yoga school kailas

解説「王のための四十のドーハー」第二回(10)

 で、これはもう一つ別の意味もあります。これは、今度は、修行者、もしくは仏教学者に対する、まあ、注意ですね。つまり、教えを学び――もちろん教えを学ぶことは素晴らしい。しかし教えの言葉面、あるいは知識的なものだけにとらわれてしまい、それを実践しようとしない、もしくは瞑想によってそれを完全に悟ろうとしない人への注意です。
 つまり、「浅はかな知性を持つ者は、この世のものに強くとらわれ続けるが」云々ってあるけども、つまり、われわれが例えば仏教書を読んだり、ヨーガの本を読んだりして、「あ、分かった、こういうことか」とか、「あ、なるほど、こうですね、こうですね、こうですね」――これは頭が良ければ、誰でもそれ程度の理解はできる。しかしそれにとらわれ、それで自分が悟ってしまったような気になってしまうと、失敗する。つまりそれは、いつも言うけども、教えっていうのはあくまでもヒントであって、そこに答えがあるわけではない。でも傲慢な人、もしくは自分が、なんていうかな、まあ優秀だと思いたい人っていうのは、その自分の知性、知識に執着してしまう。これはいろんな段階、いろんなレベルであると思うね。だから、そうじゃないんだと。もちろん教学は大事です。教学は大事だけど、それはあくまでもわれわれをつくり変えていくためのヒントであって、それによってまず――段階的に言うと、まずそれによってそれを実践して、実践することによって自分を変えていかなきゃ意味がないんだと。あるいはもう一つは、しっかり瞑想をして、その真の意味を悟らなければ意味がないんだ、ということだね。
 しかし、そうでない――まあこれ、例えばさ、一番いい例では空の教えとかそうだね。よくSNSとか見ても、空の論争とかよくコミュニティとかで湧き起こる。で、みんなが自分で本を読んだ知識で、「空とはこうだ」「いや、あなたのは間違ってる、空とはこうだ」っていろんなことを言い合いしてる。これはまさに、空という、ほんとは悟らなければ誰も分からない教えを知識的に学んで、とらわれてしまった、わたしはそれを理解したってとらわれたことによる弊害だね。つまりそれによってその人は、一生空を悟れない。そこにとらわれてる限りは。つまり、せっかくヒントとして素晴らしいものがあるのに、ヒントが障害になってるんです。ほんとに柔軟な心でそれを受け入れ、さあ、これを実践し、あるいは瞑想し、あるいは師の助けを借りて、真髄を悟ろうっていう謙虚な気持ちになってればいいんだけど、そのためのヒントなんだけど、それにとらわれてしまったがゆえにヒントが障害になっている。こういう場合があるんだね。
 だからこれは、傲慢さとかとも非常に関わるんだけど、これもだから皆さん――まあ、この中にはそういう人はいないと思うけど、将来的にそういう罠に陥らないようにしなきゃいけないね。
 そうだな、まあ、例えば皆さんが将来、これから五年、十年後とかに、多くの経典、多くの教えの言葉を学んで、多分普通の人に比べたら相当仏教やヨーガのことを知ってますねっていう人になるでしょう。でもそれは、あくまでも言葉であって、あるいはあくまでも、悟りのためのヒントにすぎない。もちろんヒントは大事です。大事だけども、それはゴールではないんだ、っていうことをちゃんと認識して、それを実際に使わなきゃいけない。
 お金を集めたけどまるで全く使ってない人のように、あるいは多くの武器を手に入れたけど使い方が全く分からない人のように――そういう感じだね、知識だけ集めてる人っていうのは。だから知識は必要。しかし次は、それをいかに使いこなすか、あるいはいかに、瞑想によってその真の意味を悟るか。
 チベットではよく、学ぶ、思索する、瞑想するっていう言い方がされるんだけど、わたしに言わせると、もうちょっと細かく言うと――あ、これね、原始仏教ではもう一つ前に入るんです。まず、聖者に会う。会うっていうか、その聖者に近しむっていうか。親近成就者とかいうんだけど、成就者、聖者に近づいて、教えを受けたり、あるいはエネルギーを受けたり、そういう第一段階がある。そして教えをしっかり学び、そして学んだものをしっかりと考える。で、瞑想する。で、この瞑想するっていう言葉が、実際は「実践する」っていう意味も含んでるので、「瞑想し、実践する」。まあ、だからこの瞑想と実践っていうのは二つの枝葉みたいな、枝分かれした葉みたいなもんです。
