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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(1)

2009年2月18日

解説「ミラレーパの十万歌」第二回

 はい。今日は『ミラレーパの十万歌』。この『ミラレーパの十万歌』は――皆さんよく知ってるミラレーパの生涯の話のメインストーリーは『ミラレーパの生涯』という別の作品があるわけですが、これはそのミラレーパが残した多くの素晴らしい悟りの歌ね、それを中心とした、まあ、さまざまな物語をまとめたものですね。
 で、これは、なんていうかな、読むだけで瞑想になるとも言われる。つまりこれはいわゆるドーハーと言われるものの一つで、ミラレーパが悟りの境地を――つまり例えばね、学者っていうのは、矛盾がないように、「AとBがあってCがある」みたいな感じで、論理的に矛盾がなくまとめていくわけだけど、じゃなくてもう心に浮かんだそのままにダイレクトに悟りを表現するような歌をね、ドーハーっていうわけですが、ミラレーパはその第一人者であったわけですね。で、そのドーハー的な歌が中心になってるので、それを読むだけでも瞑想になるとまで言われるものです。
 だから本来はこれは、あまり解説しすぎない方がいいんだね、ほんとはね。つまりあまり論理的に考えすぎると間違うというか。だから皆さんが修行をして、まあ何度も何度もね、繰り返し修行の節目節目で読むとね、皆さんの修行の進度に従って、深い意味が読み取れるかもしれません。
 ただまあ、全く、なんていうかな、ほとんど意味が分からないとそれはそれでまた利益がないので(笑)、サラッと最低限のね、意味を勉強するようなかたちで今日は読んでいきましょう。
 はい。で、この『ミラレーパの十万歌』はいくつかのパートに分かれていて、まずパート1っていうのは、ミラレーパと悪魔の戦いというかな。つまりミラレーパっていうのはたくさん悪魔と対決するシーンがあるわけですが、そういったものをまとめたものです。
 これはですね、ミラレーパというよりも、これは皆さんもよく知ってるグル・リンポチェ、パドマサンバヴァとかの話でもそうですが、もともとチベットっていうのは魔の国だったんだね。なぜ魔の国だったかっていうと、まあそれはチベット自体がもともと――昔のチベットね、古代のチベットは、大変野蛮な国だったって言われてる。非常に野蛮で、まあ例えば動物とかももちろんたくさん殺すし、それだけじゃなくて、近隣のね、諸国を武力によって制圧してたっていうかな。だからすごい古代においてはチベットってすごい広い領土を持っていた。で、それは武力によって広げていったんだね。つまりまあ言ってみれば、ね、多くの殺生や暴力によって領土を広げ、あるいは生活を成り立たせてた部分がある。だからそういう意味でいったら、今チベットが中国に攻め込まれ、まあほとんど支配されてしまってるのも、カルマと言えばカルマなのかもしれない、それはね。で、そのような、仏教がチベットに入る前のカルマによって、チベットっていうのは魔に覆われていた。で、それから仏教が入るわけだけど、最初に魔を制圧したのはさっき言ったパドマサンバヴァね。グル・リンポチェっていう、この人はインドの大聖者ですが、この方がチベットにおいて多くの魔と戦って、魔を仏教の手下に変えた。で、これによって仏教っていうものがチベットに根付き始めたと言われています。
 で、それによってチベット人はもう完全にその性格を変えたんだね。性格っていうか、民族としての方向性を変えたんです。こういう例は非常に珍しいと言われています。世界の歴史の中でね。つまりそれまで戦闘的な民族だったのが、仏教によって虫も殺さないような民族に変わってしまった。これはとても偉大なことだね。で、そういう最初の仕事をパドマサンバヴァがやったんだけど、もちろんそれで完全に魔がいなくなったわけではくて、チベットのあちこちに魔的な存在っていうのはたくさんいたと。で、ミラレーパもそういったものと戦って、まあ、あるときは戦い、あるときはしっかりと自分の弟子にしたりしてね、魔を制圧していったっていう部分があります。で、その魔との戦い、魔との遭遇のエピソードをまとめたのがこのパート1のところですね。

