解説「ラーマクリシュナの福音」第二回(2)
シュリー・ラーマクリシュナ「さて、おまえは形のある神を信じるのか、それとも形のない神を信じるのか。」
Mはたいそう驚き、心に思った。人は、形のある神を信じているときにどうして形のない神を信じることができよう。この二つの相矛盾する考えが同時に成り立つだろうか。ミルクのような白い液体が黒くあり得るのか。
M「師よ、わたしは神を無形だと考えるのが好きでございます。」
シュリー・ラーマクリシュナ「非常に結構だ。どちらの面からでも、信仰を持っていれば十分だ。おまえは形のない神を信じている。それで結構だよ。しかし、たとえ一瞬の間でも、これだけが本当で他は全部嘘だ、などと考えてはいけない。形のある神も形のない神と全く同じように本物だ、ということを覚えておいで。ただしおまえ自身の信念は固く守るようにしなさい。」
両方が同等に真理である、という主張はMをびっくりさせた。彼は、書物からは決してこれを学んだことがなかったのである。このようにして、彼のエゴは三つ目の打撃を被った。しかしそれはまだ完全にはつぶされていなかったので、彼はもう少し師と議論をしようと進み出た。
はい、この三つ目の打撃――まあこの『ラーマクリシュナの福音』全体が、とても素晴らしい教えの宝庫なわけだけども、特に一番最初のこの話っていうのは、とても多くの示唆を我々に与えてくれるね。
この部分っていうのは、まずね、背景として、インドというのは、皆さんも知ってのとおり、多くの宗教や文化の、まあ源といってもいい。特にアジアの、まあアジアだけじゃないんだけど、特にアジアの多くの文化、芸術、宗教、まあ武術とかも含めてね――の多くがインドから発生している。で、そこから例えばチベット、中国、あるいは東南アジアに行ったり、で、それらを伝わって日本にも多くのものが伝わって来てる。で、そういう意味でね、宗教っていう意味でも、あるいは哲学っていう意味でも、インドにおいては無数の、まあ例えば神に対する考え方、あるいは真理とかこの世界に対する考え方が無数にあったわけだね。で、ここでいってるのは、神――ここでいう神っていうのはつまり宇宙の本質、絶対神ですね。ちょっとわれわれより高い、天界にいる神とかじゃなくて、絶対なる完全なる本質――これをどうとらえるかっていう問題ね。で、ここにおいて、大ざっぱにいうと二つの考え方があるわけですね。つまり、形ある神がいらっしゃるんだと。つまりこの宇宙の本質には、顔形、姿を持った、例えばクリシュナ、シヴァといった、まあ名前はいろいろあるけども、その形ある存在がいらっしゃって、われわれを導いてくださってるんだっていう考え。で、もう一つは、ね、これはまあ仏教とかが代表ですけども、いや、この宇宙の本質の本質は空性なんだと。ね。それは形はないと。それは言葉も超えている、言葉や概念を一切超えている、なんの形もない、空なる本性がこの宇宙の本質なんだっていう考え方がある。大きく分けるとね。はい、そして、大きく分けるとその二つがあるわけだけども、「その二つのうちでおまえはどちらが好きか」というようなことを言われるわけですね。で、まあおそらく非常に知的だったMは、「一切は空である」「一切は、この宇宙の本質っていうのは無形であり、なんの概念や言葉でもとらえることができないっていう方を、わたしは好んでいます」というふうに答えるわけだね。
で、それに対してラーマクリシュナが、「非常に結構だ。どちらの面からでも信仰を持っていれば十分だ。おまえは形のない神を信じている。それで結構だよ。しかし、たとえ一瞬の間でも、これだけが本当で他は全部嘘だ、などと考えてはいけない。形のある神も形のない神と全く同じように本物だ、ということを覚えておいで。ただしおまえ自身の信念は固く守るようにしなさい。」と。
この言葉っていうのは、ここの勉強会を何度も聞いてる人はもう理解できるかもしれない。「いや、そんなことはよく聞いてることだな」と。「ああ、なるほど。それはよく分かってますよ」ってみんな言うかもしれないけど、この当時、この時点においては画期的な言葉だったんです。こんなことを言う人は誰もいなかったんだね。みんな、それぞれの自分の宗派の主張に一生懸命で、こちらの教えは正しい、でもあっちは間違ってる――まあ例えば、神っていうのはそんな実体なんてないんですよ、と。あっちの宗派では、なんかこの神は三つの目があって手が四つあってとか言ってるけど、あんなの全部間違いだ、とかね。あるいはまあ逆の攻撃をしたりとか。つまり当然どちらかを正しいと言えば、当然どちらかを間違いと考えるわけだね、普通はね。でもラーマクリシュナは「おまえはそれでオッケー」と。「しかし、それ以外のものは間違いだとは考えてはいけない」と。普通に頭で考えたら、「え? 何言ってるの?」っていうようなことをラーマクリシュナが言いだしたわけだね。だからちょっとここはMは混乱に陥るわけだね。
