yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第五回(3)

◎修行の本当の中心点

 もちろんね、実際これは二つ挙げていますけども、そのバランス的なものは、それぞれのレベルでいろいろあっていいかもしれない。例えばね、これも何回か言ってるけど、わたしの個人的な修行のフィーリングで言うとね、何度も言ってるように、わたしは最初は、あまり菩薩道も、あるいはバクティもよくわからなくて、まあ、ただちょっと修行のかっこ良さに憧れてね。あるいは、もちろん根本的に、「わたしはなんのために生まれてきたんだろう?」っていう疑問があって。で、「あ、これは解脱しかない」と。うん。つまり、単純な教えであるとか、人から教わったことを学ぶだけじゃなくて、わたしがほんとに悟りを開くしかないんだと。そのために人生はあるんだ――まあ、つまり基本的な解脱の思想に中学生ぐらいで目覚めたわけですね(笑)。で、修行を始めたと。
 ただね、今思い返すと、そうは言ってても、そのころからちょっと、慈悲みたいなのはやっぱりありましたね。なんでかっていうと、前も言ったけどさ、ちょっと覚えてるのはね、高校生のころに、家で一人で修行してるときにね、いろんな肉体的浄化が起きて。で、そのときに――何度も言ってるので端折るけども――この脇の下のリンパがこぶし大に腫れちゃって、それによって体中にいろんな浄化が起きたことがあったんですね。で、この、患部っていうかこの脇の下の部分も、まあ定期的なんだけどすごく痛むんだね。それは当たり前なんだけどね(笑)。多分大量のばい菌が入ったんでしょう。すごく痛む。で、もうじっとしていられないっていうか。それで横になりながらじっとしてたんだけど。でもそのときわたしの中に――それは前生の記憶なのか、あるいは仏教の本とか読んだからなのかわからないけど、自然に――わたし、そのころからね、ヴィヴェーカーナンダとかのいい話でよくあるようなね――ヴィヴェーカーナンダがさ、例えば仕事がなくて家計が苦しいことをね、カーリー女神にお願いしようと思ったんだけど、「いや、そんなことはできない」と。「わたしはこのような絶対なる女神様の前に来たら、もう、智慧と愛をお与えください――それしか言えなかった」っていう素晴らしいエピソードがあるけども、わたしもなんかそんな感じで、そのころはもちろんバクティの思いは強くはなかったけど、当然基本的なヨーガでも神っていうものを重視するから、神っていうものを信じてはいたけども、その神に、例えばですよ、「この痛み治してください」とか「病気治してください」って言えなかったんだね。そんなこと――なんていうか、ちょっとかっこ良く言えば、若干気高い気持ちがあったっていうか。うん。そんなこと恥ずかしくて言えないと。「解脱させてください!」とかは言えるけども、「この病気治して」みたいなこと言えない(笑)。恥ずかしいと。言えないと思ってたんだね。
 で、そのときわたしが心に思ったのは、わたしは苦しんでもいいですと。その代わり、地獄の住人たちが、みんな安らかになってくださいと。わたしが苦しむことで地獄の住人の苦しみが少しでも取れてくださいと。で、もう一つは、わたしが苦しむことで――わたしは無智なので、こういう苦しみを経験させてもらうことで、地獄の住人の苦しみがもっと理解できるようになれたらいいと。あるいは理解できるようにしてくださいと。こういうふうに祈りながら耐えてたんだね。別にそれは誰から教わったわけでもなく。そしたら、ほんとに劇的に、ふっと痛みがなくなったんです。「おお、これはすごい!」と思って(笑)。うん。ちょっと慈悲の仕組みみたいなのがわかったっていうか。
 ただそのころはね、まさにそういうことを自然にそういう感じでやってただけだったので、実際には、菩薩道がすごいとか、菩薩道しかないんだみたいな気持ちはなかった。そういうのがたまにあって、そういう経験がちょっとあっただけで。自分のやっぱり主眼としては、さあ、いかに解脱するか、みたいなのが中心だった。まあ、あるいはね、やっぱりちょっとヨーガにロマンを感じてたから、そのころはいろんな経典とかを買ってきてね、自分なりに試行錯誤しながら、いろんなヨーガ行法をやってたと。そういう時期だったんですね。
 で、だんだんだんだんいろんなヨーガや仏教の修行をしたり教えを学んだりしていくうちに、だんだん、「あれ? あれ?」って気付いてきた。「あれ? あれ?……これ、菩提心じゃない?」「結局菩提心じゃない?」っていうのに気付いてきた。まあ、あるいは、「結局慈悲じゃないか」と。つまり結局、いろんなタイプの修行があるけども、ほんとのほんとの中心点、狙いは、エゴの放棄と完全なる慈悲、これしかないっていうことがわかったんだね。これは別に誰から教わったわけでもなく、「あ、そうだ!」ってことが修行経験としてわかった。で、それからわたしの、まあ、さっきの言い方をするならば中心点っていうか修行動機の中心は、菩薩道に完全にシフトしていったんだね。
 で、その後また数年たって、今度はバクティに目覚めてきた。つまり――その意味では、最初は解脱を目指してて、で、それから菩薩道を目指すようになって、で、神への帰依とか神への愛とか明け渡しとかっていうのは、もちろんそれは思ってたけども、ちょっと補助的なものと思ってたんだね。菩薩になるんだと。そのために神に帰依するとか神に導いてもらうとか思ってたんだけど、でもまた、そうじゃないような気がしてきた。で、だんだんだんだんまたシフトしてきて、「あ、バクティこそすべてだった」と。「おれが救う」とか思ってたけど(笑)、じゃなかったと。すべてわたしは神の手のひらの上で踊らされていただけであったと。すべては神であって、神の仕組んだリーラーにすぎなかったと。「ああ、神よ!」っていうことに目覚めたんだね。
 だから、わたしがもし皆さんに、最高の教えを一つだけ教えてくださいと言われるとしたら、それはもちろんバクティを勧めます。うん。しかし実際には、わたしの今の経験でもそうだしね、皆さんへのアドヴァイスとしても、できるならばこの、バクティの意識と菩薩道の意識、どっちも持ってほしいと思うね。そうしたら非常に、皆さんの個人の修行にしろ、あるいは皆さんが将来的にみんなにいい影響を与える存在になれるかどうかっていうことにしろね、それはとても大きな進歩があると思う。

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