【本文】

ミラレーパの十万歌

第二話 ラシへの旅

 グルに帰依いたします。

 「宝石の谷」の隠れ家にとどまっていたあるとき、偉大なヨーガの成就者、ジェツン・ミラレーパは、こう考えました。

「わたしはグルの指示に従い、ラシの雪山に行き、瞑想しなければならない。」

 ラシの雪山への入り口であるニャノンツァルマに近づいた時、そこの人々は飲み会を行なっていました。その中のある者が言いました。

「当世に、ミラレーパという偉大なヨーギーがいるのを知っているか? 彼はいつも人里離れた雪山に一人住み、完全な仏教徒以外は誰も達成できないような難行を行なっている。彼について聞いたことはあるか?」

 彼らがこのようにジェツンを称賛しているとき、ミラレーパはその戸口にやってきました。
 豪華な装身具で身を飾ったレセブムという美しい少女が、挨拶をして尋ねました。
「あなたは誰で、どこから来たのですか?」
 ミラレーパは答えました。
「娘さん。わたしはいつも山の中の誰も知らないところに住んでいる、ヨーギー・ミラレーパです。物乞いに来ました。」
「わたしは喜んで、何か差し上げましょう。しかしあなたは本当にミラレーパなのですか?」
「あなたに嘘などをつく必要が、どうしてありましょう。」

