、心の本性があるとか言ってないっていう言い方をする。で、そっちの方向でまとめようとしてるんだけど。でもそういうふうに言ってるのは確実にある。
あるいは、大乗仏教ではもちろん空っていう教えがあるわけですけども、そんなのはお釈迦様は説かなかったって一部の人たちは言うわけだけど、そんなことはない。原始仏教には空っていう言葉がいっぱい出てきます。そこが突っ込まれてないだけであってね。一切は空であるっていう教えはたくさんある。じゃあ空とはなんなんだっていうのが突っ込まれてないので、それをのちの人がいろんなふうに解釈したわけですけども。
で、菩薩道的な教え、大乗的な教えも実際はたくさんあるんだね。それが、非常にシンプルな、言葉がちょっとまだ足りない状態でポンポンポンと置かれているので、それがまあ、あるものは無視され、あるものはちょっと解釈もいろんなかたちでされて、ちょっと封印されてるようなところがある。
でもわたしは個人的には、いろんな人の解釈ではなくて、残ってる原始仏典とかをいろいろ見る限りにおいてはね、やはりお釈迦様っていうのは、かなり幅広い教えのエッセンスを説いていて、その中には非常に大乗的なものとかあるし、あるいは密教的なものがあるし、ヨーガ的なものもある。ヨーガ的なもので言うとさ、前も言ったけど、面白いのが――まあ、これも皆さん読んだことあるかもしれないけど、『ブラーフマナ』っていう経典があるんですね。ブラーフマナってヒンドゥー教の、つまり祭司のことをブラーフマナっていうんだけど、『ブラーフマナ』っていうタイトルの経典がある。これはもちろん仏教っていうのはヒンドゥー教とちょっと対立してたようなところがあったから、のちの人たちはひたすらヒンドゥー教を攻撃するわけだけど、ここで別にお釈迦様はそのブラーフマナ――まあヒンドゥー教っていうかその当時はバラモン教ですね。バラモン教のことを否定してるわけじゃない。そこでお釈迦様が言ってるのは、「真のブラーフマナとは」っていう教えを説くんだね。つまり今のブラーフマナは駄目だと。昔のブラーフマナは、純粋な生活をしていたと。しかし途中から、ブラーフマナたちは権力と結び付き、王様の機嫌を取っていっぱいお布施をもらうために、法を捻じ曲げ、こういう悪いことをし始めたと。自分の慢心に取り憑かれ始めたと。それでは駄目なんだと。真のブラーフマナとはこういうふうに生きなきゃいけない、みたいに説いてるんだね。うん。あるいはヴェーダっていうのも説いてます(笑)。「真のヴェーダとは」みたいな感じで説いてるんだね。「真のヴェーダとは」みたいな感じで、つまりヴェーダっていうのは、非常に儀式的なものや、観念的な本に縛り付けられるのがヴェーダではないと。古の本当のヴェーダとはこうなんだ、みたいな言い方で説いてる。だからお釈迦様っていうのは、当たり前だけども、別に、非常に凝り固まった宗派主義的な人だったわけじゃなくて、普遍の真理を発見した人だから。で、それを、いろんなエッセンスで、対機説法でいろんな人に対して説いてるんだね。だから当然、多分説かれる側の資質によって、ある教えは大乗的だったり、ある教えは密教的だったり、で、ある教えは、いわゆるところの仏教的っていうかな、ジュニャーナヨーガ的だったりするわけですね。
はい。で、ちょっと話を戻すけども、そのお釈迦様が言ってる一向楽っていう教え、あるいは、まあ菩薩道を思わせるような教えがあるわけですけども、つまりこの教え――つまり菩提心的な教え、あるいは大乗的な教えっていうのは、まさに、どんどん修行すればするほど、楽が増大する、至福が増大する、心が豊かになる教えなんだね。もちろんその途中においての苦しみっていうのは当然あるよ。いろんなステージ、ステージにおいて、自分を浄化するためにいろんな苦しみがやって来るかもしれない。でもそのたびに、乗り越えるたびに、より自分の世界が大きくなるから、そのあとに生じる喜びとか、至福とか、あるいは心のキャパシティーっていうのは、どんどん広がっていくわけですね。で、これが、もう一回言うけども、なんていうかな、最後のときまで続く。これが菩薩道の道なんだっていうことですね。
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