「ヴィヴェーカーナンダ」(36)
アメリカでの仕事を終えた後、ヴィヴェーカーナンダは再びヨーロッパにわたり、さまざまな仕事をなした後、インドへの帰途につきました。
第一回目の欧米旅行は、ヴィヴェーカーナンダに大きな希望をもたらしました。しかし二度目の欧米旅行によって、ヴィヴェーカーナンダは大きな幻滅と失望を感じました。
ヴィヴェーカーナンダは近しい弟子に、こう語りました。
「アメリカは、東洋と西洋が調和する手段にはなりえないだろう。」
「ヨーロッパは、大規模な軍隊のキャンプである。」
1900年12月9日の夜、ヴィヴェーカーナンダはベルル僧院に帰ってきました。ヴィヴェーカーナンダはインドに帰国したことを誰にも知らせておらず、僧院の門には夜なので鍵がかけられていました。そのとき、夕食の時間を告げる鐘の音がなりました。ヴィヴェーカーナンダは、仲間たちとの食事の輪に加わりたいと思い、僧院の門をよじ登り、中に入りました。突如、門をよじ登ってあらわれたヴィヴェーカーナンダを見ると、法友たちの大歓声が沸き起こりました。
ヴィヴェーカーナンダは、愛するイギリス人弟子のセヴィアーや、最初の欧米旅行の時に資金を負担してくれたケトリーのマハーラージャなどが亡くなったのを知らされました。悲しみをこらえつつ、ヴィヴェーカーナンダはしばらくの間また、インド中を様々な仕事で走り回りました。日に日に悪化する健康状態を心配して、法友や弟子たちは、ヴィヴェーカーナンダに休息を促しました。ヴィヴェーカーナンダは彼らを安心させるため、しばらくの間、僧院でのんびりとした休息の日々を送りました。
動物好きのヴィヴェーカーナンダは、僧院で動物たちに囲まれて暮らしました。犬、ヤギ、シカ、サギ、牛、ヒツジ、アヒル、ガチョウなどと一緒に、ヴィヴェーカーナンダは子供のように遊び戯れました。
肉体は日に日に弱まっていったにもかかわらず、ヴィヴェーカーナンダの心は輝いていました。ある日、彼はこう言いました。
「たった一つ、喜んでよいことがあります。それは、人生が永遠でないということです。」
1902年2月、ベルル僧院において、ラーマクリシュナ生誕祭がベルル僧院で催されました。三万人以上の人々がその祭典に参加しましたが、ヴィヴェーカーナンダは熱があり、両足が腫れていたため、部屋に引きこもり、窓から帰依者たちの歌や音楽を見ていました。
そのとき、付き添いの弟子に、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「真我を悟った人は、偉大な力の宝庫になります。その人が中心となって、精神力が発散し、ある範囲内で働きます。この範囲内に入る人々は、彼の理想に鼓舞され、圧倒されます。このようにして、宗教的努力をあまりせずして、彼らは悟った人の精神的体験から恩恵を受けるのです。これが恩寵と呼ばれています。
聖ラーマクリシュナを知った人は祝福されています。あなた方もすべて、彼のヴィジョンを得るでしょう。あなた方がここに来た時には既に彼のそばにいるのです。聖ラーマクリシュナとして彼がこの地上に降りてきたことを理解できた人はだれ一人としていませんでした。彼の側近の帰依者たちでさえ、その本当の話の手がかりすら分かってはいません。ほんの数人の人々がそれを薄々感じているにすぎません。そのうちに、すべての人が理解するでしょう。」
ベルル僧院のやり方は、保守的なヒンドゥー教徒たちから見ると革新的な面が多々あり、それをよく思わない人々が、彼らの醜聞を作り上げ、批判を繰り返しました。これを耳にしたとき、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「それでいいのです。自然の法則なのです。それがあらゆる宗教の創始者たちのたどる道ですよ。迫害なしに、すぐれた思想は社会の心の中に入ることはできません。」
1901年、日本から二人の訪問者が、ヴィヴェーカーナンダを訪ねてきました。それは芸術家の岡倉天心と、僧侶の織田得能でした。彼らは日本で計画されていた世界宗教会議への出席を、ヴィヴェーカーナンダに要請に来たのでした。
ヴィヴェーカーナンダは、ことのほか岡倉には好意を抱き、
「私たちは地球の端からやってきて、再び出会った二人の兄弟です。」
と言いました。しかし日本への訪問は断りました。それは健康上の理由に加えて、その当時の日本人が仏教を間違えてとらえていると理解しており、ヴィヴェーカーナンダがヴェーダーンタの不二一元論思想を唱えても、それが日本人に正しく理解されるか疑問だったためといわれています。
岡倉天心は、ヴィヴェーカーナンダを日本に連れてくることはできませんでしたが、代わりに、ブッダの悟りの地であるブッダガヤーに、ヴィヴェーカーナンダと一緒に行きたいと懇願しました。病気が小康状態を迎えたこともあり、ヴィヴェーカーナンダはその希望を受け入れ、1902年の1月から2月にわたり、ヴィヴェーカーナンダと岡倉天心は、ブッダガヤーやベナレスを旅しました。それはヴィヴェーカーナンダにとっての最後の旅となりました。
ヴィヴェーカーナンダは、彼自身の39歳の誕生日の朝、ブッダガヤーに到着しました。
かつてヴィヴェーカーナンダは、まだラーマクリシュナが存命中にブッダガヤーやベナレスを訪れ、ベナレスを離れる時に、このように言いました。
「私が雷電のように社会の上に落ちるその日まで、決してこの場所を再び訪れないでしょう。」
ヴィヴェーカーナンダはその言葉通り、インドや欧米に真理の雷電を響きわたらせ、その生涯の終りを目前にして、再びベナレスの地を踏んだのでした。
ブッダガヤーとベナレスの旅からベルル僧院に帰った後、ベンガルの湿った空気の中で、喘息や糖尿病などのヴィヴェーカーナンダの持病は悪化の兆候を見せました。特に糖尿病による水腫はひどく、足は腫れあがり、眠るときも目を閉じることができなくなりました。
肉体はひどい状態にありましたが、ヴィヴェーカーナンダの精神は変わらず生気を保っていました。このころ、彼はよく最新版の大英百科辞典を読んでいるのが見られました。わずかな間に、ヴィヴェーカーナンダはその分厚い時点の十巻ほどを涼しげに読破すると、弟子のひとりに、その十巻の中のどんなことでもいいから質問するようにと言いました。弟子が質問をすると、ヴィヴェーカーナンダはその質問に対して専門的な知識を披露したばかりか、その辞典のここかしこからの引用まで示しました。
驚く弟子に対して、ヴィヴェーカーナンダは言いました。
「不思議なことは何もない。思想と行動における完全な純潔を遵守した人は、心の記憶力を発揮でき、たった一度、それも数年前に聞いたり読んだりしたことでさえ、正確に再現できるのだ。」
つづく