 はい。ミラレーパという方は、何度も言うように、チベットで最も人気のある聖者といってもいい。宗派を超えてね。普通、宗派がいろいろあって、まあ、うちの宗派のこの人が一番とか言うわけだけど、でもミラレーパに関しては宗派を超えて非常に人気がある。で、実際現代においてもね、例えばわれわれも――まあこの中にもミラレーパが好きな人いるだろうけど、こういう物語を読んで非常に鼓舞されたり、あるいは教えを読んで非常にメリットがあったりするわけですが。
 ミラレーパっていう方はもちろん密教、特に大乗仏教を背景とした密教の聖者なんで、その詩の中にもいっぱい出てくるけど、もちろん衆生救済、つまり人々を救うために存在してるっていうかな、それは基本としてあるわけだね。ただ、人々を救うときのパターンっていうのはいろいろあるわけです。実際問題として。例えばお釈迦様のパターンっていうのはまあ一番分かりやすい。つまりインド中を――まあそのころはね、列車とか車とかなかったから、インド中を徒歩で歩き回って教えを説くと。これがお釈迦様の救済方法だったわけだね。で、全く別のパターンもある。それがこのミラレーパみたいな感じで、つまりミラレーパはひたすら瞑想をするんです。これは、インドの例えばヒマーラヤにこもってるヨーギーもそういう人たちがいる。そうですね、インドでヒマーラヤにこもってるヨーギーっていうのはいくつかパターンがある。もちろんね、全く、なんていうかな、真面目に修行してない人もいる。まあそれはちょっと置いといて、ヒマーラヤとかで真面目に修行してるパターンの場合、あるパターンは、もう世の中のことは関係ないと。ただ自分だけの悟りを求めて修行してる、そういう人ももちろんいる。で、もう一つのパターンっていうのは、そうじゃなくて、世を救いたいと思ってる。で、そのために自分が修行するんだって思ってる。つまり自分がひたすら聖なる境地を高めてね、そのパワーっていうかな、エネルギーというか、心の働きによってこの地球にいい影響を与えようって考えるタイプの人がいるんだね。で、ミラレーパはまさにそのタイプだったんだね。つまり積極的に世に出ていって法を説くというよりは、ひたすら修行する。ひたすら瞑想する。
 で、それによってミラレーパがなした世の中への貢献っていうのは、二つあるわけだね。一つは今言ったように、ミラレーパが別に何もしなくても、ミラレーパの存在自体がこの地球を浄化するっていうかな。それが一つです。で、もう一つは、さっきも言ったように、結果的に長い間にわたってミラレーパの存在が修行者を励ましてる。つまりあの時代にミラレーパっていう人がいて、素晴らしい歌をいっぱい残して、で、人生を通して修行し続けた。この素晴らしい生き方、それから教え自体が――まあ今のわれわれだってそうでしょ。われわれもミラレーパの本読んで、「すげえな」と思って(笑)、「おれも修行しなきゃ」ってこう思う。こういうことが、もう何百年もなされてきた。つまりそれだけの救済を実際に行なってるわけだね。
 で、ミラレーパがそのような道を選んだのは、もちろんグル・マルパの指示だったんです。つまりグル・マルパっていうのは――まあミラレーパがその一番弟子だったんだけど、ミラレーパも含めた四大弟子っていうのがいたんだね。で、その四大弟子にそれぞれ別の指示を与えるんですね。で、例えばミラレーパの次ぐらいに偉大な弟子だったゴクパっていう人がいるんですけど、このゴクパに関しはマルパはね、「生涯説法しろ」っていう指示を与えるんだね。つまり、「おまえはひたすら説法しろ」と。で、「法を説け」と。で、ミラレーパに関しては、「おまえはひたすら洞窟に行って瞑想しろ」と。で、その洞窟の指示までするんだね。「この洞窟とこの洞窟とこの洞窟に行け」と。つまりミラレーパにとっては、もちろん、「わたしは人々のために尽くしたい」と思ってるわけだけど、どのようにして尽くすのかは、まさにグルの指示がすべてなんです。つまりグル・マルパが「洞窟に行け」と言ったから、しかも指定までしてね(笑)、「ラシの洞窟に行け」「次はこの洞窟に行け」とか言ったから、「それが衆生へのわたしの奉仕だ」と考えて、ただひたすらそれを行なってるんだね。これがまあミラレーパの生き方だった。
 だからこれは、なんていうかな、一つのカルマヨーガだね。一つのその自分の使命に徹してるっていうか。だからもちろんわれわれにとっても、ストレートにそれは真似はできない。つまりカルマが違うから。われわれもミラレーパみたいに洞窟にこもればいいのかっていうと――まあその使命の人も中にはいるかもしれないよ。ね(笑)。いるかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。だからそれは自分の使命に当てはめればいいわけだけど、ミラレーパはそのタイプだったんだね。
 全くそれと対称的なのがヴィヴェーカーナンダね。ヴィヴェーカーナンダはもう全然対称的。つまり完全に社会に出ていって、もうひたすら、なんていうかな、現実的な救済を行なう。現実的に教えを説き、あるいは現実的に例えば病気の人や貧しい人のためにも働く。そういうタイプの人がヴィヴェーカーナンダだった。だからこれは、何度も言うけど使命なんで、「これがわたしの使命だ」って感じたらそれに徹すればいい。そこでね、違うタイプの人を否定しては駄目だよ。よく違うタイプの人を批判する人がいる。例えば社会奉仕に使命を見出す。それはそれでもちろん素晴らしいんだけど、違うタイプを批判するわけだね。「あんな瞑想ばっかりしててもしょうがない」と。あるいはその逆のパターンもあるね。「瞑想に専念して、わたしは世界にいい影響を与えるんだ」と。で、それはそれでもちろん自分の使命に徹すればいいわけだけど、そうじゃない例えば社会活動をしてる人を非常に批判するとかね。つまり人の使命っていうかな、人のやってることは批判しちゃいけない。それはそれぞれのやるべき道があるわけだから。でも自分の使命が「これだ」って思ったら、それにしっかりと全力で徹するべきだね。
 はい。で、何度も言うけど、ミラレーパの場合は洞窟にこもる、そしてひたすら瞑想する――それが使命であった。そしてそれはグルの意思だった、指示だったっていうことですね。
 はい。で、この物語はまずそのミラレーパがね、まあちょっと托鉢に行くわけだね。たまに食事を乞いに行くと。で、そのときにちょうどそこに集まってた人々がミラレーパの噂話をしてた。そしたらそこに本人が現われたっていうところですね、ここはね。はい。

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