リアル
人間の人生のほとんどは、妄想だ。
それは、未来への期待と恐怖、そして過去への後悔と思い出という妄想だ。
たとえば明日、苦手な人と会う予定があるとする。
ここで一日、憂鬱になる。
そして実際に会って、実はけっこう楽しかったとしたら、どうだろうか。
この丸一日の憂鬱はなんだったんだ?・・ということになる。全く無駄な一日を過ごしてしまったのだ!
逆に、本当に嫌な感じで、悪口とかを言われたとしたらどうだろうか?
しかし、仮にそうなったとしても、たとえば悪口を言われている時間というのは、数秒か、せいぜい数分だろう。
別にその前の丸一日の憂鬱な時間は、必要ないのだ。
そしてこの人はその後、数日間、嫌な気持ちになるかもしれない。
ああ、会わなければ良かった、とか後悔するかもしれない。
しかしそれも必要ない。必要ないのに人は引きずる。
そして二日くらい引きずったと考えたら・・・この人が苦手な人と実際に一緒にいた時間がたとえば一時間、嫌なことを言われた時間が数分だったとしても、それ以外の前後丸々三日間、その人は実体のない妄想の中で苦しまなければいけないのだ!
次に、喜びについても考えてみよう。
明日、恋人とデートの予定があるとする。
ここで一日、うきうきする。
しかし実際は、何かトラブルがあったりケンカをしたりして、つまらないかもしれない。最悪の日になるかもしれない。
逆に、本当に楽しかったとしたらどうだろうか?
しかしその楽しい時間というのは、数時間かもしれない。そしてその中で実際にその喜びを感じている瞬間は、もっと少ないかもしれない。
そしてこの人はその後もしばらくの間、その良い思い出に浸ることだろう。
つまりこの「デート」がもたらす喜びは、前後数日間続くわけだけど、そのほとんどは、妄想、イメージの喜びなのだ。
そしてその思い出のリピートを求めて、また新たな欲求を起こすことだろう。
この後者の喜びについては、別に良いことではないか、と思うかもしれない。
確かに、苦しみの妄想に浸るよりは良いことかもしれない。
しかしね、もっと素晴らしいことがあるんだよ。
それは、常にリアルに浸りきるということだ。
上記の例で言うなら、嫌な人に悪口を言われているリアルな苦痛の時間は、数秒とか数分間だ。
あるいは、恋人と楽しい言葉を交わすリアルな幸福の時間は、数分とか数時間だろう。
我々の人生のリアルな苦楽は、そんな短いものなのか?
そうじゃない。瞬間瞬間、わたしたちの前にはリアルな、輝かしい、新鮮な世界が現われ続けているのだ。
だから妄想を捨て、期待や恐怖を捨て、後悔や思い出にふけることを捨て、瞬間瞬間をリアルに味わい続けるんだ。
苦しいことがあったら、そのリアルな苦しみの感覚を味わえばいい。しかし次の瞬間には、別の世界が現われているんだから、スパッと捨て去ればいい。
幸福な時は、リアルにそれを味わえばいい。しかし引きずっちゃいけない。次の瞬間にはまた別の輝かしい世界が現われるのだから。前のものを引きずると、それは腐っていくし、多くの新鮮な輝きを見逃すことになる。
朝起きると、世界がある。素晴らしいことじゃないか! 太陽が出ている。なんて素晴らしいんだ(笑)! 雨ならばそれもまた素晴らしい。
一人でいても、誰かといても、瞬間瞬間、世界は移り変わっていく。そのリアルな感覚を、瞬間瞬間味わう。リアルに生きる。
そのようにしたならば、世界がその本当の姿を現すことだろう。
ただしその前には、この未来や過去の幸不幸に対する自分の「とらわれ」をつぶさなきゃいけないね。
仏教やヨーガで「執着を捨てろ」とかいうのは、実はそういう意味でもあると思います。
執着なく瞬間瞬間をリアルに生きるならば、そのリアルな苦楽は、かなり心地よいんだね。
しかし妄想に慣れ、弱弱しくなった心には、このリアルな輝きは、強すぎると感じる。まぶしすぎるんだね。だから人は妄想に逃げる。
だから突然には無理だ。少しずつ、いろいろなヨーガ等の方法で、心を強くし、とらわれを排除していく必要がある。
そして徐々にでも、リアルな世界に没入していこう。
まあしかし実際は、それをするには、現代の日本の生活は忙しすぎる。
だから毎日少しでも時間を設けて、様々な修行や瞑想に励み、自己や宇宙の本質を見つめるべきですね。
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