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解説「菩薩の生き方」第十回(6)

【本文】

 そして後半では、よりバクティ・ヨーガ的な話になっていきますね。精神集中の瞑想を中心とした古典的なラージャ・ヨーガから、神や社会とのかかわりを重視したバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどにヨーガが展開していったように、大乗仏教も同様の展開をしていったのだと思いますね。
 そしてここでは、「私自身のすべてを、ブッダと菩薩にささげます。あなた方の召使になります。」という話になってきます。私自身のすべてをブッダや菩薩にささげ、召使になるとはどういうことでしょうか? その答えが、その後に書いてありますね。輪廻界において衆生のためになることを行い、そして以前の悪を断ち、今後も悪を行なわない、という表現になっています。
 つまりブッダや菩薩の願いは、すべての衆生が悪を断ち、善を行ない、修行し、解脱し、輪廻から解放されることです。そのような彼らに自らをささげ、召使になるということは、自分がしっかりと悪を断ち、修行するのはもちろんのこと、すべての衆生が救われるためのお手伝いをするために、全力を尽くすということですね。
 インド三大聖者の一人・ラーマクリシュナの後継者であるヴィヴェーカーナンダは、バクティ・ヨーガには二段階あるといっています。その第一段階のガウニという段階では、修行者は自己の師や神に対して一心に信愛を持ちますが、他の人は関係がない、という段階です。それがパラーと呼ばれる至高のバクティに昇華されると、その人は神の子供たちであるすべての衆生に対して強烈な慈愛と哀れみを持ち、すべての衆生を救うために生きるようになります。
 それと同じ発想が、ここにはあるわけですね。ブッダや菩薩への最大の奉仕、それは自己の修行を進めると同時に、他者の幸福のために、すべての衆生を救うために生きるということなのです。

 この一文は、昔よく勉強会の最初にみんなで唱えてたね一文ね、

「わたしは、わたし自身を、勝者とブッダの子とに残り無くささげる。衆生の最高者たちよ。わたしを受け入れたまえ。わたしは熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。
 あなた方に受け入れられれば、それによってわたしは恐れるところ無く、輪廻界において衆生のためになることを行なう。そして以前作った悪に打ち勝ち、重ねて他の悪を行なわない。」

と。
 その簡単な説明がここに書いてあるわけですが。つまり布施・供養を超えて、わたし自身を勝者と仏陀の子――仏陀の子っていうのは菩薩のことですが――つまり勝者バガヴァーン、至高者と、それからその至高者の子といえる偉大な菩薩方たちに、お金とか物質とか花とかではなく、このわたし自身を、完全に明け渡しますと。まさにバクティの究極のアートマニヴェーダナ、わたし自身をすべて差し出しますと。
 はい。で、「受け入れたまえ。わたしは熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。それによってわたしは恐れるところ無く、輪廻界において衆生のためになることを行なう。」――はい、つまりここに書いてあるように、至高者、仏陀に自分を明け渡すっていうことは、まあ。これはまさにいつも言ってることだけど、道具となるっていうことなので。で、その至高者とか仏陀の、まあ考えてることっていうか思いは一つであって、みんなの救済であると。ということは、自分を明け渡すっていうことは、我を入れないただの救済のマシーンになるっていうことです。だから結論として、自分を明け渡すことによって、輪廻界において衆生のためになることを行なう、ただそれだけの存在になると。
 まさにあの「願い」の歌にあるように、ただの道具、「こだわりなく、しかし無でもなく、燃える炎のような、ただの仏陀の道具になる」と。それが望みなんだと。
 で、本文をもうちょっと解説すると、そのような生き方をする人にとっては、いいですか――恐れるところがなくなるんです。つまり普通、輪廻っていうのは恐怖の対象。だからこれはチベット仏教でも原始仏教でも、まずその輪廻の恐怖っていうのを徹底的に植えつける。輪廻っていうのは苦しみなんだよと。まず人間界でさえ苦しみが多いと。で、動物・地獄・餓鬼とかに落ちたらもう悲惨であるという言い方をするわけだけど。で、菩薩道とかバクタの道においては、もうそんな恐怖さえなくなってしまう。まさに恐れなき者となるんだね。
 これも仏典のタイトルで『恐れなき者』っていう教えがあるんだけど、ほんとに自分を明け渡している者は、恐れなき者になります。だって自分ないから。自分を完全に仏陀の――つまりこれがある意味での、完全ではないけども仏陀との合一。つまり、自分を明け渡してしまったっていうことは、まさに仏陀の、あるいは至高者の意思によって動くロボットみたいになるので、つまり自分の方に主導権があると、当然自分はけがれてるから、そのけがれによって不安が出てくるよね。自分がやってる生き方は正しいんだろうか、その間違いによって苦しむんじゃないか――で、当然こっちに良し悪しの基準もあるから、ああ苦しい、ああ、こうなってしまったっていう苦しみがあるし、こうなってしまうんじゃないかっていう恐れがある。でも自分の判断も含めて全部明け渡してるわけだから、なんの恐れもない。ただゆだねてるっていうかな。
 もちろんそのゆだねてるっていうのは怠惰ではなくて、まあ、『母なる神』にあるところの、力強い従順ね。力強い従順っていう言葉で示されるようなゆだね方なんだね。雄々しい気高い従順っていうか。気高く自分をゆだねてる。自分はね、仏陀の道具として勇ましく戦いましょうと。至高者の道具として一切の我を入れずに、至高者の意思を誰よりも早く、現実的に、実際に実行しましょうと。このような勇ましい従順の心があるんだね。
 で、このような生き方をする者にとっては、普通は恐るべきこの輪廻も、全く恐れがない。で、恐れなく、つまりまさにリーラーですけども、リーラーの一員として何度も生まれ変わると。
 つまり段階的には、最初は輪廻っていうのは恐怖しなきゃいけない。われわれは無智で、まず輪廻を恐れていない。しかし段階的には、輪廻をまず恐れなきゃいけないですよと。輪廻って非常に怖いものですよと。あなたがこのまま死んだら、低い世界に落ちて苦しまなきゃいけない。これは現実としてあります。
 しかしもっともっとわれわれが修行が進んでくると、だんだんだんだん、まずカルマが浄化されてくるわけだけど、そのカルマの浄化の果てに、もうわたしは心を明け渡してしまったと。よって、輪廻さえも怖くないと。だってもしわたしが地獄に行くとしたら、明け渡した上で地獄に行くとしたら、それは神の意思だから、なんの問題もない。神の必要があって、神の道具として使われて地獄に行くわけだから、なんの恐怖もないし、なんの問題もないんだっていう完全な安心感があるんだね。これがそのバクティの素晴らしさだね。
 で、だからここに――これさ、もともと「わたしは熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。」って出てるけども、これ、別にわたしが付け加えたんじゃなくて、もともとの原文にこう書かれています。つまり仏教においても、ここに書かれているように、だんだんバクティ的な要素が強くなってるんだね。そういうムーブメントがあったっていうか。そのバクティ的なもの、そして、より崇高な空の教え、この辺が仏教において強調されていって、まあ、あと四無量心ね――それらが強調されていって構築されていったのが、この大乗仏教なんだね。
 はい。これがここの部分ですね。

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