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解説「菩薩の生き方」第十回(1)

2014年1月25日

解説「菩薩の生き方」第十回

 今日は久しぶりに『菩薩の生き方』の続きね。これはいわゆるシャーンティデーヴァの『入菩提行論』を、まあ、わたしが書き下ろしで解説したものですね。ですから解説の解説という感じになるので、実際はそんなに解説することはなさそうですけども、よりね、深く、意味合いをね、理解するために勉強していきましょう。
 この『菩薩の生き方』っていうのは、初期のカイラスの本ですけど、非常にいい本です、これは(笑)。初期のカイラスの本は、この『菩薩の生き方』とそれから『バガヴァッド・ギーター』の解説の『至高者の歌』ね。この二つがあったんですが、この二つ共、非常に素晴らしい本なので、もし読んでない方いたら、ぜひ一度ね、一度は全部目をとおしたらいいね。
 まあ、あるいは一般の人でも、よくこの『菩薩の生き方』や『至高者の歌』で大変その心がチェンジしたとか、あるいは大きなね、気付きを得たっていう話を、一般の方っていうか新しい人でもよく聞くので、まあ多くの人にね、ぜひ読んでもらいたい本ですね。
 はい。で、これは『入菩提行論』の解説になるわけですけども、ちなみに、この間ちょっとネットにアップしましたが、ニョシュル・ルントクっていう聖者の話があって。このニョシュル・ルントクっていう人は、有名なパトゥル・リンポチェの弟子だったと。で、パトゥル・リンポチェっていうのは、この人はまあ、有名なあの『クンサン・ラマの教え』を書いた人で、非常に、なんていうかな、美しく法をまとめる才があったらしいですね。で、この人は『入菩提行論』のシャーンティデーヴァの生まれ変わりといわれています。でもそれは確かにちょっと納得できるところがある。つまり、前にも言ったけど、このシャーンティデーヴァとかパトゥル・リンポチェの作品っていうのは、ちょっとね、ほかの仏教の論書と違うんだね。何かっていうと、まず美しくて面白いんです。
 前もちょっと同じような話をしたけど、わたし中学校とかのころからヨーガ経典とか仏典とかをいろいろ読み漁ってたけど、やっぱり仏教って難しい。仏典っていうのを見ると、原始仏典にしろ大乗仏典にしろ、なんか難しい表現がバーッて続いてて、で、それを、なんていうかちょっとこう、勉強するような気持ちで熱意を持って読んでたんだけど。まあ、やはり高度な世界っていうのは難しくて当たり前だなと思ってたんだけど、でも例えばこの『入菩提行論』、あるいはパトゥル・リンポチェの『クンサン・ラマの教え』とか読むと、「いや、こんな高度な教えがこんなにも美しく素晴らしく説けるじゃないか」と。やっぱりこれは才能の問題であると(笑)。でもなかなかそういう才能を持つ人っていうのは少ないんだね。
 だから、もちろんほかにもいろいろそういう美しいのはあるよ。例えばミラレーパとかそうだね。ミラレーパの詩とかもまあ非常に美しく、ほかの人がああだこうだ、なんたらかんたら難しい論を重ねてるやつを、スパスパスパッと美しい言葉で芯を突くっていうかな。で、そういう感覚がこのパトゥル・リンポチェの作品と、それからシャーンティデーヴァの作品には共通してあるので、確かに生まれ変わりといわれてるのも、まあそうなのかなっていう感じもするけどね。
 はい。そのシャーンティデーヴァの生まれ変わりといわれるパトゥル・リンポチェの高弟であるニョシュル・ルントクが、二、三十年ずっと一緒にそばについて奉仕してたらしいんだけど。で、その日々のことが書いてあって、パトゥル・リンポチェは、一日二行だけ『入菩提行論』の教えをニョショル・ルントクに与えるっていうんですね。で、これはまあ古代のヨーガ――ヒンドゥー教とかヨーガとか仏教のやり方で、少ない教えを徹底的に瞑想するっていうのがあるので、まあ、そういうやり方をしてたのかもしれないけど、二行だけ解説すると。で、その日の解説終わりと。まるでカイラスみたいだね(笑)。

(一同笑)

