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「2011年ホーリーマザー生誕祭より」(4)

◎水晶と波のたとえ

(質問者A)さっきおっしゃっていたのを聞き逃しちゃったんですけど、宇宙の・・・・・・は透明な水晶で、その中で波が現われるっていうのがあって……もう一回言ってください……

 それはよく出るたとえで――まあ透明な水晶と波はまた違う話なんだけど――透明な水晶っていうのは、つまりここに水晶球があるとしてね、透明であると。で、そこに、例えばその前にですよ、赤い布が置かれたら、水晶が赤く染まってるように見えるんだね。あるいはそこで何かが動いたりしたら、例えば蛙とかが動いたりしたら、水晶の中に蛙がいるように見える。で、ここで問題は――ちょっと智慧を使ってくださいね――何を言おうとしてるのかっていうと、水晶の前に赤い布を置いたら、水晶が赤く見えましたと。これは事実ですよね? 青い布を置いたら、青く見えました。事実ですよね? 事実だけども、水晶自体は全然変わってないでしょ? 
 これのもう一つのたとえとして、ちょっと分かりにくいんだけど鏡のたとえもある。鏡ね。われわれが鏡の前に立ったら、顔が見えると。あるいは鏡に何か景色を映したら景色が見えましたと。それを部屋にしまったら、景色は見えなくなりましたと。でも水晶にしろ鏡にしろ、それを前に何か置いて見えてたときも、それをのけて見えなくなったときも、全く変わってないんです。この水晶の透明性とかあるいは鏡の透明性っていうのは全く変わってない。ただ透明なだけなんだね。これがだから動いてないっていう意味で。
 つまりわれわれの本質である真我とかあるいは宇宙の主っていうのは、よくいわれるように、宇宙の創造が始まり、ぐわーっと形を変えて何かが動いてるんじゃなくて、形を変えてるように見えてるだけであって、その本質的な本体である水晶とか鏡とかっていうのは、全く変わってない。鏡の方がわかりやすいのかもしれないね。鏡の前に何かが映ろうが映るまいが、鏡の透明性は変わってない。鏡の透明性が変わるとしたら、鏡にマジックで書いたりとかね(笑)、あるいは鏡を汚したりとか、あるいは鏡を壊したりとか、この場合は鏡が変わったっていえるけども、そうじゃないんだね。このたとえにおける鏡っていうのは、決して汚れない。本当に純粋な鏡であって、で、そこに何かが映ってるに過ぎないんだっていう話だね。これが一つだね。
 で、海と波のたとえっていうのは、これは至高者と母なる神のことをあらわしてる話なんだね。アシュターヴァクラ・ギーターとかにもよくそういう例えが出てきますが――波というのは、ただの水でしかないと。よく考えたらね。波っていう曖昧な概念によって、例えば波ってイメージするとしたらさ、ザッパーン!――ね(笑)。例えばだけどね(笑)。こう波打ち際とかだったら、ザッパーン!と。あるいは海の上だったら、こうぐにゃぐにゃっていう感じだね。いろいろあるよね、波のイメージがね。あるいは浜辺だったら、ざーっ……とかいろいろあるよね(笑)。しかしそれって全部海でしょ? あるいは水であると。いってみればね。で、海自体は変わってるわけじゃないよね。ニュースにならないでしょ? 例えば、「海が波になりました!」とか言わないよね(笑)。何て言うかな、波も含めて海だから、ね。海が波になったとかは言わないんだね。しかし波だけに注目した場合は、ちょっと分離したような感じで、「ああ、波ですね」みたいな感じになるわけだけど。でも海なんだね。
 あるいは別のたとえで、これも素晴らしいたとえとして、いろんな綺麗な布があったとしても、それはただの糸に過ぎない、というのがあるね。綺麗な布があってね、いろんな模様が描いてあると。で、布の正体は、糸なんだね。糸が縒りあわされるだけであると。普通の布の場合ね。この糸自体が例えば至高者だとした場合ね、この糸自体は何ら性質が変わってるわけではない。その糸の組み合わせ方とかによって、そこにいろんな絵が描かれてるように見えたりとかしてるだけであって、でもそのようなものができる前もできた後も、あるいはそれが壊された後も、糸は糸であると。
 まあこれはたとえに過ぎないけどね。これは言葉にすると矛盾が生じるので、たとえで言うしかないんだけども、つまり全く不変である、さっきから言ってるように。不変っていうことは――いいですか?――時を超えてるんです。あの、『時』って何ですか? 時間って変化ですからね。「時間とは変化である」と定義することができる。だって変化しなかったら時間っていえないでしょ? 全くすべてが同じものが連続するとしたら、それは時間っていえないよね。何かが変化して、その変化してるものを時間といってるに過ぎない。
 で、空間も超えてる。つまり自分と他人とか、あれとこれとかがあるから空間があるんだけど、あれもこれもなくすべてが一つだとしたら――このあいだも言ったけど、一つっていう表現も実は合ってないんです。一つって言ったってことは空間を前提としてるからね。でも一つですらない。もう空間もない。でもこの辺は仏教でいうと「空無辺」とかね、あるいは「識無辺」とか、あの辺に通じて来るんですけども。空間も超え、時間も超え、何だと定義することのできない至高なる存在と。
 ――でも宇宙の母っていうのはそうじゃないんです。時間そのものなんです。宇宙の母は変化の源なんだね。われわれに創造を与え、維持を与え、破壊を与える。あるいは空間を与える。あるいはわれわれの心の成熟や堕落や、あるいはさまざまな変化を与えると。これが宇宙の母なんだね。この変化の源である宇宙の母と、完全なる不変である至高者っていうのは一つであると。これが非常に言葉では矛盾する話なんだね。