 つまり、もう一回言うよ。まず、自分の師匠とか聖者とか、そういった存在と近しくなり、そしてしっかり教えを学び、そして学んだものをしっかり考え――考えたら、ここからちょっと枝分かれします。枝分かれっていうのは、まず一人のときはしっかり瞑想して、その深い意味に到達する。で、人々と接するときは、その日常の中で教えを実践する。これは両方大事です。で、これによって、その教えそのものが自分の身になっていく。
 だから、もうちょっと具体的に言うと、しっかりと例えば――まあ、皆さんで言うとですよ、皆さんで言うと、ちゃんとこういう勉強会とかクラスとかに通って、っていうのが第一だね。そして、しっかりと日々教学をすると。で、その教学の仕方は、最初はよく分からなくてもいい。ひたすら読む。ひたすらデータを自分に入れる。で、だんだん理解が進んできたら、より深く考えてみる。「これはどういうことを言ってるんだろうか?」っていうことを自分に当てはめたりしてひたすら考える。で、相当理解が進んできたら、まあ、それは今言ったように瞑想と実践に分かれるわけだけど、一人で瞑想するときは、それについて思索して、深く考えたり、あるいは実際にいろんな瞑想法をやることによって、その本当の意味を悟ったり。で、日常生活においては、その自分が学んである程度理解した教えを、実際に使う。ね。使うっていうのは、例えば慈悲の教えを学んでたとしたら、日常生活で実際に慈悲の訓練をする。これによって、自分の駄目なところとか、あるいは成長してるところがよく分かる。で、それによってまた、しっかり教えを学んで、繰り返し自分をつくり変える手段として使う。
 あるいはそうじゃなくて、瞑想によって、ひたすら――まあ瞑想の場合、いろんな瞑想があるけど、ひたすらいろんな瞑想をして――つまり教えっていうのはさ、ヒントをひたすら外側からじわじわとやってるようなもんだから。逆に言うと、教えがないと、瞑想で深く突っ込んだときに、ちょっと間違う場合がある。どこに進んでいいのか。で、その教えっていうヒントが、瞑想で深く入ったときに役立つときが来ます。「あ! そうか。こういうことだったのか」「あ、そうか。このときはこれを出せばいいのか」――それによって、それを足がかりにして、もうちょっと深い真理を悟れたりする。だから、こういったもののために教えっていうのはあるんだね。
 しかし、もう一回ちょっと戻ると、さっき言った一番最初の、はい、まず教えを学びましょうっていう段階で引っ掛かっちゃう人がいるわけです。「おれはこんなに教えを知った」と。「だからわたしにはもう修行とか必要ありません」と。「なんでも聞いてください」と。「わたしは仏教やヨーガのいろんなことを知ってますよ」――これは、全く価値のない人生になります。いや、確かに知ってるでしょうが、あなたの魂は一切進化してないと。だからそうなっちゃ駄目だっていうことだね。そうなりそうなタイプの人はあんまりここにはいないかもしれないけど、まあ将来的にね、もし皆さんがそうなりそうだったら、それはもちろん意味のないことですよと。
 はい。じゃあちょっと今日はこの辺で終わって、質問があったら聞いて終わりにしましょう。はい、何か質問ある人いますか? 
 ちょっとこのシリーズは難しいかもしれないね(笑)。どんどん難しくなっていくような気がするんだけど(笑)。
 これは、何度も言うけど、心の本性をいかに悟るかのタイプの教えです。で、この間やった六ヨーガの教え、あるいは日々皆さんがクラスとかでやってるようなエネルギー的な修行は、エネルギー的に物理的に、われわれがいかに自分を浄化し解脱するかの教えだね。
 で、『入菩提行論』やあるいは『バガヴァッド・ギーター』に代表されるようなものっていうのは、いかにこの世で自分をつくり変えるかの教え。
 この三つが非常に重要です。で、だいたい盛り上がるのはその最後の教えなんだね(笑)。いかにつくり変えるかの教えが、みんなは一番盛り上がる。でもこれはね、いいことだと思います。それが一番重要だから。でもまあ、少しはこういった教えもやっぱり学んどかなきゃいけない。いかに本質を悟るかの教えね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする