解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回(1)
2008年8月6日
解説「安らぎを見つけるための三部作」第一回
今日は『安らぎを見つけるための三部作』っていう新しいシリーズですね。これはロンチェンパっていう昔のチベットの聖者の作品ですね。この人はニンマ派の伝説的な大聖者ですけども。この人がいろんな作品を残してて、そのうちの一つでこの『三部作』があります。
パート1、パート2、パート3ってあるんですが、そのパート1の一番最初、「稀有なチャンス、そして真理との出会い」っていう部分ですね。この部分は、もういろんな教えで何度も学んできたと思います。つまりわれわれがこの人間として生まれて、真理の修行、教えというものに出合ったことがいかに素晴らしいことかっていうことだね。これをまあチベットとかでは、もう最初の段階で徹底的に学ばせる。で、それを上級の修行者になってもひたすらそれは忘れないように何度も何度も学ぶんだね。だからまあ、なんていうかな、いろんなテキストをテーマにここでは勉強会でやってますけども、毎回いろんなテキストで最初の方でこれが出てくるわけだけど。かなりね、かぶるところはもちろん出てくるんですが、非常に重要な部分ではあるので、まあ知識としては皆さんも聞いたことあるようなことばっかりだけども、しっかりとね、自分の心に植えつけるっていう意味で、この「稀有なチャンス、そして真理との出会い」について学んでいきましょう。
【本文】
第一章
稀有なチャンス、そして真理との出会い
完全なる光輝・欠点のない仏陀の本質・純粋な認識力
これらを見失った心に、「自己中心主義」が生じた。
「自己中心主義」から恐怖が生じ
架空の存在の中で、迷子になった。
荒れ狂う感情とカルマの砂漠の中で
疲弊し切った衆生の心が
今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。
はい。この冒頭のところは、つまりわれわれの本質っていうのは、ここに書いてある「完全なる光輝・欠点のない仏陀の本質・純粋な認識力」――これをわれわれはもともと持ってるんだね。つまりわれわれはもともとけがれていて、このような素晴らしい仏陀の境地を目指す、のではなくて、もともとわれわれは仏陀なんです。ずーっと仏陀。過去からずーっと仏陀だし、実は今も仏陀なんです。で、未来もずーっと仏陀なんです。しかし見失ってるんですね。
例えばさ、Mさんがいて、Mさんはもちろん今は人間だけども、Mさんがちょっと酔っ払っちゃってね、あるいは麻薬とかやっちゃって、自分を豚だと思ったとするよ。「わたし、豚なの、ブーブー」とか言って。で、Mさんはそう思い込んでる。「豚なんだ、豚なのよ、ブーブー」って言って、四つんばいになってたとするよ。で、周りの人が一生懸命、「おまえ、豚じゃないよ」と。「Mさんだよ」と言っても、ブーブー言ってる。でもお酒とか薬が冷めてハッとしたときには、「あ、わたし何やってたのかしら?」と。「わたし、もちろん人間じゃないですか」となるでしょ?――でもですよ、このMさんがブーブー言ってたときも、人間でしょ? ずーっと人間だったんです。自分でブーブー言ってるだけで(笑)。で、それと全く同じ。今、われわれは錯覚によっていろんな自我意識を持ってしまってる。でもほんとのこと言うと、今も仏陀なんです。錯覚してるだけであってね。今もほんとは、この「完全なる光輝・欠点のない仏陀の本質・純粋な認識力」っていうものは、われわれの内側にある。しかしあるときからわれわれはこれを見失って、自己中心主義に陥った。つまり「自己」っていうのはほんとはどこにもないんだけど、「わたし」っていう、いろんなね、つまり付加要素が加わってきた。付加要素が加わって、その付加要素に対する執着が生じるんだね。
つまりどういうことかっていうと、例えば「Mさん、優しいね」って誰かに言われたと。そうするとMさんは、例えばMさんに自我意識が全くなかったとするよ。なかったら「Mさん、優しいね」っていう言葉を――例えばMさんが誰かにお茶を運んであげた。そしたら「Mさん、優しいね」と言われた。そうするとMさんは、「え、今の言葉、何だろう? 『Mさん優しいね』――Mさんって、あ、わたしか」と。「優しいねと言われた」と。「今わたしは、わたしMは、優しいという評価を受けた」と。ここでガチガチにだんだん固まってくるんです。つまり非常に自由な、何の限定も無かった心が、例えば「優しいと言われました。わたしはMと呼ばれています。」――で、今度はこの「M」と呼ばれるものが「けなされたくない」っていう思いが生じる。これを守りたいって思うわけだね、「M」と呼ばれるものを。で、この「M」って呼ばれるものにどんどんいろんなものがくっついてきます。「M」って呼ばれるものは、体はこういうふうにきれいでありたいとか、「M」と呼ばれるものは、あまり苦痛の感情は経験したくないとかね。いろんな付加条件がぐじゃぐじゃーっと備わってきて。それが自我意識なんだね。