 もう一回言うよ。相対性を超えたものと相対的なものが一つであると。「どういうこと?」って話ですよね(笑)? 意味が分かんないと(笑)。そう、意味分かんないんです、言葉でいったらね。ここでもサーラダー・デーヴィーが、「推理で神を悟れません」って言ってる。確かにそうなんだね。このような人間的な推理では限界があるんです。これはこうだね、これはこうだね……え? でも究極を追求しちゃうと、「どういうこと?」ってなっちゃうんだね。これはもう論理を超えた方法で悟るしかない。論理を超えた方法の一つは、例えばクンダリニーを使った場合クンダリニーヨーガになるし、あるいは精神集中を使った場合はラージャヨーガになるわけだけど、でも多くの近代的な聖者が推奨してるのは、やはりバクティヨーガなんだね。つまり神への愛、しかもそれは忘我の愛ね。自分を完全に投げ出した愛によってしか、その論理の限界を超えたところは悟れませんよと。
 もちろんね、論理で悟る方法もあるよ。それはジュニャーナヨーガなんだけど。ただこれはいつも言ってるように、ジュニャーナヨーガっていうのは哲学的な普通にいわれるような哲学の追求の果てにあるんじゃないんです、実は。それは皆さん論理的には分かるでしょ? つまり今言ったような、一元と二元の融合とかね、これは論理でははかれないんです。
 ちょっとこれも長くならないように簡単にだけ言うけども、何回か言ってるけど、論理って何ですかって言った場合、データの材料の積み上げですよね。あるいはデータの材料の組立てですよね。このデータの材料が問題なんです。つまりわれわれが普通に生きてきた二元的な頭で、あるいは本を読んで入れただけの材料を組み立てたって、二元の世界から脱出した超えた答えは出てこないんです。よってこのジュニャーナヨーガの前提として必要なのは、ある意味直観智っていうか、つまり情報によらない―――ある意味もうそれそのものが悟りみたいな感じなんだけどね――悟りのデータっていうか、悟りのブロックみたいのが必要なんだね。ブロックっていうのは情報っていうか。それを元に組立てるんです。
 それを元に組立てた話っていうのは、例えばですよ、わたしがね――これは深い瞑想、サマーディじゃなきゃできません。サマーディに入って、その世界で組立てたとするよ。組立てて、覚えて記憶して戻ってきてみんなに話しても、多分全くわけ分かりません。わけ分かんないっていうのは、難しくてわけ分かんないっていうよりは、この世で言葉にしてしまうと全く、「それがどうしたの?」っていうことになってしまうんだね。
 例えば仮として言うよ、仮として言うならば、「悟りとは、戸部駅に夜中に行って電車に乗り遅れることである」とかね(笑)。これ例えばですよ。でも本当にこういう話になっちゃうんです。
 Y君が何か聞いてきて、「うーん……一番近いこと言うよ」と。「夜中に戸部駅に行って乗り遅れる!」って(笑)、わけ分かんないよね。「なるほどなるほど! ちょっと分かる気がします」っていう感じもしないでしょ(笑)、全く。でもそんな感じなんです。完全にこの世の論理に戻ってしまうと、常軌を逸してしまうっていうか、組立てられなくなっちゃうんだね。
 そもそも何でかっていうと、もともとジュニャーナヨーガで使っている情報のデータの粒が違うんです。違うものを使ってるんだね。それを無理やりっていうか、体裁を整えて降ろそうとすると、ちょっとずれるんです。言葉としてはかっこよくなるんだけどね。言葉としては格好良く「いや、真理とは・・・・・・」みたいになるんだけども、結構それは、ずれてるんです。どんな聖者が言った言葉もずれてます。それはしょうがないんだね。だから―――ちょっと話が広がってるけども、本当の意味での、本当の大聖者が言ってる言葉っていうのは、あれはすべて方便なんです。方便っていうのは、その言葉自体に真理があるんじゃなくて、導く言葉なんです。この導く言葉を言える人こそ聖者なんです。
 だってもう一回言うけども、客観的真理っていうのは言葉では表わせない。だから導く言葉を言うしかないんだね。だから耳に心地よい格好いい言葉が真理なんではない。導く言葉なんだね。ただ変なことばっかり言ってると信用されないから(笑)、一応格好いいことも言うわけだけど、ただラーマクリシュナとかっていうのはまさにその最たる代表者みたいな感じだね。言ってることは結構支離滅裂なときもあるし、一般的な聖者的な態度はとらないわけだけど。しかし彼の言葉っていうのは、まさに導きの言葉っていうかな。
 わたしはみなさんにいつも言ってるように、シャーンティデーヴァの言葉とかもそうだし、あるいは『バガヴァット・ギーター』とかもそうだけど、あるいはここでみなさんに提供しているような本も大体そういうのなんだね。哲学的に優れてるっていうよりは、それを読むことによって皆さんが、頭で理解できるのかどうかは別にして、心が真実に近づいていくような言葉だね。
 はい、大分話がずれましたが(笑)、ぐーっと話を戻すと(笑)、純粋なる何の相もない普遍なる存在と、この宇宙を作り出す母なる神の相対的エネルギー。この相反する二つのものは実は一つであると。これは宇宙の真理なんだね。それを悟るには、現代において最もいい方法がバクティヨーガであるということですね。いいですか?

(質問者A)はい、ありがとうございました。

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