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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第9回(2)

◎愛欲の落とし穴

 はい。じゃあ今日の勉強会に入りますが、今日は『スートラ・サムッチャヤ』の続きね。何度も言ってますが、これは『入菩提行論』のシャーンティデーヴァ、シャーンティデーヴァが、経典からの引用っていうかたちで仏教の全体像をまとめたものですね。で、その、細かく膨大にまとめたのが『シクシャー・サムッチャヤ』。じゃなくて簡潔に短くまとめたのがこの『スートラ・サムッチャヤ』ですね。

【本文】

◎愛欲の落とし穴

 ウダヤナヴァットサラージャパリプリッチャー(日子王所問経)には、こう説かれている。

「ここに愛欲にとらわれ、女を溺愛している人がいる。彼は戒を守る出家修行者やブラーフマナを支持しない。こうして彼は戒を守る者から離れるから、信仰や戒や出家や、法を聞くことや、智慧を巡らして法を理解することが損なわれ、能力が低下する。
 彼は不潔なものを過度に好み、卑猥なことにふける。異性に対する大きな愛欲にふけることは、正しい道から遠ざからせ、さまよわせる。謙虚さは奪われ、精神的な目は損なわれる。
 賢者や他の人々に非難されても悪口を言われても、彼は平気である。彼は罠に陥って、女性にコントロールされ、吐き出した物や、唾や鼻汁や、膿や悪臭を放つ物のような、吐き気を催すような物を好む。
 好色に加えて、彼は日常においても動物のような行動をし、人々に迷惑をかける。
 両親や出家修行者や解脱者を無視し、ブッダ・ダルマ・サンガに対する信仰が衰える。 
 そして彼は死後、地獄や動物界に落ちる。彼は獣や鳥の姿となって地獄に生まれ、激しい苦しみを経験する。
 これらの苦悩は、恋愛とか、女性に対するとらわれとか、異性とともに愛欲に溺れて笑ったり、喜んだり、楽しんだり、歌ったり、踊ったり、さまざまな快楽をむさぼった結果である。」

 はい。「愛欲の落とし穴」。ここで書かれてるのは、つまり邪淫といわれる戒律に関する戒めなわけだけども、もちろんここは男の修行者を中心に書いてるので「女を」って表現になってるわけですが、女性の場合はもちろん男性になるわけですね。もちろん同性愛者の場合は同性になるわけですけども。つまり愛欲の対象のことですね。
 で、ここでちょっと考えなきゃいけないのは、この『スートラ・サムッチャヤ』にしろ、『シクシャー・サムッチャヤ』にしろ、まあどちらかというとっていうよりは、基本的に出家修行者向けなんです。ね。基本的に出家修行者向けの――まあもしくは、出家してなくても、今生で解脱、悟り、あるいは仏陀の境地を目指す者のための経典だと、基本的には考えてください。
 だから皆さんも分かると思いますが、例えば邪淫っていった場合、柔らかいっていうかな、やさしい邪淫と、それから厳しい邪淫があるんだね。やさしい邪淫っていうのは、そこまで目指していない、つまり別に今生解脱したいとか、悟りたいとか、そこまでは思っていないと。ただ道から外れずに法を実践していきたいって思ってる人のための邪淫の教えっていうのは、これは簡単に言うと、浮気をしない、不倫をしないと。
 もうちょっと詳しく言うとね、じゃあこの柔らかい邪淫から考えてみると、柔らかい邪淫、不邪淫っていうのは何かっていうと――もともとですよ、もともとこの仏教というのも、あるいはこの――シャーンティデーヴァが説いてるのは大乗仏教の世界ですが、大乗仏教とかは特にヒンドゥー教、あるいはバラモン教といわれる、インドのもともとのダルマの価値観をもちろんベースにしています。で、このインドのもともとの仏教やヒンドゥー教に共通するダルマの価値観から言うとですよ、まず夫婦というのは、当然愛欲を貪り合う対象であってはいけないんですね。それは縁によって――まあ昔のインドっていうのは、いろんな伝記とか読めば分かると思うけど、大体非常に若いうちに――特に女性とかは、非常に若いうちに結婚相手を親が決めるんですね。まあ昔の日本とかもそうかもしれないけど。つまり縁によって、まさに家族みたいな感じで夫婦がセッティングされて――まあ何回も言ってるけど、近代まで多分そうだったと思うんだけど、例えば『あるヨギの自叙伝』とかにも、ヨガナンダの妹がある男性と結婚するときに、男性が初めてヨガナンダの妹のことを見たらしいんだね。で、ヨガナンダの妹ってすごい痩せてたらしくて、インドではふくよかな方が美人って言われるから、痩せてたのを見て、その旦那さんががっかりしちゃったらしいんだね。「ああ、うちの嫁、こんなんだった」と。で、そこでヨガナンダが、目で、「御愁傷様」みたいな感じで(笑)、やって、あっちも「ああ、こんなんか」みたいな感じで返してきたって話が載ってるけども(笑)。でもそれはそれで受け入れてるんだね、普通にね。「ああうちの嫁こんなんでしたか。しょうがねえな」って感じで。で、まあその旦那さんは一生懸命その奥さんを太らす努力をしたって話があるんだけど(笑)。
 もともとそういう感じでね、つまりその――「じゃあそれ、なんで結婚するんですか?」っていうと、まあつまり子孫を絶やさないため。ね。もちろん解脱の教えからいうと子孫なんていらないんだけども、一応在家のダルマからいうと、子孫を絶やさないっていうのは一つのダルマなんだね。だからその、在家で別に解脱を目指さないっていう人の場合は、自分の義務として、家族を持って、子供を産んで、その子供を、またね、聖なる教えによって育てると。これがその家族のダルマなんだね。でも逆に言ってしまうと、夫婦関係っていうのはそのためだけにあると。つまりその、子孫を作るためだけにあるんだと。もしくはもちろんね、そこにある程度の男女間の愛みたいのがあったとしたら、その純粋な愛の高まりとしての性的な交渉はあってもいいかもしれないけど、現代みたいに単純に快楽を求めるようなセックスっていうのは駄目なんだと。これがまあ基本路線です。
 あの、在家でもですよ。在家っていうか、柔らかい邪淫はね。――っていうことは、これに反することは全部駄目になる。どういうことかっていうと、例えば夫婦間であっても、ちょっと性欲わいたから、みたいなセックスは駄目だっていうことですね。あるいは、もちろん浮気なんてもう絶対駄目だと。もちろん現代みたいに風俗に行くとかも駄目だと。もっと言えばマスターベーションも駄目です。つまりオナニーも駄目です。つまり快楽を求める行為は一切駄目なんだね(笑)。これは柔らかい邪淫でもそうなんです。柔らかい邪淫でもそれは駄目ですよと。
 で、厳しい邪淫、つまり出家であるとか、あるいは出家してなくても「わたしは神の道を行くんだ」と。あるいは「解脱するんだ」「悟るんだ」と。あるいは「完璧に今生で菩薩の道を行くんだ」っていう、人生を修行や真理にかけてる人の場合は、まさにここに書いてあるように、一切の異性への行為はもちろんのこと、思いからも離れると。

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