解説「王のための四十のドーハー」第六回(2)
まあ細かいところはそういうのを読んでもらうとして、大ざっぱに、新しい人もいるんでね、簡単に十二縁起を言っておくと、まずさっきも言ったように――これはね、一つの説明です。十二縁起っていうのはいろんな説明があります。だから今話すのは一つの簡単な説明だと考えてください。――はい、まず無明。無明というのは、明――つまり明って明るいって書くわけですが、すべてを明らかにする、ありのままに見る智慧が、無明によって失われる。で、無明ありて行ありといいます。いきなり難しくなってきましたね。行っていうのはただ「行く」って書くんですが、ここで行を定義するならば、カルマといってもいいんだけど、われわれが過去に――そうですね、経験といってもいいでしょう。経験。われわれが過去に経験してきたさまざまな情報です。経験の情報ね。カルマも経験の情報だから。言ってみればね。今日はあまり深くは話さないので、これもね、ドーハーじゃないけども、短い言葉で読み取ってくださいね。経験の情報イコールカルマといってもいい。
しかし経験の情報っていうのは、実際はすべて、われわれの魂の本性とは一切関係がありません。しかしわれわれは経験に引きずられるんだね。これはいつも言うように、わたしがよく出す例えとしては、梅干しの例えね。梅干しを見るとよだれが出るっていうやつです。ね。これはもう完全に経験に引きずられてるんです。もしかすると、確かに今まで、九百九十九回梅干しを食べて全部酸っぱかったが、次に見た梅干しは甘いのかもしれない、もしかすると。酸っぱくないかもしれない。梅干しの形のチョコレートかもしれない。しかし体は、その心のね――つまり心が完全にその梅干しに対してレッテルを貼るわけですね。「これは酸っぱい」と。それによって体がその反応を受けてよだれが出る。これはすごくいい例ですね。
つまりわれわれは、ものをありのままに見ていない。じゃあどうやって見てるんですか?――それは、経験を絶対視してるんです。経験こそがわれわれの教師であると。われわれを導く、何が真実かを教えてくれるものは経験である、というシステムが、心で完全にできてしまってるんだね。これを行といっています。行ね。
で、これもいつも言ってますが、本来われわれが明であったなら、つまりありのままに見る光があったなら――これはね、だから明っていうのは「明るい」っていう字を書くわけですが、これは、つまり光なわけです。純粋な光。で、これはまさに、例えるならば太陽光のような、太陽の光のような、完全で、そして、それ以上のものがない光です。これが発せられていたならば、すべては明らかになる。で、行の光っていうのは――行も光なんです。っていうか、その情報というのは光なんですね。これもちょっと深い話になりますが、もし皆さんが深い瞑想に熟達すると、今言ったね、この心の奥の経験の情報、これが視覚的に見えます。それはね、光として見えるんです。つまり光なんです。光が情報なんだね。しかしその光っていうのは、心の本性の光と比べたら非常に弱いんです。つまり蛍の光みたいなもんです。だから心の本性が輝きだしてるときっていうのは、経験に引きずられることなんてあり得ないんです。つまり、過去どうであったかはもう関係ないと。ただありのままに物事を見る。ね。
もう一回言うけども、人は経験に引きずられるから執着してるわけでしょ? あるいは経験に引きずられるから嫌悪してるわけだよね。われわれが経験に引きずられるっていう習性がなかったら、執着も嫌悪もあり得ません。
つまり経験に引きずられないっていうのは、また逆の言い方をすると、一回一回ぶつ切りっていうことです。昨日散々いじめられました。一昨日も散々いじめられました。しかし、そこでもう瞬間瞬間バチッと切れるわけですね。で、ほんとにまた純粋な、なんていうかな、初めてその人に会ったかのような気持ちで――頭脳には普通に記憶としてあったとしてもね、心の問題としては、まるで初めてその人に会ったかのように、新鮮な気持ちでその人を見ることができる。昨日までこういうことやられたとか、そういうのが全くない。もちろん執着もない。
つまり執着っていうのもさ、いつも言うように、口でね、愛だとかきれいごとを言ったとしてもね、結局はエゴの打算です。ね(笑)。つまり自分に――いろんな意味でですよ――いろんな意味っていうのは、自分の愛情欲求を満たしてくれるとか、あるいは、そうですね、自分のプライドを満たしてくれるかもしれない。いろんな意味で、「これは自分のエゴを満たす相手だ」ってエゴが認識した相手を、ガチッとつかまえるわけだね。これが執着。じゃあ、どうしてそう認識するようになったんですか?――それは過去の経験です。つまり過去の経験で、こういうタイプっていうのはわたしの愛欲を満たしてくれる、愛情を満たしてくれる、あるいはエゴを満たしてくれる。このような、なんていうかな、レッテルがあるんですね。で、そのレッテルに合った相手を見つけると。あるいはまあ、人間じゃなかったとしてもね、レッテルに合った状況であるとか、物であるとかを見つけて、それに完全に執着すると。ね。これも経験に引きずられるっていうことです。
それは、もう一回言うけども、まるで蛍の光のような小さな、ほんとは影響力の弱い光なんだけど――つまり太陽の光が照ってるときっていうのは、蛍の光なんて見えません。太陽の光が強過ぎて。そして太陽の光がありのままにすべてを照らす。しかしわたしたちの心の太陽の光である明というものが消えたとき、その蛍の光が姿を現わすんだね。つまりこのカルマ、あるいは行、あるいは経験の情報っていうのは、なくなってはいないんですね。あるんです、ずーっと。あるんだけども、われわれはそんなものは全く関係がなかった。しかし、心の光が消えたときから、そっちを本物だと思いだし、われわれはその経験に引きずられるんですね。これが――ちょっとまた、いきなり一個目から長くなっちゃったけど(笑)。この行っていうのはとても大事なのでね、ちょっと長くなったけども(笑)――行ね。
で、これから生じる、次の識。最初のこの無明、そして行、そして識、そしてまあ名色と続くわけですが、この辺は実はですね、結構絡み合ってます。結構、分けられないっていうかな。つまりこの識っていうのは、行から生じる識別作用です。意識の根本といってもいいんだけど、つまり、「これはこうである」「あれはああである」「これはわたしの利益である」「これはわたしの不利益である」――頭で考えるというよりは、もっと心の根本の識別作用ですね。つまり本来は、本性は識別すべきものなんて何もない。しかしわれわれは識別してしまうんだね。しかも間違った識別をします。つまり、経験に基づく識別だから。「これは好き、これは嫌い」「これは利益、これは不利益」。それがさ、ほんとだったらいいんですよ。それは別にいい識別。これはね、阿弥陀様の純粋識別智っていうんだけど、正しい識別は必要なんです、実は。例えば、わたしにとって修行は必要であると。煩悩はいらない。これは識別でしょ。これは必要なんです、もちろん。じゃなくてわれわれはそうじゃなくて、経験に引きずられるわけですね。例えばこの相手は――例えば好きな男の子ができたと。明らかに修行の邪魔をする男だと。でも、心の行は「あ、この人、わたしにぴったり」と。ね。「わたしのタイプにぴったり、ぴったり、ぴったり」と。行は思いっきりそれを望むわけですね。で、ここから識が生まれる。「この人はわたしにとってメリットがある」と。ほんとはメリットないんですよ。それは経験から来る錯覚なんです。これが間違った識です。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第九回(2) -
次の記事
解説「王のための四十のドーハー」第六回(3)