まあ、混乱に陥ると同時に、また打撃を受ける。つまり自分が知的な、まあ、とても高い理解をしてると思ってたんだけど、それは認めてもらったんだけども、でもそれだけが間違いではないと。ほかも正しいんだと。
もう一回言うけども、ここで何回も勉強会に出てる人は、ある程度それは理解できるかもしれないけど、普通に考えたらこれは変なことなんです。「これとこれ、どっちが正しいんですか?」ね。「おまえの信じてるの正しいよ。でもこっちも正しいよ」と。で、それがね、真逆だった場合ね。「神というのは形があるのか、形がないのか」って言われて、「おまえ、形のない神を信じてるのか。それは正しいぞ。でも形あるのも正しいんだよ」って言われたら、「え? それどっち?」って。つまり真逆なことなわけだから。でもこれは、ここに来てる人は分かると思うけども、どっちも正しいんです。どっちも神の、なんていうかな、一面にすぎないっていうかな。で、この会話によって、またラーマクリシュナは打撃を与えて、Mの固い見解をぶっ壊してるわけだね。
これはね、現代においても当然、われわれも――われわれもっていうか修行者たちが、ちゃんと肝に銘じなきゃいけないところではある。これはまあ、よくチベット仏教とかでも、われわれがね、過ちを犯す一つの要因として、宗派主義に陥ってはいけないっていう話があるんだね。宗派主義。つまり、何か例えば一つの宗派に入ったりすると、当然、なんていうかな、その宗派とか、その師のある傾向を持った教えをいっぱい学ぶことになるわけですね。っていうのは、その方がスピードは早いから。例えば、ある師についたり、ある宗派に入ったら、例えばAとBということをすごく強調して、CとDはあまり強調しないかもしれない。でもほかの宗派に入ったら、今度は逆にCとDの方を強調して、AとBは軽く言うかもしれない。で、そのどっちが正しいんだって言われた場合、「いや、どっちも正しいんですよ」と。でもこっちの宗派に入ってる人は、その流れで行くんだったら、そのAとBを強調する方向性でひたすら貫かなきゃいけないんだね。そうじゃないと非常に、なんていうかな、無駄が生じてしまうっていうか。だからおまえがAとBの道を行くのは、それは素晴らしいと。でも、だからといって、この宗派で強調してないCとDの方を軽蔑したり、それが間違ってると考えたりしてはいけないと。これはよく、チベット仏教とかでも注意されることだね。でも注意されてるけど、実際――まあ仏教系の人って結構論争好きだから、実際には歴史上はそういった宗派間の論争とかいっぱい行なわれてきたわけだけど――まあヒンドゥー教もそうですけどね――行なわれてきたわけだけど、それは非常に無駄なことであって、そういうふうに論争してはいけない。
はい、そして――「ただし、おまえ自身の信念は固く守るようにしなさい。」これも大事ですよ。柔軟な発想を持てといっても、あっちこっちに目が向いていたら、それは全く進まないと。これはだからいつも言うようにさ、富士山の頂上に行こうとした場合、ルートはたくさんあるわけですね。で、例えば自分が山梨側から進んでたとして、静岡側から進んだ友達をね、「おまえは過ちだ」と。ね(笑)。「富士山の頂上には山梨から行かなきゃいけないじゃん!」って言ったとしたら、それは非常に誤っているよね。「いや、山梨からの道もあるんだ」っていうのは理解しなきゃいけない。でも逆に、「おお、山梨もいいな」って言って山梨の方に行って(笑)、「まあ静岡もいいかな」ってまた戻って来たりしてたら、全く進まないよね、その人はね(笑)。それは分かるよね。だから山梨からのルート、あるいはその他いろんなさまざまな細かいルートは認めた上で、「しかしわたしはこのルートを行きましょう」という姿勢が必要なんだね。
はい。で、「ここで打撃を被った。しかしまだ完全にはつぶされていない」――まあつまり逆に言うと、完全にはまだラーマクリシュナが言ってることを理解できてなかったんだね。それまでは、つまりラーマクリシュナが現われる前までの知的哲学においては、こっちもあっちもほんとだよ、なんていう、そんな包含的な包括的な教えを聞いたことがなかった。よって、まだちょっと無智が残ってしまった。それでさらに会話が続くわけだね。
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