 「あ、今日二行しか進まなかった」とか(笑)。うん。そういう感じなのかも分かんないけど、まあとにかくじっくりとこの『入菩提行論』の解説を与えて、それをそのニョシュル・ルントクは十年間かけて、『入菩提行論』を瞑想したといわれています。もちろんそれだけの価値がある経典だね、これはね。ですから、ぜひこれは座右の書として繰り返しね、読んでほしい本ですね。
 はい。で、その新しい章に入りますが、「罪悪の懺悔」っていうところ。この『入菩提行論』は実際は全体の流れとしては、まず最初の方で菩提心の素晴らしさが説かれ、で、この『入菩提行論』の最大の特徴である念正智、つまりいかに心を正しく保ち続けるか、自分の心をチェックして逸れないように保ち続けるかっていうことの教えが途中にいろいろ入ってくるわけですが、しかしそれらをまあ、エッセンスとして入れつつ、全体としてはいわゆる大乗仏教の六波羅蜜、六つのパーラミターっていう教えにのっとって進んでいきます。
 六波羅蜜っていうのは、いつも言ってますが、非常に素晴らしくまとまった教えなんだね。簡単に言うと――誰かに言ってもらいましょうかね。じゃあMさん。

(M)はい。布施、持戒、忍辱、精進、智慧?

 智慧は最後です。

(M)あ、禅定、智慧。

 禅定、智慧ね。はい。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。この六波羅蜜ね。これ、簡潔に言いますよ、新しい人もいるので。このシステムはとても素晴らしい修行システム。つまり、まず布施。この布施っていうのは、いわゆる皆さんがイメージする布施だけじゃなくて、つまり徳を積むっていうことです。布施や供養や奉仕等によって徳を積みましょうと。
 二番目に、戒律を守ると。で、この布施と戒によって、簡単に言うと布施によって善業、つまり善いカルマを増大させると。で、戒を守ることによって、悪いカルマを積まない。うん。今までいろんな悪いカルマを積んできたけど、それを戒律にビシッと自分を当てはめることで、もうこれ以上、ここからはもう悪いカルマはやめましょうと。つまり、まず善はどんどん積みましょうと。で、悪いことはやめましょうと。
 で、三番目に忍辱。苦しみに耐える。これはつまり、今からは悪いことはやめますが、過去に積んじゃったものがありますと。それは甘んじて受け、つまりカルマとして受け、苦しみに耐えましょうと。つまりこの徳を積む、悪いことをやらない、苦しみに耐える――これをひたすらやってたら、当然残るのは膨大な徳だけになります。徳はいっぱい積んでますと。で、戒を守ってるから、あんまりその徳を漏らしません。それに、これ以上悪いことやりません。そして過去になした悪いことは、苦しみから逃げずに立ち向かうことによって、どんどん落ちていきます。これによってその人は、膨大な徳と、それから非常に苦しみが少ない、苦しみのカルマが少ない人になるんだね。
 で、ここにおいて、その強烈なエネルギーを使って精進する。つまり逆に言うと、準備ができてないのに、つまり徳もなく悪業が多い人は、本当の意味で修行に精進することができない。本当の意味で魔と戦うことができない。ですからその武器として、あるいはエネルギーとしての徳を積み、そして悪業をなくすっていうことをまず最初の布施・持戒・忍辱で徹底的にやって、そして精進にぶつかると。
 で、この精進っていうのは実際広い意味があるわけだけど、この布施・持戒・忍辱・精進までの段階で積んだ強力なエネルギー、強力な徳、強力な心の静けさを利用して、本当の意味の瞑想、サマーディに入るわけですね。そしてサマーディに入ることによって、本当の意味での智慧を得ると。これがまあ、なんていうかな、大乗仏教の段階的修行法である六波羅蜜ですね。
 はい。で、これにのっとった説明になっています。で、この「罪悪の懺悔」っていう章は、実際はこれは最初の、さっき皆さん読んだところでも分かるように、まあ一応はタイトルは「罪悪の懺悔」ってなってますが、実際は布施と懺悔の章ですね。布施と懺悔。つまり懺悔っていうのはもちろん戒律とも関わってくるわけですが、布施、供養、そして逆にこれからは悪業を積まない、そのために過去の悪業を懺悔する、あるいは過去の悪業をしっかりと反省して心を入れ替えるというための章が、この「第二章 罪悪の懺悔」ですね。
 はい。じゃあ本文はさっき読んだので、解説のところをちょっとずつ見ていきましょうね。

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