解説「王のための四十のドーハー」第四回(5)
はい。そしてこの最後の一行の「それゆえに、空と慈悲も二つになる」っていうのは、これはつまり、よく仏教で、空と慈悲が大事ですよっていうことをよく言うんだね。空と慈悲。つまり空というのは、一切は空である。一切は実体がないと。で、慈悲というのは、すべての衆生を愛しましょうと。すべての衆生っていうのは、わたしとなんら変わらない存在だと。だからすべての生き物に愛を向けなきゃいけませんよと。
で、この二つっていうのは、一見矛盾するような感じがする。だって空っていうのは一切実体がないと。実体がないなら慈悲とか向けなくてもいいじゃんって感じがするわけだけど、大乗仏教とか密教においては、この二つの真理を同時に持ちなさいっていうことをいうんだね。しかしこの二つの真理を同時に持ちなさいっていう表現も、実は便宜的なものなんです。つまりわれわれがこの二元の世界にはまってるからそういう表現をするしかないんです。じゃなくてわれわれがその二元の幻から解放されたならば、実はこの空と慈悲が一つであるということに気付くんだね。空と慈悲はもともと一つであった。それは今のわれわれの固い頭では理解できない。
もう一回言うけども、だって空っていうのは、実体がないよと。実体がないっていうことと、慈悲――衆生に愛を向けるっていうことが、なぜ両立するのかと。それはもう悟るしかないんだね。そうだとしか言えないっていうか。
多くの人はこれを理解していない。多くの人っていうのは例えば、仏教とかを学んでるいろんなね、学者の人とか、お坊さんとかも、かなりの人が理解していない。で、そういういろんな間違った感じで本とか書いてるわけだね。例えばその空の境地になると慈悲っていうものさえもなくなるとかね、そういうことを書く人もいる。でもそれはもう、分かってないだけであって、空性と慈悲というのは両立するっていうか一つなんだね。空であるがゆえに慈悲がそこにあるっていうか。
で、ここでいう慈悲とか愛とかいうのは、もう、なんていうかな、理由なき愛であって、理由なき慈悲なんだね。これはもうバクティヨーガでも同じようなことをいうわけだけど、神の境地に達したときに出てくる愛とかっていうのは、もう理由なきものなんです。で、その前の段階では理由があるんですよ。前の段階ではいろいろ理由を付けて、慈悲を高めるんだね。例えばよく言うように、すべての衆生は自分の母親だったことがあるとかね、あるいは恩があるんだとか、いろいろ理由を付けるわけだけど、最終段階になると、理由なんてなくなるんです。それは当たり前のことっていうか、つまりわたしがほかの生き物、みんなを愛するのは当たり前のことだ、という状態になるんだね。で、それと、一切の実体のなさ、空っていうのが両立する世界があるんだね。
はい。まあ、この一つの詩を見ても、とっても難しい話だね(笑)。かなり高度な話だと思います。
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