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解説「王のための四十のドーハー」第一回(6)

【本文】

指で目を押すと、愚か者は
一つの灯りを二つだと見るように
見るものと見られるものは分けられないのに
二つのものとして現われる

 はい。これはまず、まあ、分かるよね。こうやってこう、指で目玉を押すと――子供のころやったか分かんないけど、二重に見える(笑)。ね。で、これはもちろん普通の人は、「ああ、なんかこれで焦点がずれて二つに見えるんだ」って分かるかもしれないけど、愚か者、つまりここでいう愚か者って、知能的にちょっと劣ってる者っていう意味ですね。知能が低い者は、例えば誰かにやられたり自分でやっちゃって、自分で偶然目を押したときに、二つに見える。そうするとそれが本当に二つだと思ってしまう。「ああ、二つある!」と。例えば誰かがいたずらして、「おーい」とかこうやって、で、目の前に、例えばTさんが立っていた。「Tさんが二人になった!」と、ね(笑)、愚か者は思うと。で、それと同じように、「見るものと見られるものは分けられないのに 二つのものとして現われる。」
 つまり、「見るものと見られないもの」っていうのは、主体と客体、わたしとあなた。つまりわたしとわたし以外。ここからすべての無智が始まるんだね。つまり、わたしがいて、周りがいる。そしてその周りに対して、執着したり、嫌悪したりする。実際はわたしもあなたもないんだね。本質的にはすべて分けることができない。しかし便宜上っていうか、さっきの、海に立ったさざ波のように、いろんなカルマやいろんな条件によって、つまりちょうど目を押したときのように、便宜上、わたしと周りが分けられてるように見える。それを、無智な者のように信じてしまう。つまりそれはただ目を押しただけなんだよと。ね。
 だって皆さん、普通にそういう人がいたら言うでしょう。目を誰かに押されて、「Tさんが二人いる! 二人いる!」って言ってる人に対して、「落ち着け!」と。それは目を押したことによる、単なる、焦点がずれたことによる物理的現象だと。Tさんは一人しかいないんだと。でもその愚かな人は信じないかもしれない。「何言ってるの、二人いるじゃないか」と。「君まで僕をだますのか」と。ね(笑)。だからそれは懇々と教えてやらなきゃいけないわけだけど。でも、われわれはそれは理解できる。つまりそれはただ目を押しただけだと。二つに見えてるけども、見えてることが正しいとは限らないんだと。目の錯覚っていうのは存在するんだと。
 子供のときさ、よく本とかで、目の錯覚とかよくあったよね。これとこれは同じ長さなんだけど、こういうふうに書くとこっちの方が長く見えるとか、いろいろあったよね(笑)。でもそれもわれわれは理解できるでしょ。あ、なるほど、そういう理屈――まあ理屈が分かるかどうかは別にして、視覚っていうのは絶対的なものじゃなくて、そういう錯覚現象があるんだなと。だからこれはほんとはこれとこれは同じ長さなんだなって分かるかもしれない。でも無智な者は分からない。誰が何を言っても、「いや、こっちの方が長いじゃないですか」と。それと同じように、われわれはある条件下において、「わたし」と「周り」っていうものを意識している。しかしそれは、ほんとじゃないんだよ、カルマやさまざまな条件によって現われた錯覚なんだよ、っていうことを理解しなきゃいけないんだね。で、それを、智慧ある者は理解できるんです。智慧ある者は理解して生きる。
 智慧ある者だって、この世に生きる以上は、一応は「わたし」と「あなた」っていうのを持ってるでしょ。一番いい例では、完全な悟りを得たお釈迦様だってもちろんそうでしょ。だってお釈迦様は、現われて、みんなに教えを説くわけです。「さあ、わたしは君たちに説こう」って言ってるわけです。ここで完全に「わたし」と「君たち」に分かれてる。ね。でもそれをお釈迦様はもちろん、目を押したときのようなもんだっていうのが分かってるんです。便宜上わたしとあなたがいるが、これは便宜上であると。本当はなんの変わりもないんだが、でも、便宜上、今、わたしがお釈迦様、ゴータマとして現われてるわたしが、君たちに教えを説こう、というかたちを取る。でも実際は、わたしもあなたもすべて変わりないっていうのは分かっている。
 でもわれわれは分かってないんです。完全に、自分は自分、そして自分以外のものがあるっていう見方で固定して見てる。固定して見るとどうなりますか?――そこから、執着と嫌悪が生じます。つまり固定して見てなかったら、執着と嫌悪は生じないんです。だってその対象がないから(笑)。つまりわたしがいてあなたがいるっていうこと自体が、一応便宜上そういうのが現われてるけどほんとはこれはないんだよって理解してたら、ほんとにないものに対して執着したり嫌悪したりはしない。でもわれわれは目の前に現われてる他人をほんとに存在してると思ってるから、それに執着したり嫌悪したりする。この主体と客体が全く分けられないんだっていうことに気付かない。で、実体視してしまう。これがここに書かれてることだね、一つはね。
 はい。じゃあ、またちょっと瞑想してみましょう。このテーマに関してね。

指で目を押すと、愚か者は
一つの灯りを二つだと見るように
見るものと見られるものは分けられないのに
二つのものとして現われる

(瞑想)

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