解説「王のための四十のドーハー」第三回(5)
【本文】
すべての言葉を超えたとき、そこには苦しみはない
すべての思考を超えたとき、それは至福そのもの
雷雲は恐怖を呼び起こすかも知れないが
そこから落ちてくる雨は、地の実りをもたらすように
はい。これはいわゆる空の境地についていってるわけだけど、ここで重要なのはね、空ってなんだと。ね。よく仏教、特に大乗仏教とか密教では空っていう言い方をするね。空ってなんですかと。
これに関しては、あまり皆さん、本を読み過ぎたりして、変な情報を入れない方がいいね。いろんな人が「空とはこうです」ってことをいっぱい言っている。でも空っていうのはやっぱり、最終的には悟られるものであって、頭で理解するものではない。ただ一応、大ざっぱなことを言うと、そうですね、一般的に大乗仏教とかでは、空っていうものを、例えば実体がないであるとか、あるいは、あまり積極的な内容としてではなくて、何々の否定であるとか、何々と何々の不在であるとか、そういう感じで、一つの現象としてとらえるんだね。でもこのサラハのその教えもそうだけど、密教とかマハームドラーの世界ではそうじゃない。空っていうのは何もないんじゃないんだと。われわれの本質なんだと。で、それは、至福に満ちている。
だからね、どちらかというとヨーガの世界に近いんだね。ヨーガの真我に近いです。仏教とヨーガっていうのは、いつも言うように、なんか表面的にはけんかし合ってるんだけど、実際は同じことを言っています。で、特に密教の世界になってくると、言ってることが非常にヨーガと近くなってきます。われわれの心の本質は、至福に満ちてるんです。ただその至福っていうのは、われわれが理解してる至福じゃないんです。つまりわれわれが理解してる至福っていうのは、苦しみがあって楽があると。苦しみがない、つまり苦しみの反対のことを楽、至福っていってる。つまり例えば欲望が叶えられたときの喜び、自分の、そうですね、いろんな欲求が叶えられたときの精神的な喜びとか、感覚的喜びを、楽とか至福とかいってる。でもそうじゃない。その苦楽から解放されたときの至福がある。それは素晴らしい至福なんだね。はい、それがここに書いてあることだけど、
すべての言葉を超えたとき、そこには苦しみはない
すべての思考を超えたとき、それは至福そのもの
はい、まずこれは、言葉を超えるとか思考を超えるっていうのは、無智になることではありません。よくここも勘違いする人がいるんで気を付けなきゃいけない。例えば、動物っていうのは素晴らしいと。なぜかというと動物っていうのは、人間みたいなばかな思考がないと。本能のままに生きていると。自然であると。よって動物というのは素晴らしいんだ、っていう、ばかなことを言う――仏教徒ですらそういうことを言う人がいる。でもそれは間違っています。動物っていうのは、無智という思考の世界にはまってるんです。それはわたしも、動物だったことをいくつも思い出してるからよく分かる。動物は決して、無思考でもなければ、あるいは言葉を超えてるわけでもない。まあ、ここでいう言葉っていうのは、いわゆる口で発する言葉だけじゃなくて、まあ、概念といってもいいね。概念とか思考を超えてるわけじゃない。動物の世界っていうのは、そうですね、ループする思考、あるいは恐怖だね。恐怖っていうのは、いわゆる弱肉強食の世界にいるから、もう常に、心の中が恐怖でいっぱいになってる。わたしはこうやられてしまうんじゃないか、食われてしまうんじゃないか、ああ!――っていう恐怖。で、もう一つは、ループする思考っていうあります。ループする思考っていうのはつまり、まあ、動物見てれば分かると思うけど、毎日同じこと繰り返してる。つまり発展性がないんだね。同じ、なんていうかな、サイクルで、こうやってああやってこうやってああやって、ああ、終わったと。またこうやってこうやってと(笑)。ループするんだね、ずーっと。思考がないわけじゃないでしょ、これは。無なわけではない。だってわれわれ、動物と接してれば分かるでしょ。動物って無じゃないじゃん。怖がったり、執着してきたり、いろいろするわけです。でもその働きは鈍い、非常に。ただそれだけなんだね。決して動物は無ではない。動物は決して、自然の、心の本性に達してるわけではない。われわれよりももっと悪い、無智な、鈍い心の習性にはまってるんだね。だからここでいう言葉を超えるとか、思考を超えるっていうのは、動物的な無智ではありません。じゃなくてそもそもの概念、あるいはそもそもの心の動き自体を超えた状態だね。