で、自我意識がどんどんどんどん拡大していく。で、ここに書いてあるように「『自己中心主義』から恐怖が生じ」――自己中心主義、つまり自己っていうその実体のないものを自分で作っちゃって、で、それがもちろん実体のない喜びを求めだすわけですね。「こうなったらうれしい」「こうなってほしい」――こう思った瞬間から、今度はその逆のパターン、つまり「そうならなかったら嫌だ」とか、あるいは逆の「こうなったらいいけど、こうなったらわたしはとても嫌なんだ」っていう概念が生じる。ここで実体のない恐怖が生じるんだね。
われわれはもう無始の過去から、はるかな過去からこの病に陥ってるわけだけど、一般社会に目を向けても、小さな意味でね、小さな意味でもわれわれはそういう病によく陥る。つまりありもしない妄想を自分で思い浮かべてしまって、で、「こうなったら嫌だ」っていうのを自分で作ってしまう。それは絶対的な嫌な条件ではないんだけど、自分の中で概念として「こうなったら嫌だ」って作って、それで一人で苦しむっていうことってよくあると思うんだね。それは客観的に見たら別にただの普通の現象だったりするんだけど。
この話はよく言ってるけどさ、子供時代ってそういうことをよく遊びでやる。こうなったら負けね、とかね。こうなったらおまえは死ぬんだよ、とかさ。いろいろあって。で、その概念の中でこう遊ぶわけだけど、遊びならまだいいんだけど、遊びじゃなくて本気で思い込んでしまう。本気で、こうなったら負けであるとか、こうなったらわたしはもう苦しいんだとか。で、そこで自分で一人ではまってしまう。こういうことって特に現代人の苦しみとして多いと思うね。
現代ってさ、なんていうかな、特に日本とかは、例えば昔みたいに、食べられないとかっていうのはほとんどない。つまり物質的な豊かさっていう意味ではもうだいぶ潤ってるんだけど、でも概念的な苦しみっていっぱいあると思うね。いろんな価値観をテレビとか雑誌とかでこう植えつけられちゃって。東南アジアの貧しい人たちから見たら王様のような生活を日本人はみんなしてるのに、でも日本人の例えば自殺者は毎年増えていく。つまり物資的には豊かになったけど、概念的な苦しみ、概念的な、つまりエゴの強さと、それから必要のない概念をいっぱい持っちゃったがための恐怖。実体がない恐怖みたいなのがいっぱい生まれるわけだね。
いろいろあるでしょ? もう。数え上げればキリがないよね。例えば学校でこれくらいの点数を取らないと周りから本当に嫌な目で見られる、とか。女の子の前ではこういう表情をしないと陰できっと陰口叩かれてるんだろう、とか。わけの分からない妄想があるんだね(笑)。三十歳過ぎて結婚できないと負け組だとか(笑)、いろいろね。これくらい所得がないとおれはもう生きていけないとか。いろんな、なんていうかな――まあ今言ったのはちょっと大ざっぱなものだけど、個人個人に当てはめると、もう個人の中でいろんな妄想が展開されてると。
で、こういうことは、まあ、なんていうかな、細かいことなんだけど、もっと大きな、さっき最初に言ったような名前であるとか、あるいはこの肉体であるとか、あるいはそうだな、周りからの評価であるとか。こういったことが自分というものを、実体のないものを作り上げてる。
で、それは、もう一回言うけども、欲求と恐怖の塊なんだね。「こうなってほしい」「こうなったら嫌だ」――この塊なんです。ここに、さっきも言ったようないろんなことを経験するごとに一個一個それがプラスされていって、もうガチガチで動けなくなってる状態、これがわれわれなんだね。
で、これは変な言い方すれば、生きれば生きるほどそうなります。生きれば生きるほどっていうのは、われわれが小さいときから、生きれば生きるほどそのガチガチの概念が増えていく。で、死にます。死んだらその概念を持ったまま生まれ変わります。で、また次の生でガチガチにどんどん概念を増やしていきます。で、どんどんどんどんわれわれは、真の、最初に言ったような、その自由な魂の状態から遠ざかっていくんだね。
で、それがあるときを境に逆転現象を起こす。これが、まあ正しい教えとか真理との出合いなんだね。で、そのときを境に今度は浄化の作業に入るわけです。つまり今までガチガチに固めてきた概念を、今度は取り去っていく。いや、そうじゃないんだよと。誰もあなたのことそう思っていないよと。あるいは、あなたが持ってるその概念は自分で作り上げたものであって、あなたの本質とは何の関係もないんだと。こういうことを自分に分からせていく作業に入る。これがまあ修行といえば修行だね。
まあ、ただわれわれは、まだ多くの概念に縛られてる。修行者といえどもね。あるいはもちろん、修行してない普通の人といったら、もうほんとにガチガチに縛られてしまってる状態だっていうことですね。はい。
そして、「架空の存在の中で、迷子になった」――これもつまり輪廻転生のことだね。もともと、さっきも言ったようにわれわれは本質は仏陀であると。ということは、われわれが今見ている現実っていうのはすべて架空のものなんです。架空なんだね。夢見てるようなものだと。しかしそういうことを今言っても、抜けることはできない。
だから今、夢なんですよ、そういう意味で言ったら。皆さん、今夢を見てる。夢の中で、今――だから今、わたしの言葉っていうのは、皆さんを目覚めさせる偉大な言葉なんです(笑)。つまり皆さんの夢の中に救世主がこう現われて「夢だよ」って言ってるもんなんだね(笑)。でも夢の中にいて「夢だよ」って言われても、なんていうかな、ほんとに目覚めるわけではない。夢の中で「あ、夢だったんだ」って気付いた夢を見てるんだね、今の段階では。この段階で例えば、みんなが「あ、そうか、この世って夢なんだ」って思ったとしても、それもただ夢の中で思ってるだけなんだね。別に夢から覚めたわけではない。だからほんとに覚める道に入らなきゃいけない。つまりまさに迷子になってるんだね。分かっててこういう幻影の世界を楽しんでるわけではなくて、もう完全にわけ分かんなくなってる状態ですよと。
「荒れ狂う感情とカルマの砂漠の中で疲弊し切った衆生の心が、今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように」と。これは祈りの言葉ですね。
「荒れ狂う感情とカルマの砂漠」――これはわれわれが輪廻転生してるこの世界を指しています。「荒れ狂う感情とカルマの砂漠」。ね。荒れ狂う感情、つまり欲望、怒り、執着、嫉妬、嫌悪、さまざまな感情がわれわれの中で荒れ狂ってる。そしてカルマ、つまりその感情に従ってわれわれは過去いろんなことをやってきちゃった。人を傷つけてきたし、あるいはいろんなものへの執着によって心をけがしてきたし、あるいはいろんな悪い思いを持ってきた。いろんなことを人に言ってしまったし、実際に人にいろんなことをやってきたと。これは過去、今生の過去を振り返ってもそうだし、ましてや前生、前々生、たくさんの過去世を振り返ったら、もうさまざまな過ちを犯してきた。で、それによってその報いを受けなきゃいけない。
しかし今われわれは教えを学び始めたからいいけども、普通はその報いを受けても、それがすべて自分のやってきたことの報いだっていうことに気付かないから、そこで自分の権利を主張し相手に仕返しをする。あるいは仕返しをしないまでも、その自分のストレスを誰かにぶつける。こういうかたちでまた新たなカルマを積むと。そうするともう、これもまたがんじがらめになるわけですね。
カルマっていうのも、何回も言ってるけども、なんていうかな、スマートな単純なものじゃないんだね。つまり一個二個ならまだオッケーなんだけど、もう無数のカルマが絡まってるから非常に分かりにくくなります。今自分に起きたこと、あらゆることがカルマなんだけど、つまり自分が過去にやったことなんだけど、分かりにくいんだね。もう無数のカルマが絡み合ってるから。単純に、あ、これはこのときのこれですねっていう一対一対応ではないんだね。いろいろ絡み合ってますねと。だから抜け方も非常に難しい。
単純だったらいいんですよ。「わたしは過去にやった悪業、一個だけです」と。「それは人に『バカ』と言ってしまいました」と。これだったら簡単です。誰かがやって来て「バカ」と言われたと。「あ、耐えよう」と。心動かさない――「よし、終わった」と。はい、解脱と(笑)。これでいいんだけど、そんな単純ではない。つまりいろんなものが絡んでしまってる。
で、その中で、しかもわれわれは今まで、さあ、われわれはこのカルマを浄化しようと、あるいは感情を浄化しようとさえ思わずに、その感情の嵐、カルマの砂漠の中で、もうひたすら奔走してきた。だから疲れきってるんだね。まさにここに書いてあるように。われわれの心はもう疲れてきっていると。で、それがね、真理と巡り合い、そしてその修行を達成することによって、「今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように」っていうのが、このロンチェンパの最初の祈りの言葉ですね。
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