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解説「王のための四十のドーハー」第四回(1)

2009年5月30日

解説「王のための四十のドーハー」第四回

 はい、今日は久しぶりに『サラハの詩』ですね。
 これは結構難しいというかな、深遠なものなので、なかなか学ぶには大変かもしれないけどね。久しぶりなので一応、まあ背景からね、ちょっと説明しますが。
 この『サラハの詩』っていうのは、サラハっていう人が作ったんですが、サラハっていう人は、まあ、かなり昔の人なのでいろんな説があるんですが、八世紀とか九世紀とか、それくらいのインドの修行者だね。で、この時代っていうのは、いわゆる、いつも言ってますが、インドの仏教が、原始的な仏教から、大乗仏教になっていって、それから密教化していくわけですが、その密教っていうものが現われだしたころの時代なんだね。で、密教が現われるってどういうことかっていうと、つまり仏教とそれからヨーガがちょっと融合したような感じになってきて、で、新しい流れが、まあ登場し始めたんだね。で、その時代に多くの、密教の成就者、まあシッダっていうわけですが、シッダがいっぱい登場したんだね。まあそれが、勉強会でたまにやる『八十四人の密教行者』っていうのがありますが、ああいう偉大な密教の成就者たちがいっぱい出たんですが。で、このサラハっていう人はその中でも、まあ最も古いっていうかな、一番最初の方の人なんだね。だから密教の開祖っていうかな、その一番最初の流れを作った人たちの一人であるっていわれています。それだけ偉大な人ですね。
 で、密教っていろんな流れがあるわけですが、これもいつも出てくる――六ヨーガの勉強会やりましたが、あの六ヨーガと関係のあるカギュー派っていう派がありますが、このカギュー派っていうのは、六ヨーガとそれからマハームドラーね。マハームドラーっていう教えをすごく重要視するんですが、このマハームドラーの開祖の一人もこのサラハだといわれています。だから、ある密教の流れにおいてはものすごく重要視される聖者、これがサラハですね。
 で、サラハってどういう人だったかっていうと、もともとはインドの、いわゆるバラモンね。まあ正確にはブラーフマナとかブラーフミンというんですが、いわゆる階級が、カーストがね、インドはすごく根強いわけですが、その中でも一番上の、お坊さん階級ですね。お坊さん階級の、しかもまあエリート、かなりのエリートの出身だったといわれています。で、王様のお付きの、まあお坊さんになって。で、しかもその王様の非常にお気に入りだった。つまり非常に賢くて、そしてまあ、もちろん名門の出だし、若いし、王様はものすごくお気に入りだったと。で、王様は自分の娘の、つまり王女様をこのサラハにあげようとまで考えていた。それだけ王様のお気に入りの、若きお坊さんだったわけだね。
 でもこのサラハがあるとき仏教の教えと出合って、で、仏教の師匠のもとで出家してしまうんだね。これは大変王様を悲しませた。なぜかというと、その王様自体は仏教じゃなくてヒンドゥー教徒だったから、つまり伝統的なヴェーダとかそういうヒンドゥー教的な教えを信じてたから。仏教とヒンドゥー教っていうのはいつも仲がいいわけじゃなくて、けんかし合ったり、あるいはたまにはお互いに融合し合ったりしながら進んでるんだね。で、インドっていうのはもともとそういう宗派主義が強い。インドだけじゃないけどね。世界中みんなそうだけど、宗教っていうのは宗派主義が強い。まあ百年前にラーマクリシュナが現われて、すべての宗教は一つですよっていうことを言ったわけだけど。で、現代ではなんかよく、ワンネスとか、なんかすべては一つだとかみんな言いだしてるけど、そういうことを一番最初に宣言したのはラーマクリシュナで、それ以前っていうのはほんとにもう、自分の教えだけが正しくて、ちょっとでも宗派が違うとそれは間違ってるっていう、そういう宗派主義が非常に強かったんだね。だからインドの伝統的な考えでは、ヒンドゥー教こそが最高であって、仏教なんていうのは間違った教えなんだって考える人も多くいた。だから王様からすると、サラハがヒンドゥー教を捨ててね、仏教の師匠の弟子になったっていうのを、とても悲しんだわけだね。
 しかしそれは、まあでも理解できるっていう範囲だった。つまり宗派は違ったが、違う道でまあ真理を探究してるわけだから、悲しいけども、残念だけども、まあ、しょうがないなっていう程度の話だったんだね。で、サラハはこの、ある正統的な仏教の師匠について、正統的なっていうかな、伝統的な仏教の教えをしばらく学ぶわけだね。でも実は、約束されたこのサラハの師匠は、この人ではなかったんだね。あるときサラハが――サラハっていうか、この時点では名前はサラハじゃないんだけど。ラーフラバドラかな。ラーフラバドラっていう名前だったんですが、あるときヴィジョンを見た。そのヴィジョンは、ある市場、いわゆる人が多く通ってる市場で、弓矢を作る職人の女性のヴィジョンを見たんだね。で、その女性が、いわゆるダーキニー――ダーキニーっていうのは、これ前も言ったけど、ダーキニーってね、仏教とかでよく出てくる女神なんですが、ダーキニーっていろんなレベルがいるんだね。例えばちょっと悪霊みたいなダーキニーもいるし、あるいは神、天の世界に住むダーキニーもいるし。で、ここでいうダーキニーっていうのは最も高いダーキニー。つまりほとんどブッダの化身みたいなダーキニーです。つまり完全な悟りを得た化身が女性の姿をして現われる場合がある。
 で、このダーキニーがね、弓矢職人として弓を作ってるヴィジョンを見た。で、そこでサラハは直感するわけだね。この女性こそ自分の師匠であるって直感して、その女性を探しに行くんだね。で、そのヴィジョンどおりの市場に行くと、ほんとにヴィジョンどおりにその女性がいたわけですね。で、その女性は弓矢を作ってたわけだけど、それを見たサラハは釘付けになるんだね。それは普通に見たらただ弓矢を作ってるだけなんだけど、まずその弓矢職人の女性は、非常に集中していた。で、それはまあ、まさにサマーディですね。つまり完全に弓矢作りに没頭していた。もう一切外界の意識をなくして、ただ弓矢を作ってると。これはサマーディともいえるし、まあ、ある意味カルマヨーガだね。
 つまり、ちょっと話がずれるけど、そういう意味でわれわれは、普段から瞑想はできるんです。目の前に現われた何かに、一心不乱に集中すると。その訓練としてまあ、日々のいろんな行ないがあるといってもいい。例えば皆さんもバイトして、あるいは仕事して、なんか単純作業をやるときとかね、それにもう全神経を集中すると。もうほかの、なんていうかな、周りで誰かが何か言っても全く気付かないぐらいにその作業にもし集中できたら、それはもう一種の高度な瞑想なんだね。でもわれわれはそういう日々のいろんな目の前に現われたことを、まあ、いろいろ言い訳を付けながら、「いやあ、これは大したことじゃない」「これはあまり意味がないことだ」と言いながら、だからといって別に修行するわけでもないんだけど(笑)、適当になんかこう時間を過ごして、まあ、あまり集中せずにね、いろんなことをやってるわけだけど。
 なんでもそうですよ。例えばお茶を入れるとか、お茶を持ってくるとか、もっと言えば歩くとか、なんでもそうなんだけど、一つ一つのことを全神経を集中してもしできたら、すべてが瞑想になるんだね。

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