で、ここでは何を言いたいのかっていうと、このあとのところも読むと分かるわけだけど。
雷雲は恐怖を呼び起こすかも知れないが
そこから落ちてくる雨は、地の実りをもたらすように
つまりこれは、まだあまり経験もなく理解もない者が、空の教えを学びだすと、怖がる場合があるんだね。つまり勘違いしていまう。空っていうのは何もないんじゃないか?と。
わたしも昔よく考えました、「空の境地とは、一切がなくなるのかな?」と。「わたしがなくなるってどういうことなんだろう?」と。「え、でもちょっと待って、わたしがなくなるなら、それ、修行する意味あるの?」っていうのを昔よく考えたね。ニルヴァーナっていうのは消滅であると。ニルヴァーナとは消滅してしまうことかと。ああ、なるほど、わたしっていうこの存在が消滅するんだな、と。ね。人間っていうのは、死んでも生まれ変わってしまう。死んでも生まれ変わってしまうから、修行しなきゃいけない。修行して解脱したら、生まれ変わりもしない、この世から消滅するんですね。よく自殺願望とかある人いるよね。この世から消滅したいと。そういう人にとっては、その考えはいいのかもしれない。わたしはもう死にたいと。しかも生まれ変わりたくもないと。消滅したいんですと。じゃあニルヴァーナですねと。いいかもしれないけど、わたしはちょっとやっぱり引っ掛かりがあった。消滅するために修行してるの? なんか違うような気がするなと。いやあ、この世は消滅しない限り、何度も生まれ変わって苦しまなきゃいけないから、なんとかして消滅するぞと思って修行してるのかな?――なんか暗い宗教だなと(笑)。修行って暗いなと。でも、なんか違う気がすると。ね。
それは実際、違うんです。本性に返るんだね。で、本性っていうのは、誤解を恐れずに言えば、至福なんです。で、それは、ヨーガの言葉で言うとね、聞いたことあると思うけど、サット・チット・アーアンンダっていうんだね。サット・チット・アーアンンダっていうのは、純粋なる実在っていうかな、実体。そして純粋なる意識。で、純粋なる歓喜だね。で、なんでここで「純粋なる」って言ってるかっていうと、さっきも言ったように、それはわれわれが普通考えてる実在とか意識とか歓喜ではないんです。でもそういう言葉を使うしかないから、一応、実在・意識・歓喜って言ってるんだけど、普通の、われわれが知ってる実在・意識・歓喜じゃないんです。ほんとの実在、ほんとの意識っていうか心。で、ほんとの純粋なる歓喜が、われわれの正体なんだね。ここにたどり着かなきゃいけない。
――そういう意味では皆さんは徳がある。なぜかというと、今こういう教えを聞いてるから。でも普通、仏教の本を読んだりヨーガの本を読んだりすると、消滅とか空だとか無だとか書いてある。そうすると、ちょっと怖い感じがする。「修行するとわたしがなくなるんですか?」「わたしがなくなるってどういうことなんだろう?」「無ですか?」と。「怖い」と。
実際これはね、お釈迦様の時代の話としても、そういう経典があるんだね。お釈迦様が「一切は空である」って説こうとしたら、弟子が「怖いからやめてください」って(笑)。で、「お釈迦様、もうちょっと簡単な教えを説いてください」と。で、お釈迦様はもうちょっと簡単な教えを説いたって話があるんだけど(笑)。やっぱり怖いよね、空の教えってね。実体がありませんと。わたしには実体がないと。この世界にも実体がないと。言葉どおりとらえると、それはまあ、英語でいうとナッシング。ね。そのままだけど(笑)。何もないと。この世は何もないんですか。ちょっとそれ怖いと。ね。
