カルナー
仏教で言う「悲(=カルナー=哀れみ)」とは、同情でもなければ、さげすみでもない。
カルナーの裏側には、マイトリー(慈愛)がある。
慈愛の定義は、全ての衆生に、真の幸福を得てほしい、という強い思いだ。
(ここにおいて、「全ての」「真の」という部分が重要だが、今回はあえてこれについてはこれ以上言及しない。)
相手に幸福になってほしいと強く思っているとき、相手が苦しんでいたらどうだろうか?
当然、「その苦しみから解放されてほしい!」と強く思うだろう。
これがカルナー(悲)と呼ばれる哀れみなのだ。
もっといえば、
「その苦しみから早く解放されてほしい!」
「私ができうる限り、彼が苦悩から解放される手助けをしてあげたい!」
「そのためには私が身代わりになっても構わない!」
--これがカルナーである。
ところで、一般にいう「同情」の裏側には、慈愛ではなく、恐怖がある。
「私はこういう苦しみの状態には陥りたくない」という恐怖だ。
そのような、自分が陥りたくない苦しみの状態に他者が陥っているのを見たとき、同情が生じる。
「ああ、哀れだね。かわいそうだ。同情するよ。私はそんな苦しみに絶対陥りたくないのに、君が陥っているとは。」
--これが、一般的な「同情」だ。
同じ「哀れみ」という言葉が使われていても、このような「同情」と「カルナー」との間には、天と地ほどの違いがある。
つまり逆に言えば、カルナーと呼ばれる哀れみを発するには、自分自身の恐怖や苦悩は、ある程度乗り越えていなければならないということだ。
そして「さげすみ」的な哀れみは、その裏側に、慢心がある。
本当は自分だって、多くの悪しきカルマを内在し、この無常な世界の中で、いつ、苦悩の世界にまみれるかもしれないのに、それが見えず、一時的な、そしてちゃちな幸福の状態に慢心している。そして苦しんでいる人や、自分より何かが劣っている人を見たとき、その相手をさげすみ、否定し、悪い意味での哀れみをもつことで、自分の優位性を確認し、安心に至る。
このような哀れみ、さげすみは、ただ自分に害をもたらし、自己の成長を阻害するだけだ。
よって人はまずカルマの法則を学び、懺悔を行ない、謙虚になることが大切だ。
そして自己の中の悪業や弱さと向き合い、対決し、乗り越え、恐怖に打ち勝っていくことだ。
そうすることによって、生来の智慧とともに、純粋な慈愛の心が現われる。
もちろん、そこまで行かない段階でも、日々、繰り返し、慈愛の心を培うことが大切だ。
何をしているときも、常に衆生の幸福を願うのだ。
そのように励みつつこの世の中を見つめるならば、自然にカルナーの心が生じ始めてくるだろう。