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四無量心による静寂

◎四無量心による静寂

【本文】
『マイトリー・カルナー・ムディトーペークシャーナーン
スカ・ドゥフカプンニャープンニャヴィシャヤーナーン
バーヴァナータシュチッタプラサーダナム

慈愛、哀れみ、喜び、および無頓着が、それぞれ幸福、不幸、良い、そして悪い対象に対して思われるなら、心は静寂となる。 』

 はい。これは驚きですね。「寂静の瞑想にどうやって入るんですか」っていう『ヨーガ・スートラ』の第一の言葉が、四無量心だと(笑)。大乗仏教じゃないかと。
 つまりさっきも言ったけど、インド全体でそういう流れが起きてたんだと思うね。四無量心の重要性っていうのを、ヨーガ派の人たちも仏教派の人たちも多分感じてたんでしょう。
 この四無量心、ここちょっと言葉を追っていくと、
「慈愛、哀れみ、喜び、および無頓着が、それぞれ幸福、不幸、良い、そして悪い対象に対して思われるなら、心は静寂となる」と。
 これはどういう意味かっていうと、この最初の四つが後の四つにかかるわけですね。
 つまり幸福に対しては慈愛だと。これはどういう意味かっていうと、衆生、全ての人々が、幸福になってくださいと。こういう思いだね。
 はい、そして不幸に関して。これは哀れみだと。つまりみんなが不幸ならば、それは非常に哀れだと。ぜひそこから救われてほしいと。これは二番目の、上の言葉でいうとカルナーってやつですね。マイトリーが慈愛です。で、二番目、カルナー――これが哀れみですね。ちなみに、お釈迦様の次に地球に登場するといわれる弥勒菩薩、マイトレーヤといいますが、これはマイトリー――つまり慈愛の教師っていう意味なんだね。慈愛の教師という意味で、マイトレーヤといいます。
 はい、そして三番目。「良い」。良い、というのはどういうことかというと、周りの人々、自分以外の他人が、修行し、そして心が幸福になりましたと。あるいは悟りを得ましたと。あるいはちょっとでも以前の悪いものを捨てましたと。こういう良い現象に対して喜ぶ心だね。これが三番目のムディターというやつです。ここではちょっと原語上変換されて、ムディトーとなってるけど、ムディターっていうんだね。喜び。ムディター。
 そして最後「悪い」。この悪い、っていうのはどういうことかというと、自分に起きた悪いことです。自分に生じたいろんな苦しみ。人から馬鹿にされるとか、あるいは殴られるとか、あるいはひどい目に合わされる――そういったことに対しては無頓着。無頓着だけをいうと、ウペークシャーというんだね。ムディターとウペークシャーが合わさって、ムディトーペークシャーってなってるけど。ウペークシャーですね。これは無頓着。よく日本語では「捨」って言います。捨てると書いて、捨。
 つまり、人々が幸福になってほしいと願う、これが慈愛。そして人々が不幸から脱却してほしいと願う、これが哀れみ。そして人々が良い状況にあるときにそれを喜ぶ、これが喜び、ムディター。そして自分に生じたさまざまな悪い現象に関しては全くとらわれない、無頓着だね。
 はい、これを心で思うならば、心は静寂となると。ではMさん、なぜだと思いますか?

(M)人の煩悩と反対のベクトルの思いであるから……

 うん。そういうことも言えるだろうね。それもあるだろうけど、もう一つはつまり――みなさん、寂静とか静寂っていうと、何を思い浮かべるか分かんないけど、いろんなものがなくなった寂しい――まあ、日本語で静寂って書くと、静かで寂しいって書くから(笑)、なんか寂しい状態を思い浮かべるのかもしれないけど、私はそういうイメージじゃないんだ。
 結局ね、心が静まっていないっていうのは、今Mさんもいったように、煩悩があったりエゴがあったりして――例えばですよ、このお菓子が小さかったとするよ。エゴがあると、「何でおれだけ小さいんだ、何でおれだけ小さいんだ」っていう思いでいっぱいになって(笑)、ちょっと落ちつかなかったりね。あるいは例えば、何かすごい欲求があって、それが満たされないようないろんな他の状況がにあるときっていうのは、その状態で瞑想に入ろうとしても、心は寂静にならない。あるいは日々寂静な状態に保てない。でもこの四無量心っていうのは、単純にそのようなけがれがない、というよりは、衆生への愛とか哀れみで心が満ちてるんです。
 だからね、ここにおける寂静っていうのは、満ちてるんだね。満ちて寂静なんです。無くて寂静っていうよりは、満ちて寂静っていう感じです。心が完全に満たされて安定していますっていう状態なんです。それが四無量心による寂静なんだね。単純に、煩悩はありません、でも愛も無いんですよ――じゃなくて(笑)、本当に衆生が幸福になってほしいと。苦しみから解放されてほしいなと。でも自分のことはどうでもいいんですよと。こういう人っていうのは、安定してるんだね、心が。分かると思うけど。そういう人がもしいたとしたら、当然少々のことじゃ心が揺れない。あまり自分のことを考えてないから。で、その状態になって初めて、一つの静寂が来ますよと。
 これはもちろん、瞑想でね――いつもやっているように、慈悲の瞑想だとかやるのも大事だけど、当然実際問題としては、日々の訓練が一番大事だね、この四無量心っていうのは。つまり例えば、日々生きてて、いろんな人に対して幸福を与える訓練をすると。あるいは苦しんでいる人がいたら、できれば修行させる。修行はさせられないまでも、いろんな自分の知っている限りのことを言ってあげて、ちょっとは助けてあげると。あるいは、修行が自分よりも進んでいる人がいたら、嫉妬するんじゃなくて、非常に喜ぶ実践をする。そして自分に生じるいろんなことに対しては、徹底的にとらわれないと。
 この訓練をして、瞑想しますと。ああそうだと。愛だと。哀れみだと。で、またちょっとそうじゃない部分があって、それをまた実生活でいろいろ訓練して、また瞑想に入ると。これをやってると、慈愛の力とか慈悲の力っていうものが、自分の心を完全に満たしてしまって、静寂に入るんだね。これが大乗仏教的な静寂の入り方です。
 だから単純に落とすんじゃないんだね。この非常に菩薩的な、菩薩道的なシャマタの入り方が、一番最初に書かれてるのが、『ヨーガ・スートラ』の面白いところだね(笑)。

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