前も言ったけど、わたしさ、中学生のころに、番長みたいなやつがいて。ちょっと番長って古いけどね、なんかこう――隣のクラスのやつなんだけど、学年をシメようとして、なんかいろんな、ちょっとこうめぼしいやつにケンカふっかけてる、なんかそういうやつがいたんだね。体がでかくて。で、わたしは別に関係なかったんだけど、体がでかかったからか、わたしにもそいつがなんかやってきて、よくその人とやり合ってたんです。わたしも、なんていうかちょっと正義感が強かったっていうか、まあ闘争心が強かったんだね。その人と何回かぶつかり合ったりしてた。
で、そいつは普段はそういう、怒りまくってるやつで、で、もう弱い者はガンガン自分の子分にしたり、あるいはけんかして打ちのめしたりっていうそういうひどいやつだったんだけど。で、わたしにもなんかいろいろ脅し文句とか言ってきて――うちの学校って山の中にあったんだけど、「おまえ放課後、山の上に来い」と。「石でおまえの頭を粉々にしてやる」とかね(笑)、なんかドラマみたいな脅し文句をいろいろ言ってきて(笑)。で、わたしもそのころはすごく闘争的だったから「ふざけんな!」ってワーッて言い返してたんだけど。そういうようなやつだったんだけど、そいつが、またわたしとなんか言い合いしてるときに、ちょっと間が空いたんだね、ちょっと。ふっと間が空いて、シーンってなったときに、「なあ?」とか言いだして、「人間って死んだらどうなるんだろう?」とか言いだして(笑)。「おれっていう存在がなくなるって」――なんかいきなりそういう宗教的な話になったんだね。「おれっていう存在がなくなるってどういうことなんだ? なんか気持ち悪いよな」っていうことを言いだしたんだね。で、わたしはそのころからそういうヨーガとかも興味あったから、「あ、なんか、こんな学年をシメようとしてるような、けんかばっかりしてるやつもこんなこと考えるんだな」って思ったんだけど。
でも、この人の考えてるのはまさに、多くの人が空とかに対して抱く恐怖と同じなんです。「わたしがなくなってしまうんだろうか?」「わたしがなくなるってどういうことだろう?」――皆さんもそういうことを考えたことが一度や二度はあるかもしれないね。わたしがなくなるんですよ。なかったことになるんですよ。ね。これって怖いでしょ。わたしがなかったっていうことになる。どういうことだと。でもそれは錯覚なんだね。もともと、そういう意味で言ったら、もともとわたしはないんです。つまりエゴっていう意味でのわたしはない。でもヨーガ的に言うならば、真のわたし――まあ仏教ではそういう言い方しないんだけど、本性っていうのはもともとある。もともとあって、それは終わらない。なぜかっていうと、始まっていないから。始まっていないし終わることもない、純粋なる、なんていうかな、本質みたいなものがある。しかしそれをまだよく分からないわれわれは怖がるんだね。で、これがこの雷雲の例えなんだね。
つまり、ここでいう雷雲のイメージっていうのは、夏の、例えばそうですね、ほんとは、作物とか、あるいはわれわれの飲水とかも含めてね――水が欲しいときになかなか雨が降らないと。なかなか雨が降らないときに、空が暗くなってきて、ゴロゴロゴロとなってきたと。無智な人間はそれを怖がるわけです。「あ! 雷が落ちる」と。あるいは雷さえもよく分かんなかったら、「なんか空が轟音を立てている!」と。「なんだこれは!」と。「うわー! 助けてくれー!」って思ってたら、ザーッて降ってきて、地は、それまで枯れていた大地は潤い、それまで例えばわれわれが水に飢えてたとしたら、その水でわれわれは潤される。つまり、恵みの雨をもたらす雷雲を、もしわれわれが無智で、その本質を知らなかったら、怖がるわけだね。しかしそれは恵みの雨をもたらしてくれると。それがここの例えだね。
つまりわれわれは無智だから、空というものを錯覚してる。最初はよく分かってない。分かってないから文字どおりとらえ過ぎちゃって、何もなくなるとか、無になるってとらえちゃって、恐怖が生じる。で、「修行しても意味あるのかな?」「え、なんかおれの到達点はそういうことなのかな?」っていう無智な恐怖とか、無智な、なんていうかな、ニヒリズムとかが生じるわけだけど、そうじゃないんだと。われわれが到達すべき点っていうのはそうじゃないと。で、それはもちろん正しい修行をしていけば最終的には分かります。分かるけども、その前の段階でもわれわれは、そういう間違った、空っていうものに対する概念を持たない方がいいね。
いつも言うけどもね、どっちかなんだよ。どっちかっていうのは、この、われわれが到達すべき最終の悟りっていうのは、言葉で表わせないんです。表わせないから、世の、過去の聖者たちは、どっちかで表わしたんです。どっちかっていうのは、素晴らしいものがあるよって言うか、何もないよって言うか、どっちかしかなかったんだね。で、どっちかっていうとヨーガは、その前者の方、つまり真我っていうのは最高の至福であって、自由と、完全なる実在と、歓喜を備えてるんだよっていう言い方をする。で、仏教の方は、いや、一切は存在しないんだよっていうのを言う方が強かったんだね。で、密教はちょっとヨーガに近い。すべては至福なんだっていう言い方をするんだけど、でもどっちもほんとは間違いなんです。その言葉では表わせない、言葉を超えた本性があるんですね。
それは最後には悟られなきゃいけないんだけど、そうですね、最初の、われわれがもし今の無智の段階でね、持つイメージとしては――わたしはどっちかっていうとやっぱり、ヨーガとか密教的なイメージの方がいいと思う。つまり、われわれの心の本質っていうのは素晴らしいんだと。で、今ここで素晴らしいって言って今皆さんが思う「ああ、そうか、素晴らしいんだ」っていうのは、それは多分ちょっと外れてるんだけど、でもそれでもいい。その方がいいと思います、どっちかっていうとね。「そうか、わたしたちの心の本質は素晴らしいんだ」と。でも皆さんが修行してほんとにそこに到達したら、自分が考えてたこの素晴らしさとは違った。違ったけど、もっと素晴らしいです。ね。だからいいでしょう(笑)。でもそうじゃなくて、すべては無だとか、なんかそっちの方で凝り固まっちゃうと、頭がガチガチになって、なんていうか、そうだな、修行の推進力があんまりなくなると思うね。
バクティヨーガっていうのはもう完全にその前者、その素晴らしさを強調したヨーガだね。つまり「この世は神の至福ですよ。すべては神の愛に満ちあふれています」っていうことを徹底的に修習する。それはある意味当たってるんです。当たってるんだけど、そこでその言葉によって考えるこのイメージはちょっと外れてるんだけど、でもそれが修行によってどんどん純粋化していく。ね。最初は全く違う意味で「この世は素晴らしい」って思ってたんだけど、だんだんこの「素晴らしい」の意味が変化していくんです。つまりわれわれの修行の進歩によって、仮のものが本当のものに近づいていくっていうことです。
だからとらえ方としては、わたしはやっぱり――もちろんサラハもそっちの方を推奨してるわけだけど――そっちのイメージでとらえた方がいいと思うね。つまり空性っていうのは、われわれが到達する空の境地っていうのは、何もない、ニヒリスティックなものじゃないんだと。純粋なる歓喜に満ちあふれた、喜びの世界なんだいうことだね。
はい。なかなかサラハは難しいですね(笑)。何度も言うけども、このすべてを皆さんがこの時点で理解する必要はないです。しかしこのエッセンスっていうのを心に刻み込んで、修行が進むたびにその理解を深めていったらいいね。
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